印刷

24時間を24時間30分にする~フリータイムを求めて~

朝のファミリーレストラン。一人の女性がテーブルに向かい一心不乱にノートに書いている。彼女が書いているのは「日記」である。だがよく見ると彼女が書いているのは円である。ただグルグルと円を描き続ける。ウェイトレスが注文をとりにくる。彼女は「ドリンクどれでも一杯160円」でコーヒーを頼む。彼女が描いている横を通り過ぎる男性客。彼女はこの30分がもう少し続けばいいのにと思いながらも、30分後に派遣先の仕事場に向かうのである…

 

岡田利規が主宰するチェルフィッチュによって公演された「フリータイム」(2008年)は朝のファミレスを舞台に一人の女性客を中心にウェイトレスなど様々な人物が語る群像劇である。ここに描かれるフリータイム、「自由な時間」とはなんなのだろうか。本論ではその時間について考えてみたい。

時間は誰でも平等に与えられているものである。1年365日、24時間をどのように使っていくか、それが人生であり、どのようにして意味のある時間にするか、多くの人が関心をもっている。書店に行けば、ビジネス書を中心に時間術に関する本が数多く並んでいる。どのようにして時間を有効に使うか、短い時間でどれだけ効率よく大きな成果をあげることができるのか。特に近年はインターネット、スマートフォン等のテクノロジーの発達によりスピーディに物事を進行させることができるようになった反面、そのスピードについていけない人も多くおり、時間を効率的に使うことに対して四苦八苦しているのが現代の日本の状況である。また時間を価値あるものにしようと追求しつづけている。

そんな時間、というものであるが、これを大きく二つに分けてみたい。主に社会人を対象することになるが、一つは労働時間、もう一つは労働時間外、休日である。人々は労働時間内に働き、その時間の長短もしくは成果に応じて報酬を得る。そして労働時間外において労働で得た報酬を用いて寝るための部屋、食料、着る服、電気、携帯電話のために支出し、映画を観て、体調が悪ければ薬を飲み、余韻を過ごす。そしてまた労働におもむくのである。

人々が労働するのは自立して生活するためである。生活するための糧を得るために労働があるはずだ。だが生活のための労働がしだいに逆転していき、労働のための生活になってくる。それは生活のための手段であるはずの労働が目的化するというものであり、これが現在まで続く資本主義の現実である。働く事が生きがいということが普通に言説され、働くことが当然となった世界で人々は生きている。このような現代において、結局日常生活は労働した後の休息と次の労働のための準備期間にすぎない。労働と切り離されているはずの遊びという行為も結局は労働の合間の息抜きにすぎない。海外旅行、スポーツ観戦、アイドルのコンサート、登山、映画鑑賞、休日の時間を人々は労働から解き放たれた「自由な時間」だと思い込む。しかしそれらの時間は長くは続かず、さらに満喫するためには労働しなければならない。どんなに自由に振舞い、楽しく過ごしたとしても、それらは労働の合間の息抜きに過ぎず、労働から完全に解き放たれることはできないのである。自由な時間だと思っていたものは幻想にすぎない。

マルクスによれば「労働力の価値は、その所有者(労働者のこと)の維持のために必要なる生活手段の価値」であり、生活手段の総額は「正常なる生活状態に維持するに足りなければならない」。生存手段はその人が生存するため、「明日、力と健康の同一条件の下で、繰返し」労働するための必需品となる。労働者の価値とは報酬でありそれは毎月受け取る給料という形で労働者に支払われる。その報酬の額は生活するに足りる額でなければならない。すなわち人々が受け取る給料は、再び働ける状態にするためのお金である。一方その額は生活に足りる程度しか得られないのである(*この額は労働者の子供達など家族の生活手段も含まれている)。

労働時間外の日常生活の時間は労働から解き放たれた時間だと人々は認識し、休息し遊ぶが、それらの行為は再び高いパフォーマンスで労働するための状態にするための時間にすぎず、労働から解き放たれた時間は存在しない。「フリータイム」で日記を書く女性はこうつぶやく。

 

 こうして生きているのって、私はたぶんこうして生きているのって、これって私の生きている/生きる時間を、誰かに奪われるためとかに生まれてきた/生まれてきてるってことなんだろうなあ

 

「誰か」とは、マルクスにいわせれば、資本家である。彼女が食事をして寝ている間も、資本家によって管理されている状態なのだ。彼女が毎月受け取る給料もそのためのお金にすぎないのである。彼女にとっての自由な時間、フリータイムは、朝のファミレスの30分、ノートに意味のない図形を描き続けることなのである。そこに意味を求めてはいけない。そこで読書したり、休日の計画を立てたりするような「意味ある行為」はフリータイムではないのである。意味のない行為によって、彼女は自由な時間を得られる。24時間にまぼろしの30分のフリータイムを付け加えることができるのである。

意味のない行為であるならばスマホのゲームも同様に思えるが、ゲームに意味は存在する。それはゲームをすることは暇をつぶすことであり、そもそもゲームは楽しいものである。そこには明らかに意味が存在する。ゲームをすることによってストレスが解消され、リフレッシュすることで翌日の労働を高いモチベーションをもってすることができるのである。

なにものにも縛られずに自由に生きたいというのは誰しも夢みるものである。だがそのためには金銭が必要であり、働かなければならない。働いて自由の時間を手にしようとしても、また労働をしなければならない。しかも労働の合間の生活は次の労働のための意味ある行為として消化(消費)されてしまう。

だが、結局どうあがこうとしても人々はフリータイムを獲ることはできないのではないか。朝のファミレスの30分も幻想ではないか。24時間を24時間30分にすることはできないのでは?そもそもある程度楽しく幸せに過ごせれば、そのような時間は必要ないのではないだろうか。ただ、現在は何をするにもそこに意味や価値が問われる。そもそも人間がなぜ生きているのか誰も明確に答えられないまま、人間の行為に意味や価値を問いかけることは不毛ではないだろうか。何ものにもとらわれない、自分だけのフリータイムをもつことは不可能かもしれない。「フリータイム」では、言葉を書くのではなく、意味の分からない図形を描く。なぜなら言葉自体に意味があるからである。したがって意味を取り除くためにはまず言葉を取り出さねばならない。その先にあるもの、そこに自由があり、生きる喜びが見出されるはずである。

 

 

【参考文献】

岡田利規「フリータイム」『エンジョイ・アワー・フリータイム』白水社、2010年

マルクス『資本論(一)』向坂逸郎訳、岩波文庫、1969年

文字数:2861

課題提出者一覧