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「音の世界」の暴力

音とは、暴力である。だから聴覚以外のものを捨ててはいけない。たしかに耳を傾ける事は神聖な行いである。神は聴覚を通して預言者に語りかけ、信じる者を救う。したがって神の言葉を乗せた音楽は神聖である。だが美しい旋律のみ欲してはいけない。アウグスティヌスは「肉の欲」(注1)のうちの耳の欲望についてこう述べる。

 

私は、信仰をとりもどしたはじめのころ、教会の歌を聞いて流した涙を想起し、いまでもそれが、きよらかな声とよくととのった調子でうたわれるのを聞くと、歌そのものよりむしろうたわれている内容に感動させられることを考え、このしきたりの大きな効用をあらためて認識するのです。(略)うたわれている内容よりも歌そのものによって心動かされるようなことがあるとしたら、私は罰をうけるに値する罪を犯しているのだと告白します。そのような場合には、うたわれるのを聞かないほうがよかったのです。(注2)

 

ここでアウグスティヌスが強調するのは、重要なのは歌の内容であり歌そのものの旋律のみに酔うことを戒めているということだ。

聖書にもあるように、古代から人々は世界を認識するために視覚を優位にしてきた。それはスマホやテレビを眺める現代でも変わらない。それに対してもっと視覚以外の五感を用いるべきだという意見もある。それは正しい。だが例えば聴覚なら、聴覚のみに頼るのはどうだろうか。「音の世界」は我々をよりよくするものなのだろうか。

阿部和重『アメリカの夜』は、「読書」と「映画」を奪われた男が最後、「音の世界」で暴力に向かう物語である。

主人公中山唯生は、「読書のひと」であり「映画のひと」であった。読書と映画、どちらも主に視覚で認識するものである。つまり彼は「みるひと」である。物語の冒頭では「音」はどちらかといえば軽んじられている。それは、彼がアルバイトで働いているホールもそうであった。そのホールは多目的施設でありながら催されたのは《演劇、映像、音楽、美術という四つのジャンルである。だが、その四つの「目的」のうちのひとつである音楽の催しがおこなわれることは、最近では皆無といってさしつかえないであろう》。

ともかく音の世界から離れた場所で「特別なひと」を目指していた唯生は「読書」と「映画」を、言いかえれば「言葉」を武器にすべく日々修練していた。だが、彼から徐々にそれらが剥ぎ取られていく。

まず起った事は、「読書禁止令」である。これまでは勤務中でも客がいなければなぜか読書することが許されていたのだが、勤務中一切読書することを禁じられる。彼はこれを「小春日和の終焉」とよんだ。彼は《「読書禁止」という不愉快な事態をむかえたいま、まさに「闘争」を開始しなければならない》と考えた。そして物語の終盤その「闘争」がおこなわれる。

終盤で「映画のひと」として、俳優として撮影現場に乗り込むが、監督やスタッフと揉め「映画のひと」となる道が閉ざされようとした。

「読書のひと」、「映画のひと」から読書と映画をひいたら何が残るだろうか。彼が行き着いたのは「音の世界」であった。そしてそれは彼にとって「暴力の世界」でもあった。

 

抵抗もできぬまま殴り蹴られる男たちのポケットから、何枚かずつの小銭が宙へとびだして地面におち、じゃらじゃらという音ではなく、チャリンという響きのよい音をさせている。(略)ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン、唯生の頭のなかでそれらの音が渦巻き、辺りは音の世界へと変貌していた。ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン。(略)ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー、缶ジュースの蓋を開けると、パシュッ、という音をさせて中身の炭酸飲料がとびだし、唯生は黒白の顔をぬらした。ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー……

 

ここに描かれている音の世界を単純に暴力の世界と捉えるのは行き過ぎかもしれない。だが、現代にとって心地悪い音、それは騒音ともよばれるが、そのような音の環境にいる人々にとって暴力以外のなにものでもない。

こどもの叫び声、花火、選挙カーや集団で走るオートバイ、これらの音が暴力となり人々を襲う世界。視覚の世界で生きることに慣れた人々にとって音の世界で生きることは地獄だ。では、そのような音の世界に対して我々は、どのように振舞うべきだろうか。

まずシンプルだが沈黙すること、周りに音を発生させぬ世界、ヘッドフォンを着け音を漏らさぬように生きる。ではどのように他人と音を共有すればよいのか。例えば「無音盆踊り」なるものがある。踊り手はイヤホンを装着し、FM電波で飛んでくる音を各自でつかみ踊る。したがって踊りの動きは他の踊り手と共有することができるが、音はイヤホンから直接聴覚へ突入し、周りに響かない。踊り手のみに聞こえる音の世界である。ここでは踊りを見る他者は別の世界にいる。踊り手とそれ以外の者が分離されている。

あるいは騒音を商品へ昇格させること。金槌の打つ音やクラッシュ音、身の回りの騒音を芸術としての音楽へと読み替える。「騒音芸術宣言」をした美術家ルイジ・ルッソロの次のような記述に対し、思わず中川真は狂気の沙汰だと漏らした。

 

私たちが想像しておもしろがるオーケストラは、デパートの自動ドア、群集のざわめき、鉄道の駅や製鉄所や、織物工場や印刷所や、発電所や地下鉄のさまざまなうなる音でできているだろう。現代の戦争の最新の騒音もわすれてはいけない。(注3)

 

戦争という暴力の行き着く先のものまでが音楽となる。実際武器が音楽となっており。例えばラッパーの50セントの曲「HEAT」では銃のスライド音と発射音がトラックの要素となっている。武器ではなく楽器を・・・という希求も虚しく武器その物が楽器となる。確かにそれは狂気であろう。かつてアドルノは音楽が大衆化し、商品になり下がった事を嘆いたが、現代では騒音が消費され音楽へ昇華されるのだ。そういう音の世界に我々は身を委ねてよいのだろうか。この狂気から逃れるために耳をふさいではいけない。視覚や他の感覚を用いて見なければならない。

 

 

注1・新約聖書ヨハネ第一の手紙第2章-16 「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の欲は、父から出たものではなく、世から出たものである」山田晶によれば、肉の欲とは五感による欲望を意味する。また目の欲は好奇心を意味し、視覚よりも幅広いものとして捉えている。

注2・アウグスティヌス『告白Ⅱ』山田晶訳、中公文庫(2014)

注3・中川真『平安京 音の宇宙』平凡社ライブラリー(2004)

文字数:2770

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