印刷

物語なきデータベース的な映画

映画を「監督の作品」としてみると、現在においてそのような作品を見出すのは特に邦画においては難しいとわかる。そもそも映画広告のなかに監督の名前を探そうと思ってもどこにもない。やっとスタッフ欄の所に小さく載っているのが後になってわかる。それほど監督の存在は小さなものになっている。

以前ならば映画は監督が語る物語であった。しかし現在において監督の語りは失われている。もはや現在では映画はカラオケと同じくコミュニケーションの媒体の一つであり、あるいは遊園地のアトラクションのようなエンターティメントになっている。作品の背後にある物語や歴史性は求められず、誰が出演しているのか、自分たちの感情をどう揺さぶってくれるのか(泣けるかどうか)が重要な要素になっている。これが今日における映画的なものであると同時に映画的ではないとされているものである。

綾瀬はるかが主演した『ICHI』は、かつて勝新太郎が演じた座頭市を大胆にも女性版としてリメイクした作品である。『ICHI』の場合評価されているのは物語ではなく、綾瀬はるかの演技である。座頭市のリメイクといっても勝新太郎版のような濃密なストーリーはなく、単に盲目で剣が強いという座頭市の設定を綾瀬はるかにインストールしただけであるが、綾瀬はるかの美しい演技にファンは「萌えて」満足する。

『ICHI』に限らず、近年の邦画は漫画や小説を原作にしたものや脇役を主人公にしたスピンオフ作品が多い。このような作品が増えた背景には二次創作の隆盛がある。(注1)

二次創作とは、特定の作品をファンらがキャラクターや設定を模倣もしくは改変して創作したもので、90年代からアニメなどの同人誌を中心に盛り上がるようになった。このような状況に原作の製作者側も商業的に無視できなくなり、自ら二次創作するまでになった。例えば、『エヴァンゲリオン』を製作したガイナックスは、『綾波育成計画』というゲームを発売したが、内容は本編と全く関係ないものであった。近年でいえば例えば人気ドラマ『相棒』の脇役を主人公にした『鑑識・米沢守の事件簿』も二次創作の一種といえよう。

二次創作の隆盛をみると、原作の物語よりもまず、キャラクターへの関心がうかがえる。さらにキャラクターのみならず背後にある「データベース」の消費への欲求が強まっている。そもそも勝新太郎のイメージが強い座頭市を何故若い女優が違和感なく(?)演じる事ができるのであろうか。それは座頭市というキャラクターを脱ぎ捨てデータベースのみで新たなキャラクターを生み出すことができたからである。

もう少しデータベースについて詳しくみてみよう。データベースとは簡単にいえばキャラクターの背後にある設定のことである。例えば『エヴァンゲリオン』の綾波レイは一つの「キャラクター」であるが、「青白い髪」「無口」といった設定(東浩紀の言葉でいえば「萌え要素」)がデータベースとなり、90年代後半以降のアニメ等でこのような設定のキャラクターが数多く出ている。データベースはあくまで設定のみでそこには物語性は存在しない。(注2)

これを座頭市に当てはめてみよう。勝新太郎演じる座頭市がオリジナルとなるキャラクター(一次創作)である(注3)が、そこから「盲目だが剣が強い」という設定を取り出して創作されたのが『ICHI』である。データベースの特徴は、その設定の個性の強さではなく、弱さにある。つまりデータベースが簡潔で平凡なほどキャラが自律しやすい。座頭市は一見個性が強いキャラクターに見えるがデータベース的にみれば「盲目」「抜刀術に長けている」「バクチに強い」といったありふれた設定である。それゆえに二次創作されやすいともいえる。座頭市は様々な俳優によって演じられているが、数多く演じられるのは設定されているデータベースが分かりやすく、観客に受け入れやすいからである。勝新太郎演じる座頭市は強烈な個性を持ったキャラクターに見えるがデータベース的にみれば、簡潔なものでまとめられることができるのである。

往年の座頭市ファンにとってみれば『ICHI』は本来の座頭市ではなく、見られたものではないだろう。確かに『ICHI』は、勝新太郎の座頭市の世界から完全に自律した作品であり、キャラクターである。そこにあるのは座頭市から抽出されたデータベースの消費にすぎないのである。これからも「盲目だが剣が強い」というキャラから新たな物語が生まれるのだろうか。いや、そこにはそもそも物語などないし、必要ないのである。

 

 

(注1)二次創作やデータベースなどについての記述は東浩紀『動物化するポストモダン』参照。なお東は同書でツリーモデルとデータ    ベースモデルを提示したが、二次創作もツリーモデルとデータベースモデルに分けられるだろう。

(注2)宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』でキャラクターは物語から独立して存在し得ないとして『動物化するポストモダン』を批判した。

(注3)正確にいえば座頭市の原作は子母澤寛の短編小説である。ただ短編といっても5頁程度の「ショートショート」である(『子母澤寛全集25』)。ちなみにここでの座頭市の人物描写は「いい年配で、でっぷりとした大きな男、それが頭を剃って、柄の長い長脇差をさして歩るいている」とあり勝新太郎は原作にわりと忠実に従っている。

文字数:2189

課題提出者一覧