印刷

男が子宮を感じるとき

日本画家の松井冬子は次のような事を述べている。

 

芸術作品から言及不可能な感覚を引き起こし、痛みに近い感覚の発露を生む現象がある。見えるものが、伝達可能であり共同的であることに対し、痛みは孤独なものである。視覚という対象認知のすぐれた感覚は、痛覚という身体的存在の孤独性を解き放つことができるであろうか。(松井冬子展(2011年)公式プログラムより)

 

松井冬子が描く絵は一言でいえば鑑賞者に不気味さと痛みの感覚を与える。例えば内臓が露わになり横たわる少女『浄相の持続』や見返り美人図のような幽霊を描いた『咳』など。彼女はインタビューで、「一般的には、痛みや感覚みたいなものは共有できないと思われていますが、視覚から入ってくる痛みのようなものを通して人と人とが共感できないだろうか、人と人は痛みを共有できるのか」(*1)と述べている。視覚によって痛覚を喚起させられるのか、これが松井冬子作品の重要なテーマとなっている。痛覚への関心の高さは彼女が書いた博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒させる痛覚の不可避」という題をみてもわかる。彼女の絵のモチーフは女性ばかりだが、観る者が男性でもその痛覚を感じ取ることは難しくない。

女性も男性も当然同じ人間であるから同じように痛みを共有することができる。ただ男性には困難な痛覚がある。それはなにか。妊娠である。

ところで松井冬子の作品には妊娠への関心を思わせる作品がある。明らかにアイロニカルなタイトルであるが『世界中の子と友達になれる』(2002年)という作品だ。画面の左側には屈みながら画面の外側を向く少女、右側には空の乳母車が置いてある。この絵から様々な解釈が可能だがここで細かく論じる余裕はない、が自分自身の女性としての身体に起る思いも寄らない変化に戸惑いそこから目を逸らしたい欲求がみえる。ただ男性鑑賞者がこの絵を見ただけで、そのような思いを即座に共有することは困難である。松井冬子について論じた斎藤環も別の作品に関してだが「女性は比較的容易にこの身体にシンクロ、すなわち同一化することができる。しかし男性にはそれが難しい。さらけ出された子宮と胎児が、男性による同一を徹底して阻害する」(*2)と男性による共感の限界を述べている。確かに絵画による痛覚の共感には限界がある。では映画ではどうか。視覚による痛覚への共感は絵画より映画の方が優れている。映画ならば、男性でも妊娠を共感することができるのではないだろうか。

内藤瑛亮監督作品『先生を流産させる会』(2011年)は男性にも子宮がある事を感じさせてくれる映画である。しかも女性ではなく男性監督がそれを可能にしたのだ。

まず本作は、実際にあった事件をモチーフにしている。事件というのは、2009年愛知県のとある中学校で男子生徒数人が「流産させる会」を結成し、妊娠中の教諭の給食に薬品を混入させるなどのいたずらをした、というものである。本作のストーリーも5人の生徒が様々な悪質な行為で先生を流産させようとするものである。

内藤監督はこの事件に衝撃を受け本作を製作した。ただ事件と本作では決定的に異なる変更点がある。事件では男子生徒だったのを全員女子生徒に置き換えたのである。これによりこの映画の趣旨が180度転回する。それは「流産させる会」のリーダー格であるミズキの「サワコ(先生)、セックスしたんだよ」のセリフに表れている。もしこれが男子のセリフならば、単なる異性に対する性的興味にすぎないが、女子の口から発することにより、そこに性への嫌悪感が露わになってくる。男子から女子に設定変更する事で本作の意味合いはがらりと変わる。男である内藤監督が女性の感情をこのような想像力をもって映像化したことに驚きを感じずにはいられない。

一般的に妊娠というのは、おめでたいもので祝福されるものであり、かつ神秘的なものである。しかし同時にグロテスクさを感じさせる。妊娠には常にセックスという行為が背後に隠れており、単純な細胞が分裂し生物に変形する不気味さがあるからだ。また自分の子どもが元気で健康に生まれてくるかどうか不安を感じさせるものである。妊娠はミステリアスなものであると同時にサスペンスフルなものでもある。また、そのように感じさせるのは、胎児というのは生物とそうでないものの間にある曖昧なものであり見えないものであるからだ。胎児は水子とも呼ばれるがまだ「固体」になれないものである。そして文学においては、胎児はしばしば死者と同一化される。例えば大江健三郎の『死者の奢り』での妊娠した女子大生が死体の管理を行うシーン。堕胎するつもりだった彼女自身がしだいに出産に対する考えを変えていく。

『流産させる会』においてもミズキは胎児を死者のような不気味な「モノ」として捉えている。もし胎児が他の人によって死んでしまったらどうする?サワコ先生の問いにミズキは「いなかったことにする」と答える。彼女にとって胎児は入れ替え可能な、ただの「モノ」にすぎないのだ。何が彼女をそのような人間にさせたかはこの映画では明確にされないし、ここで論じるのは困難であるが、やはり、何らかの事情によって彼女自らが女であることへの嫌悪、大人の女性になることへの拒絶がみられる。

映画のクライマックス。いたずらを仕掛けて流産させようとした「流産させる会」は遂に直接行動に出る。すなわち文字通りの暴力。ミズキは棒状の物でサワコ先生を追い詰める。追い詰められ倒れる先生。そこにミズキが膨らんだ腹目がけて棒で叩き続ける。このシーンに女性はもちろん私達男性も思わず眼を背けたくなる。おそらくこのシーンを見て男性が「ウワッ」と呻く声が劇場内から聴くことができるだろう。衝撃と同時に何故か私達は自らの腹に手をあてる。この瞬間ふと思うのである。男にも子宮がある、はっきりと私達はこの時認識することができる。

妊婦の絵画や写真では子宮を感じさせることはできない。では何故この映画では子宮を感じさせることができるのであろうか。

まず押さえておきたいのはこの映画の主人公はあくまでサワコ先生であり映画の冒頭から彼女の校務の様子に多くの時間が割かれている。今や懐かしさを感じる(?)モンスターペアレンツの対応に悪戦苦闘する彼女に観客は共感する。監督は意図的ともいえるぐらいにモンスターペアレンツを悪として描き、先生と観客の感情を共有させようとしている(ただ後に相殺するかのようにモンスターペアレンツがやさしい母親になるシーンを描いているが)。このようにして彼女の労苦を上映時間の間共有することにより観客は主人公の先生に同一化する。それによって観客はサワコになるのである。クライマックスのサワコの痛覚に共感できるのは観客が上映されている「時間」を通して妊婦になったからである。映画は絵画や写真と異なり時間軸によって共感を得る事を可能にする。

 

終幕。エンドロールが流れ、映画館の暗闇から観客は明るい外に出てくる。妊婦から元の自分にまた戻る。いや、元のままではない。今までの自分と何かが違う、世界が違って見えると感じる。まるで新たな生命が生まれるかのように、観客は映画館の中から違う自分に生まれ変わること(reborn)ができるのである。

 

(*1)『美術手帖』2012年2月号、42頁

(*2)同上、92頁

 

文字数:3002

課題提出者一覧