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藤田嗣治と近代社会

ボートというのは不思議な乗り物である。前に進むためには、後ろを向いたままオールを漕がねばならない。進む方向を直接みることは難しい。ボート競技であるならばコックスが指示を与え励まし、選手はただ懸命に漕げばよいが、コックスがいなければ不安な船旅になってしまうだろう。この文字通り後ろ向きな行為が前に進むために必要になるのである。

本稿では、ボートで漂流する米兵達を描いた藤田嗣治の作品「ソロモン海域に於ける米兵の末路(以下「ソロモン」)」(1943年)を見ながら、この絵から感じ取れる近代社会というものや、藤田が何を思いこの絵を描いたか探りたい。

藤田の描いた「ソロモン」はタイトルを見なければ描かれているのが米兵だとは分からない。着ているのが軍服なのかどうかよく判別がつかないし、星条旗といったシンボルマークは見当たらない。自国の戦艦が沈んでしまったのだろうか、命からがら逃げてきた7人の米兵がオールのないボートで荒波に揉まれながら漂流している。左舷の彼方には鮫の集団が泳いでおり、不穏な雰囲気がただよってくる。

その中で一人の男だけが、前方を背にしてはるか後方をじっと見つめ腰に手を当て立っている。周りの米兵が疲労と絶望でうつむいている中、この男だけが周りと異なる感情をもっているとみえる。ところで何故後ろ向きに立つ男を描いたのであろうか。画面を見るとボートは左から右へと進んでおり、男は画面の左側を向くように立っている。後ろ向きに立った男は一体何を見ているのだろうか。

後ろを振り向く行為は、過去を振り返ることの喩えとして使われることがしばしばある。ボートの進む先が未来であるならば、すでに通ってきた航路を見ることは過去を顧みることではないだろうか。普通人びとが過去を振り返る場面は様々あるが、ひとつには反省というものがある。あのときどうしてこんなことをしたのか、もっとこうすればよかった、という反省である。するとこの後ろを向いている男も反省しているということなのだろうか。過去を振り返り反省する米兵。このように描いたとすれば藤田は米国に反省を促したということなのだろうか。

藤田が感じ取った日本とフランス、あるいは大雑把だが日本と欧米のちがいとはなんだろうか。社会学者のギデンズは、再帰性という言葉を用いて近代社会を描写した。再帰性とは、近代以前においては伝統や慣習制度に従っていれば問題なく生活できたものが、近代では伝統や昔からの制度が崩れ去り、常に自ら選択、行動、内省していかなければならない、ということである。フランスへ渡った藤田は、近代化され自立した個人を直接肌で感じ見てきたのではないだろうか。

後ろを振り向くという行為は、一見ネガティブな響きをもつように感じられるが、よりよい行動をするためには自らの経験を省みて、よりよい選択をしなければならない。これはビジネスの話でよくでてくるPDCAサイクルと同じようなものである。後ろを向く男は、視線は後ろを見ていても、前に進むべき道を探している。オールがあれば彼は真っ先に漕ぎ出すだろう。

フランスへ渡った藤田はそこに近代化されたフランスと形だけの近代化をしてきた日本を対比したのではないだろうか。彼はフランスで自立した個人を見て、日本の遅れを感じたのではないだろうか。

彼が描いた日本兵の絵では、そこに「個」は感じられない。がむしゃらに前だけを向き、猪突猛進するのみである。そこには後ろを振り向く余裕はない。日本全体の向かうべき目的地はあったかもしれないが、日本人個人としての向かうべき場所はあったのだろうか。

藤田は戦時中に負けた米兵を描き、日本と対比させたが、それは必ずしも戦意高揚にむすびつくようなものにはみえない。それは同時期に山下菊二が描いた「日本の敵 米国の崩壊」(1943年)のような米国に対する典型的な敵意を感じさせるようなものとは異なっている。ちなみに山下は戦後になると、戦中の自らの行為を問い直したのか、社会的なテーマを扱った作品を描くようになる。

では、藤田が描いた近代化された社会が理想なのだろうか。近代化は人びとを個人化、すなわちバラバラにする。「ソロモン」で描かれた7人の男は、同じひとつの船の中にいるが、お互い関心をもたず、顔を手で覆い隠したり、別の方向を向いて互いに視線を交わらないようにしている。力強く立つ男にしても横になっている男を踏みつけるかのようにして立っており、特に関心を示そうとしない。軍人として同じ任務に就いている間は同じ米兵として連帯しても、戦場からはじき出され、ただ一人の個人となった途端、お互い他者という関係になる。無論戦争という極限状態で自分ひとりが生存するので精一杯で他人に構っている余裕はないということもあるだろう。

藤田は敗れた米兵を描きつつ、日本の敗戦を予感していたのではないだろうか。近代化された国と形だけで近代化されずに戦争に踏み切った国が戦えばどちらが勝つか藤田にとっては明白であっただろう。藤田は日本とフランス等の国々を行き来し、後に日本人というアイデンティティを捨て一人の個人となった。そうさせたのも近代社会である。

近代社会はまさに他人同士が不安定な船に共に乗って漂流するようなものであるともいえる。「ソロモン」で描かれた米兵の姿は現代の日本でみるとまた別の人びとにもみえてくる。

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