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「映画的なもの」とは「画面が暗い映像作品」のことである

厳密さを求めるならば、何をもって「映画」とするかにもよりますが、この星で「映画」という映像を用いた表現形式が生まれてから少なく見積もって百年以上は経っています。つまり西暦2015年現在に生存している人たちは大体生まれながらに「映画」という表現形式があったことになります。「映画」は生まれてから今までに世界中に広がり、現在、日本語を解する人は「映画」という言葉を見たり聞いたりしたときに、それが映像を用いた表現であることをほぼ100%知っています。

「映画」は「狭義には、映画館で上映される動画作品のこと」(Wikipedia「映画」より)です。では「映画館で上映されない動画作品」は全て「映画的でないもの」でしょうか。いや「映画館で上映されない動画作品」にも「映画的なもの」と「映画的でないもの」が存在すると、私たちは考えています。

今日における「映画的なもの」と「映画的でないもの」の違いを考えるために、まずはこの前提を記しておきます。そして2015年の日本において私たちが「映画的なもの」、「映画的でないもの」を、何をもって判断しているのかを示し、その価値にまで触れたいと思います。

 

「映画」は、芸術の一ジャンルととらえられることもあり、多くの人にとって「映像作品の中でも、やや高尚なもの」と位置づけられています。では、私たちはその映像作品にかけられたコストの多寡や、作品内に見出されるテーマから「映画的なもの」かどうかを判断しているのでしょうか。おそらく違います。現在(2015年)の日本において、大量に存在する映像作品の中で、一般的な人が特定の映像作品を「映画的なもの」だと判断する基準は「画面が暗いか否か」です。画面が暗いとそれだけで「映画みたい」と発言する人が現れます。このことを具体的な作品を挙げて説明します。

 

テレビドラマを観る習慣のない人であっても、2014年に日本国内で暮らしていたならば、2014年に放映されたテレビドラマ『MOZU』については、「映画みたい」という感想を目にする機会があったのではないでしょうか。私は『MOZU』の放映期間中、1日のうちに勤務先、飲食店、電車の中で、それぞれ何の関連もない人たちが『MOZU』について「映画みたい」と評するのを耳にしたことがあります。検索窓に「MOZU」と入れた後の予測検索の一つとして「MOZU 映画みたい」と出てくることからも、「『MOZU』は(テレビドラマだけれど)映画的なもの」であるというのは、一般的な認識としてもよさそうです。

『MOZU』は、逢坂剛の小説『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』を原作とする日本の刑事ドラマです。内容については触れませんが、この映像作品の画面は本当に暗いです。普段、テレビ画面の明るさを暗めに設定していた場合、多くのシーンで何が起こっているのかわからないのではないでしょうか。

この画面の暗さが、このテレビドラマを観た人たちに「映画のよう」、「映画みたい」という感想を抱かせたと考えます。

『MOZU』を映画的と評するブログやTweetを読むと、その理由として「サスペンスとしての緊張感の高さ」だとか「映画を撮影する際に使用するような撮影機材を使用している」とか演技がどうこうとか書かれていましたが、それらを満たしていても映画的と評されない映像作品はいくらでもあります。ただ、画面が暗い映像作品については「映画的」と評する人たちがほぼ間違いなく出現します。

映像ではなく音楽について書かれたものですが、川上量生氏の本を一部引用します。

 

高校生にとって「いい着メロ」とはなにか、なにを基準に着メロのよし悪しを判断しているのか、とは音の大きさだったわけです。ところが音が大きいほうがいいというのは他の着メロサイトもさすがに分かっていて、どこのサイトも音量は最高に設定したデータで着メロをつくっているわけです。(中略)他社のどこの着メロサイトよりも大きなメロディを鳴らせる、ドワンゴオリジナルの合成音色というのを開発して、それで着メロをつくったのでした。結果、高校生や大学生を中心に、なんだか飛び抜けて音のいい着メロサイトがあると口コミで広がり、大ヒットにつながったのです。(中略)目や耳が肥えていない一般のユーザーが認識できるコンテンツのパターンは、そもそも少ないのです。(※1)

 

一般のユーザーが「音が大きい=音がいい」ととらえてしまうという内容ですが、これはそのまま映像作品において「画面が暗い=映画的」ととらえる人が出てくることと似ているのではないかと思います。私たちの多くは、専門家が述べる意味での音や映像の良し悪しを判断できないのです。

 

仮に私たちが「画面が暗い=映画的なもの」だととらえているとして、そのことは「映像」というジャンルの今後を考えていくうえで、何か問題はあるでしょうか。私は問題ないと考えています。それは前半に述べたように、「映画」について「やや高尚なもの」という認識を、私たちがまだ抱いているためです。その認識がある限り、「映画的なもの」の判断基準がどうであれ、「映画」は批評の対象であり続けます。

 

映像作品を作成するコストや心理的抵抗感は、ここ十年で驚くほど低下しました。動画共有サイトにおける一般人の投稿の増加を例に挙げるまでもないですが、2015年現在、映像作品はかつてないほど氾濫しています。私たちが「映像作品」を目にする機会はここ十年で間違いなく増えましたし、今後も増えていくでしょう。それらの全てを「映画」だと考える人はいないにしても、それらの中に「映画的なもの」があると見出す人はいるはずです。そして、「映画的なもの」は、映画的と認識されるからこそ論じる人が現れます。論じる人が多くなることで、映像作品をめぐる環境は更に活性化するでしょう。その中から狭義の「映画」を再起動させるような映像作品が生まれるかもしれません。

 

※1『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』(NHK出版、2015年)

文字数:2456

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