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インターネットと「考えない」

久々に帰省したら親が知らぬ間にネトウヨ化していた問題。

先月、ゲンロンカフェで常見陽平氏が笑い話のように語っていて、聞いたときはありそうありそうと思いながら笑ってしまったのだけれど、その数日後に私の身に似たようなことが起きた。笑えなかった。

ごく一部の事象を全体に適応させていたり、少し調べればデマだとわかるエピソードを陰謀論のように語ったりなど、本当に絵に描いたような低級のネトウヨ的発言を、自分の知り合いがしていて悲しくなった。テレビなり書店なりインターネットなりで、それらの意見を目にしたり耳にしたりしたのかもしれないけれど、どうしてそこまで鵜呑みにしてしまうのだろう。考えないのだろう。

 

「考えない」という行為について、少し考えてみたくなった。

否定形だし、悪い意味でつかわれることが多いけれど、「考えない」行為には、もちろんメリットもある。

まず、とにかく、圧倒的にラクである。自分の頭で考えて判断するというのは、負荷のかかる行為だから単純に疲れる。あとは、私自身、働いてきたなかで実感があるけれど、考えずにとにかく動き始めた方が直近の目標達成はしやすくなる場合がある。また、メンタルをやられて休職する人を見ていて思ったけれど、考えないで暮らした方が精神を病みにくいと思う。「考えない」ことによる実利的なメリットは少なくない。

今日も書店で、平積みになっているビジネス書が視界に入った際に「習慣」とか「仕組み化」とかいう言葉がチラチラ目についたけれども、「習慣」とか「仕組み化」って乱暴に言いかえれば、いかに考えないで行動するかの方法論だろう。言葉の言いかえによって、身に着けたい! という気持ちを高めさせ、実際身に着けるといいことがあったりすれば、考えない教の教えにハマる気持ちはわかる。

「昔に比べて自分で考えて行動する人が減っている」といった主旨の言説はよく目にする。選挙の投票率が上がりました、というニュースは聞かない。私の周りでも、「考えない」という行為の価値を高いと考える人は、年ごとに増えているように感じる。

いつから変化が起きているのか。起点を、昭和にはなかった「インターネットが一般層に広まったこと」としてみる。

 

インターネットの負の面を語る言説は多い。私はその中で、「バカや暇人が可視化されたこと」が一番よくないことじゃないかと考えている。ネット以前の「昭和」にも間違いなくバカや暇人はいたはずだけれど、それらの人々が多くの人の視界に入るようになり、更につながるようになってしまった。そして、いとも簡単に、これまでバカや暇人の言葉が届かなかった層に言葉が届くようになった。

ネットは無料の娯楽→バカと暇人の巣窟になる、というのは論理の飛躍ではない、はず。バカと暇人という悪意のある書き方をしたけれども、これらの人々は悪意のある人たちばかりではない。よいことをしたいと思っている人も多い。結果として何が起こるかというと「主観的判断による間違いの指摘」。言い換えると「自分が持つAという意見と異なる意見を目にしたとき、BやCという並列ではなく、not Aと捉えて敵対する」。いわゆる炎上である。

炎上の事案には、そりゃ燃えますわな感があって擁護できないものも多い(そういう誰の目にも明らかに叩きやすい人を叩く行為も「考えない」行動の一つだと思うけれどそこは置いておく)。でも、炎上にはそこまで叩かれることか? 的な事案もある。

このあたり『ウェブはバカと暇人のもの』(中川淳一郎)が詳しかったので、同書内での「ネットで叩かれやすい10項目」を一部引用してみる。

①上からものを言う、主張が見える

⑧強い調子のことばを使う

⑨誰かが好きなものを批判・酷評する

⑩部外者が勝手に何かを言う

上記項目などは、内容によっては正統で真っ当な意見の可能性もある訳だけれど、内容の如何を問わず、炎上するときは炎上する。『ウェブはバカと暇人のもの』が書かれたのは2009年。6年後の現在、スマホの浸透などにより、インターネットを日常的に使用する人口はそれからも増え続け、比例して炎上発生件数も増え続けている。

昭和の時代から特定の誰かが叩かれることはあった。しかし昨日まで誰からも注目されていなかったような人が、ここまで頻繁に俎上にのることはなかったのではないか。

炎上を日常で目にする機会が増えて、自分自身いつ何時炎上に巻き込まれるかわからなくなったことで、考え方が変わった層は間違いなくいる。どう変わったかと言うと「何かを言ったことで嫌な思いをするなら、言うだけ損だな」と考えるようになったり、二項対立に近い状況の案件に対し「どちらか一方に与する意見は絶対に表明しませんので」と考えるようになったりという変化だ。私もたぶんその一員で、自覚はある。

それらの人は「何か言うことで、変な人に絡まれるのだけは避けたい」という思いから、意見を表明しなくなった。中間層の意見が減ると、極端な言説ばかりが目立つようになる。冒頭のエピソードの知り合いは、そういった言説を目にしたのだろうか。

また、「私は意見を表明しないだけで、日々考えていますよ」という人は、本当に考えているのだろうか。発露の機会が減ることが、行為そのものを減らすことにつながっていないだろうか。

 

インターネットが広まることによる変化でもう2点。単純な調べものにかかるコストが激減したことと、時間を奪われる対象が増えたことを挙げたい。前者は「知識があまりない人から知識をたくさん持っている人への憧れ」の薄まりを加速し、後者は一人で何かを考える機会を減らした。

知識がない。時間がない。その結果、需要が大きく高まったのが「わかりやすい」ことだ。

わかりやすいことは、一見すると非の打ち所がないほどよい。そのため、その進行は凄まじい。目にするもの耳にするもの全てが年々わかりやすくなっているのを感じる。

言葉においても、その状況は進行しており、先日も仕事の発注元から「端的で即伝わる言葉に言い換えて」なんて指示を受けた。

言葉は思考のもととなるものなので、種類が減れば減るほど、思考の跳躍力も落ちるように思う。しかし、言葉をわかりやすく言い換える行為をしている時点では、思考が狭まっていることまでは考えが及びにくい。危機感のないまま、言葉を減らしていくことで、思考の種類も減っていき、「考えない」に近づいていく。

 

今まで書いたことをまとめる。

昭和と今の違いは、インターネットが一般層に広まったことである。

多くの人がネットに触れることで炎上が一般化し、中間層が意見を表明しなくなった。

一方、知識は以前より軽視され、また、時間がなくなり、わかりやすいことの需要が高まった。

結果として「考えない」は進行している。

 

状況説明に終始してしまったので、最後に決意表明をしてみる。

とにかく本を読もうと思う。好きな本を何度も読むのもいいけれど、できれば普段読まない本を読もうと思う。世の中のほとんど全てのことは二項対立ではないという当たり前のことを忘れないために。

意識的に、行ったことのない場所に行き、会ったことのない人に会い、したことのないことをしよう。狭まっていく世界に対抗したい。

私は「考えない」の進行に抗いたい。

 

今回、批評というものを人生で初めて書こうと思い書いてみた。途中まで書いては何度もゼロから書き直したけれど、結局私は「批評」の体をなすものを〆切までに書くことはできなかった。でも、諦めずに書くこと、そのために考えることで、「批評」を書けるようになりたいと心底思っている。変わるためには、行動するしかない。ひとまず駄文であっても課題提出だけは続けることにする。

文字数:3133

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