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0101の芸術

われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美の人のみが力を喚ぶ。

(今道友信(1973)「美について」)

平成27年の今日、年号こそ平成になれど未だ私たちの日常レベルでは昭和の価値観の延長に生き、しかしその限界をわかりつつも新しさを見いだせず閉塞感に陥りながら、止めることが出来ない日常を送っている。昭和が始まったのは1926年、20世紀の出来事である。ポスト昭和、言うなれば21世紀を考えるために、現代に啓示を与えてくれる芸術、芸術家は人間の囚われている不自由さにいち早く違和感を抱き、それに反発し、その行為が一言でその時代の新しさを言い表す、新しい見方をもって人間を自由へと開放してくれる力を未だ持つと信じている。よって新しさを芸術を頼りにしつつ考えたいと思う。

まず現状では今日の日本において、西洋の装置として輸入した芸術はどのように存在しているのだろうか。戦後70年、敗戦の衝撃、屈辱、貧しさ、価値の大転倒その衝撃はあまりにも計り知れないもので、戦争に生き残った人々はその衝撃から身を守るためにある種過食症気味に、その空虚さに、豊かな暮らしという夢を当てはめ、真面目に一生懸命働いてきてくださった。そんな時代が昭和だったのだろう。そのおかげで今の私たちは、世界の中でも特に物質的豊かさを享受し、安心安全、便利、快適な生活を送ることができている。

その中で、芸術というものは、何だか良くわからないが、美術館へ行くと自分の好きな絵が見れれば心は晴れる。何か時代の新しさに触れた気がする。だから私はアート大好きなのです。という、個人の好き嫌い、趣味の一つ、豊かさによって持ちえた余暇を送る選択肢の一つとして、ほぼ存在していると言っても過言ではない。それは、わたしたちの日常が社会制度で守られ、物で満たされ、自分の存在根拠、この世界の空白、意味などに突き当たらずとも安心な日常の生活を送れているからなのであろうか。そんな日常があるから芸術は、趣味の一部として、アート大好きというものまで成り下がってしまったのだろうか。

西洋の啓蒙装置としての芸術を解体し解説している松宮秀治氏の著書「芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神」で

「芸術」は「技術」との対決のなかで、その戦いに敗れて衰退の道をたどるのではなく、内部からの「思いあがり」と「不遜」から自滅の道をたどり、「芸術」「技術」「科学」が未分化のままにあった「アルス」の状態の謙虚な精神をふたたび自己のものとするとき再生の展望が得られると思っている。(松宮 秀治(2008)、芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神、229頁)

と述べている。人間の何ものにも囚われない自由で無垢な光であるはずの芸術家こそが芸術を奉りあげ、その内部に部分として安住しているように外からは見えるからであろうか。目立った、コーヒーテーブルブックで紹介される現代アートのスター選手の世界は、デュシャンの呪いにかかったまま、そのアートワールド内での政治を繰り返している。現代アートは自らが高額で取引されればされるほど、人間の最も囚われている価値である「資本」の虚構性を暴き出している。その作品以上に、取引行為が現代アートの本質なのであろう。しかしその行為は、民衆から見れば、狭いルールに則って商売をする、純粋さとはかけ離れた存在に映り、莫大な価格によって崇高さを得るどころか、却って意味のわからない濁ったものとして映る。その上、日本では西洋の輸入品でしかない芸術は、戦後の美術教育の中で、普遍性へ突き当たる前に個性を求められ、自分のポジション取りのための形骸的な俗の作品までも芸術と主張していることも含め、その不信から、芸術の価値機能は下落しているのかもしれない。

価値没落に陥っているかのような現在、芸術に新しさ、自由などないのだろうか。資本という枠以上に人間が囚われているもの、それ以上の崩すべきことなど、もう残ってはいないのだろうか。

などと考えているよりも、人間の意志よりも技術革新による条件の変化、その事実の方がよほど大きい。狭い人間の枠にとらわれず、技術によってよりこの世界に繋がることで全体性を取り戻し、自由になろうとする動きがある。20世紀は目に見えた環境破壊から、自然を掌握する技術を手にいれた人間は、この地球上の異物だという人間排除の思想があった。しかし、もし明日、地球に隕石が落ちるとして、人間の得た技術によってそれが阻止できるとしたら。21世紀は技術の善悪の判断よりも、人々が部分となって獲得した技術によって、今まで持つことができなかった新たな眼差しを獲得し、自らの狭い視野を壊し全体性を獲得できればといった、ポジティブな技術との関わりかたになってきている。かと言って、このあり方は特段新しくはない。現にかつて美学者である今道友信氏も著書「美について」の中でこう述べていた。

今日、人間は、鳥の飛翔の高度に、さらにはそれ以上に高く飛ぶことができる。すでに鳥瞰図という言葉が古くからありはしたが、それを実際に飛行しながら鳥瞰することができるようになった。これは鳥の生活の中に人の体験が進出しているのではないか。(中略)こういう次第であるから、少なくとも空間的には人間体験は拡大されて、汎生命的になってきている。

この技術による汎生命的宇宙化に伴う拡大された新しい宇宙像の造形や音響化などは、もし成功すれば、全く新しい型の芸術作品になる可能性があるであろう。こういうふうにして、歴史の新鮮な呼吸を生かし続けることは、技術に乗ってこれを活用しなければできないことであると思う。人間は生命の進化の頂点に立つ以上、宇宙の全生命の代表として、現代科学技術でとらえたすべての生命を表現する義務を引き受けてゆくべきであろう。これも現代芸術の課題の一つに数えてよいのではないか。(今道友信(1973)、美について、157頁)

平成になり新しく出てきた価値というより、昭和にも思想こそあったが、それが実現できる技術革新が起こりつつあるのである。

一般には、ITやコンピューターの発達で自然からますます離れていく、バーチャルな擬似体験が生身の自然体験にとって代わっていくと思われがちですが、逆にITを介してより精密な自然につながる回路を創りうる、という考え方ですね。(中略)人間とコンピューターの関係がうまく行ったとしても、その二者間で完結してしまってはつまらない。その先に生きた自然、バイオスフィアがいなきゃいけない。コンピューターを通じて、我々の感覚神経系を生きた地球環境にまで拡張していけるはずだ。そこまでいって本当のインターネット、だからインタースピーシーズ(異種間越境的)ネット。やはりITが人間世界で完結している限り、本当に未熟なITだと思いますね。その意味で我々のIT文明もまだ「幼年期」で、もっともっとその先がある。(坂本龍一、竹村真一(2012)、地球を聴く―3・11後をめぐる対話、114頁)

竹村真一氏の触れる地球をはじめ、21_21 DESIGN SIGHTや、先日の坂本龍一氏と真鍋大度氏の「センシング・ストリームズ 不可視、不可聴」など。

人間内でのまどろっこしい政治性、制度からの解放ではなく、人間外のこの世界と繋がること、人間の歴史以前を思考することで全体性を獲得する。それは技術革新によって実現可能となったのだ。啓蒙革命後、宗教は消えていないが棚上げにされ存在しているように、機能不全に陥っているかのように思われる、公権力に守られた芸術という装置、特権は完璧に無くならずとも受容のされ方が変わるのだろうか。

私たちは美術館へ行き絵画を目前にすれば、生きた筆跡がガラスの額縁に密閉され、そこにはいない作者を作品を通じて感じ、感動すれば涙が出る。作者は居ずとも永遠に、作者のしけりとともに残っている。どうしてか分からないが、人間のみが意識の余剰によって空白を持ち得たからこそ、その孤独の慰めであり、確証としての歴史があり、そのの保管庫として美術館がある。自然は反復し継続し続けるから凄い。しかし、例えば秋になって、色付いた桜の木の葉をみれば、その模様は一枚一枚違い、それぞれに主張していて美しいが、木枯らしの吹く頃には大量にあった葉も、跡形もなく毎年どこかへ消え去ってしまう。意識の余剰として空白があるからこそ、同じであるが生き延びるために作られたそれぞれの唯一性を、人間は残せておけてしまう。その人間にしかない喜びに出会える場所が美術館なのである。植物もそれぞれ唯一で、例えその種に大革命を起こした突然変異の起きた個体だったとしても、それが名付けられ、陳列、保管され驚き見られることはない。人間のみが新しい眼差しを打ち出し、革命をもたらしたものをマスターピースとして保管し、後から振り返り、喜びとして享受することができる。

人間の意志よりも技術の変化は大きい。0101の世界との共存の中ではその人の固有性、そんな個人の枠など気にしない人間観、歴史を持たない、何の系列もなさない多孔質の、知覚されるものへの生成変化、それはユートピア的な、魅力的なものとして聞こえる。

土地から切り離されバラバラとなり、身体では受け止めきれない圧倒的な量の多さに囲まれ、しかし日々の快適さから死などないとボケてしまうことで忘れてしまうのか。または超ポジティブに、個人など、そんなのは古臭い人間が気にするものだとおかまいなしに、そんなことより技術によってこの世界の未知の驚きに没頭し見向きもしないのか。どちらにしろ21世紀の私たちはそんな所与のどうしようもなさ、その為の確証、慰めなど必要とせず生きていくのだろうか。わからないが、芸術に0101の世界が介入してきたことは事実である。

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