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神を物語るということ

ここに一つのマグカップがある。表面には薄くなってしまったけれどスヌーピーが描かれていて、どっしりとした形はどこも欠けていない。実はこのマグカップ、私が幼稚園の頃から使っているものである。40年近く使っていることになるのだなぁ。他の食器はどんどんと割れて新しいものに変わっていったのに、このマグカップだけはいまだに変わらない。物持ちがいいと言い表せない奇跡である。さすがにここまで割れずに残ったものに愛着が湧いている。今後も大切に使っていくだろう。そして一生涯割れなかったら棺桶に入れてほしいものの一つである。

 

日本では長い年月を経たものは魂を持つと考えられている。100年を経た道具は付喪神となり、歳を経た猫は猫又となるといった具合に。このマグカップも40年近く経っているのだから、魂の片鱗はすでにあるのかもしれない。ふとそんなことを思うと愉快な気持ちになってくる。

 

時を経るということはどういうことか、まずそこから考えてみよう。時間とは遙か過去から遥か未来まで一方向に流れるもの。三次元の世界で暮らす以上、光速に近づくことでその流れを相対的に遅くすることはできるとしても、今の世の中では、遡ることは不可能である。生み出され、徐々に形や性質を変え、最終的には消滅してしまうのは、この世にあるすべてのものの宿命である。だが、その時間の流れを人間の尺度で測ると、永遠に見えるものが存在する。縄文杉などの巨木を思い浮かべればよいだろう。屋久島はもののけ姫の舞台のモデルだ。倒木が苔生している。巨木が占める森は日光を遮りほの暗い。この世とは思えないような景色。そのような森に樹齢1万年以上の巨木が屹立している。テレビ越しでしか見たことないのに圧倒される。実際に見に行ったら、さらに圧倒されることになるだろう。日常ではあり得ない光景が、人間の一生では体験できない時間を見せつける。だからその光景に人間は圧倒されるのだ。付喪神も猫又も時を経て変化するものを恐れるのは、圧倒的な存在になろうとしているからなのだろう。目の前にあるマグカップは40年近く使い続けてきたものだ。このような長い期間割れずに使ってこれたのは物持ちがいい以上に奇跡的である。そのマグカップには私の半生が詰まっている。分身の1つと言っても良い。他のマグカップには感じない圧倒されるものがあるのである。魂も半分ぐらいは籠もっているかも。そんなことを思ってしまう。

 

だけど、それは私に限った話。このマグカップの謂われを知らなければただの古くさい、印刷の禿げたマグカップでしかないのである。漫画の『peanuts』の登場人物であるライナスはいつも毛布を持ち歩いている。その毛布は当人にとってはとても大切なものであるが、他者にとってはただの毛布であるのと何ら変わらないのと同じなのだ。つまり時間を経ているから圧倒されるのではなく、どのような時間を経てきたかを理解して圧倒されるのである。時を経るということは、圧倒的な存在となるための条件の1つでしかないのだ。

 

電気ケトルでお湯が沸いた。それをガラス製のティーポットに移し、カルディで買ったアールグレイのティーバッグを入れる。ティーバッグの中の紅茶から染み出したエキスが、ポットの中を徐々に紅く染めあげていく。それがなんとも美しい。そう言えば、このティーポットも10年以上使っている。改めてそう思うと普段使いのものなのに感慨深いものを感じるのである。そのため以前より愛着を感じ始めている。

 

でも、なぜ付喪神とならないように99年経ったものを壊したり、猫又にならないように年老いた猫を山に捨てたりしたのだろうか。それは圧倒的な存在になって、人の手に余るようになるからだろうか。

 

いい蒸れ具合となった紅茶を例のティーカップに注ぐ。ベルガモットのいい香りが鼻をくすぐる。そしてカップに口をつけ、まずはひとくち。そしてくくぅと一気に飲み干す。ああ、やっぱり美味しい。この1杯のために生きていると言っても過言じゃない。1日の疲れなんてすっ飛んでしまう。神についていろいろ考えて疲れていたけれど、その疲れもリラックスできた。私にとって必要なのは、酒でも珈琲でもなく、圧倒的に紅茶なのだ。それもカルディで売っているものなのだ。コンビニで買えるものはちょっと違うのである。このようなものが存在するなんて、なんてありがたい。この紅茶は私にとって圧倒的な存在なのだ。だが、この紅茶は時を経たものでなくても圧倒的なものは圧倒的なのである。

 

では、圧倒的なものとは何なのだろうか。それは神のことである。圧倒的な存在、現象を理解するために人格と物語を与えているのである。日本の神をぱっと思い浮かべると天照大神が思い浮かぶ。ご承知のように太陽を象徴する女神であり、天岩戸の逸話や素戔嗚尊との逸話に事欠かない。ほかの神々も物体または現象を象徴する存在で、人知の及ばない圧倒的な存在だけでなく、人間のすぐ近くに存在する物質や現象にまで神は存在している。八百万の神々というように万物には神が宿っているとされているのだ。つまりこのマグカップにだって、ティーポットにだって神が宿っていることになる。圧倒的な存在であるというのも、神を語る1つの条件でしかないのだ。神は万物に宿ると認識してしまったら、もう、何でもありなのだ。このマグカップの中に神がいるでもういいや。思考停止状態でマグカップを見ていると、とてもありがたいものに思えてくる。そこには神がいるように思えてくる。それが事実であるかは別として。つまり、神とは存在すると思えば存在し、存在しないと思えば存在しないものである。

 

神が存在するか、しないかは問題ではなく、そこに神がいると信じ込ませれば良いわけで、その根拠こそが重要なのだ。時を経ている、圧倒的な存在であるとは、神であることの根拠なのである。そしてその神は人格を与えられ、物語を与えられて、私たちの日常と地続きとなる。

 

あれ、これは物語に耽溺する人々と同じじゃないか。作品を、その中のキャラクターを耽溺し、物語の場所を聖地巡礼と証して訪れる。大量に物語が生み出される状況は神が毎日のように生産されているともいえる。

 

だったら、このマグカップも物語の力で神としてしまおう。そして毎夜、そのマグカップに紅茶を入れて飲み干すという神事を繰り返すのだ。

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