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楽しさでつきぬけろ!

こないだ批評再生塾有志の読書会という試みに初めて参加したんやけれども、批評の本を対象にああだこうだと話しとるんで、みなさまのお口から哲学者や思想家の名前が飛び交いまして、そういった名前が出るたびに私は持参した倫理の教科書を開き該当人物の顔写真や絵を探し、顔真似をしておりました(※1)ところ、気付きましたのは、哲学だの思想だのを云々しているのは険しい顔をしたおっさんばかりという事実。そんで、ユリイカ! って感じで目を見開いて会場内を見回すと眼前には険しい顔をしたおっさんではなくて、険しい顔をした批評の再生を目指す若者たちがおりまして、8割がたメガネで、むつかしい本を読んでいたのでみんなしてむつかしい顔をしておる訳です。ほんで唐突に、この光景は楽しそうな絵面ではないな、いや、楽しいかどうかなんて関係ないやろ、いやいや、どうせやるなら楽しい方がええに決まっとるやんけ、いやいやいや、といった思考が去来いたしました。

今回の課題文、引用はおろか参照が禁じられているため、批判すべき対象として指定された「近代日本批評」がどういったものであるか規定するのが極端に難題やと思うんやけれども、その曖昧なものを無理矢理一つ批判するなら、「近代日本批評」は現代日本において新規の読者をほとんど獲得できていない、っちゅうのはどうでしょうか。売れていないし、言及する人が少ない。参加者が少人数な以上は衰退していくしかないわけで、それでも構わんよねとしないからこそ、たとえば「批評再生塾」のような試みが行われるのでしょう。批評再生塾は「批評」を「再生」するという名称からも、現代日本において「近代日本批評」を再起動したる! という心意気が読み取れます。

比較のために、近代から継続しており、かつ、変わらず参加者を確保できているものとして「岸和田だんじり祭り」を挙げます。身近におる岸和田出身の人間はだんじりの時期になると地元に帰りたがるし、岸和田の小中学生の作文で圧倒的な使用頻度を誇るオノマトペは何十年も「そーりゃ」(※2)やし、岸和田周辺地区ではほぼ一年中だんじりの話ばかりしとる層がおるそうですよ。大きな祭りのない片田舎の小規模な団地で生育したわたくしなどからすると、その心性は物語の世界のできごとのように想像するしかありませんが、実際のところ「楽しそう」ちゅうて世代が変わっても参加希望者が絶えないようです。

そう、おそらくその、楽しそうな感じがないんすよ。「近代日本批評」には。熱心に学んでいる少数の人を見ても、むつかしい顔をしていて、全然楽しそうに見えない。だから楽しくしたらいい。楽しいという言葉は魅力的ですね。苦しいや辛いより楽しいほうが人が寄ってくる。という訳で、もっとみんな楽しくやりましょ。批評もそう。何かをdisって嫌な気持ちになる人を増やすより、読んでハッピーな気分になる人を増やす批評を目指しましょ。そうすることで読者も増えていくし、ひいては「近代日本批評」の再生につながるでしょう。楽しければオールOKなんすよーアハハハハなんて言うと思ったか! そんなんでいいわけないやろ。それでは批評本来の目的を見失いますよ。楽しいだけではあかんのです。だんじりかて、毎年死傷者出るし、道々がゴミだらけになるし、練習の音はうるさいし、反対派も一定数おるんですよ。わたくしかて岸和田地区で幼少期を過ごしていたら祭り当日に仮病を使って家でゲームしてましたよ多分。あとだんじり見に行ったときに、お揃いの法被を着て闊歩していた女子高生3人組が路上にゴミを放るのを視界に入れた警官が「こら、あかんやろ。……でも今日の主役やからな、大目に見たるわ」って4人で口を開けて笑顔、その隙に風に飛ばされるゴミ袋という光景を目にした際は、楽しければ何でもいいなんて間違いだと強く思いましたよ。いや、これは適切な例ではないやも。まあとにかく楽しさだけを重視しては見落としてしまうものがありますよ。けれども、楽しさが人を集めるのもまた事実で。

読者に新しい視座や価値観を見せてくれる批評。ひとつの物事は複数の方角から見ることができるという当たり前の、でも忘れがちなことを思い出させてくれる批評。そんな批評を読みたいし、書いてくださる方が継続的に増えたらいいと思うんやけれども、現実に批評界隈の参加者が漸減している理由として、インターネット、特にSNSの隆盛により世界がつながってしまったことを挙げる方は多いですわな。批評には対象が必要ですが、その対象と書き手はお互い目の届く範囲におるようになってしまいました結果、書き手には一定の配慮が働きますよね自然と。炎上は怖いもしくはメンドい。好き好んで嫌われたり煙たがられたりしたくはない。でも、現状を確認して、嫌な思いしたくないから批評なんてしない方がいいですねって態度は怠惰やし、だから微力ながらも何かしら動く必要があると思いまして、この文章を書いている現在、PCの前のわたくしは風邪をひいて熱がある訳ですけれども、〆切が延期できないシステムなので、どうにか〆切までに何かしら書いて提出しようと足掻いとる訳ですわ。

行動指針として、自身の質を高めて、関わり合う人と丁寧に時間をかけて接しろと仰る方はいらっしゃいますし、大納得の全面肯定ですけれど、ネットで雑なつながりが自動的にできてしまう現在、そこまで時間をかけるのは難しいといいますか、懇切な対応を求められていない向きもあり、だからこそふらっと来た観光客に向けて、入口だけでも楽しくあろうとするんはどうかとわたくしは提案いたします。読者の方も、いったん興味をお持ちになれば、その後は自発的に渉猟していただけるようになるかもしれんわけで。

思えば批評再生塾という小さな小さな世界の中で、初期のわたくしは透明人間のようでした。課題文を提出しているのに誰にも言及されないし貶されもしない。おそらく、ほとんど読まれてもいない。受講生が多く、実力上位の受講生と比較して圧倒的に劣っているためなのですが、この状況では活動を継続しても誰にも届かないので、まずは読まれる必要があると考えました。ただ、正攻法での格闘では半年ほどの受講期間内に全く追いつかないだろうことも予期できたため、耳目を引こうと、読んでいただいた際の楽しさ最優先の執筆を心がけました結果、わたくし個人の文章について言及してくださる方が続々と発生いたしました(※3)し、一度は上位論文として選出もされました。これを方法論として使えないですかね。目的ではなく手段として。まずは楽しくあって、個々の書き手が今以上に読者を獲得すること。書き手の皆々様が批評に興味を抱き始めたばかりの観光客を誘致して、批評全体の読者を増やしてから、それぞれが本来語りたかったことを語ること。

自分の知識や実力を棚に上げて言いますけれども、「近代日本批評」においては、むつかしい顔をして高邁なる精神でもって探求を続けることのみが美徳であって、よちよち歩きの初学者への目配せが足らんかったんのと違いますか。あるいはこれは想像でしかないですけれども、そのような媚びを売っているようにも見えかねん行為は侮蔑されていたのやもしれません。

現実問題、今のわたくしには知性が足りないし、書いている文章も批評とは言えない状態ですんで、馬鹿は黙ってろ的空気を感じる言及のされ方もあるわけですけれども、脱したいと常々考えながら行動しておりますし、本当は高尚なことや耳慣れない用語が出てくる内容を面白おかしくばんばん書きたいわけですけれども今の私には能力的に不可能で、スタート地点が上位陣と比べて後ろ過ぎたためただただ突飛なことをやるほかなかったんですよ正統派の方ごめんなさい。正規のルートの努力も初心を忘れず継続いたしますし賢い方々のことは心底尊敬しておりますし、追いつき追い越してやるという気概だけは忘れないようにいたしますので。でも仮にわたくしの批評家としての基礎力が上昇し、もう少し難しいことが語れるようになってもレベル1から楽しめる批評でありたい。あとまあ、職場のうぇ~い言うてそうな方からのバーベキューのお誘いは断ると角が立ちますけれども、わたくしの楽しくあろうよという提案は本当にただの一例でして、多様な方法論で個々人が戦っていけたらと思いますよ。

俺たちの本当の戦いはこれからだ!(※4)

 

※1:手まで写っていた人物は、手の形も真似をいたしました。フロイトは葉巻を持っておりましたが、持ち合わせていなかったため三色ペンで代用しました。レヴィ=ストロースの抱えていた小動物は食べ終えたクーリッシュ(バニラ)で代用しました。

※2:だんじりのかけ声。「ソーリャ」、「そぉ~りゃ~」などと表記する場合もあります。

※3:批評再生塾は東浩紀さんから見放されかけ、講評会でのニコ生の視聴者も減っているようですが、わたくし個人に関しては読者は実感として増えていると思われます。書いた文章が人に読まれて言及されることに慣れていないので「今回も面白かったですよ」って言うてもらえるのなんて、お世辞とわかっていても言うてくださった方を好きになってまいそうで危ないです。

※4:読んでいただきありがとうございました。升本の次回課題文にご期待ください。

文字数:3799

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