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100万個の固有性

「単位」という概念は、人の生活を規定する表徴である。我々は何が一つの固まりであることを知ること無しには数えることはおろか、多いや少ないといった定性的な表現さえ不可能である。また何を単位とするかは生活の利便性の現れであり、どのような量的感覚でその文化圏が動いているかを暗示している。

昭和以前であったなら、単位に関する考察はここで終わったであろう。単位は生活の表出である、それだけだ。平成になって何が変わったか。それはメタ単位が必要なほどに顕在化された情報の数が増え、人間の認知能力をオーヴァーフローしてしまい、そして人の情報に向き合う姿勢が変わったという点だ。つまり人間社会の鏡でしかなかった単位は、今では目に見える形で我々の生活のあり方を縛るようにもなった。

 

私はここで100万という数を一つの単位と捉えて、それを「いかにも平成的な単位」と呼ぶ。もちろん昭和以前にも100万という数は存在した。しかしそれは飽くまで同質的なものの寄せ集めの情報でしかなかった。お金に1円玉同士の固有性はない。人口が100万人と言っても、我々はそこに一つ一つの固有性が存在することは常識として知ってはいても、我々がその一人一人に会って確認することが物理的に不可能である以上、そこでの1/100万は交換可能な情報としてしか現前しない。しかし現代の100万という単位は、往々にしてその一つ一つが固有性を持って現前するという点でいかにも平成的な単位である。例えば今時大手の不動産のポータルサイトには300万件程度の物件が掲載してあり、リスト化されたページを見れば一つ一つの物件へのリンクの左側には必ず建物の写真が掲載されている。一生のうちに100万(個)の固有性のまとまりに触れることというのは、平成の時代になって初めて人間の時間の有限性という条件と和解し、可能になった。

 

しかしてこの単位は我々の生活をどう変えたのか。皮肉にも、我々は100万個の固有性が現前しているという新しさも、これ以上縮減不可能な1から構成されている100万という単位にも、もうどうでもよくなってしまった。我々は「大きな」ポータルサイトをいくつか渡り歩いて、検索して、その結果に満足すればそれを採用し、不満であったならまた検索を繰り返す。我々は自らが対面しているものの全体像に対して興味など抱かなくなった。「詳細過ぎる地図は、逆に地図としての役割を果たさない」と村上春樹はどこかで書いていた。中心を共にする異なるベクトルを持つ線分から構成された立体構成物を頭に描いてみよう。線分の数が増えるほど立体の表面は滑らかになってゆき、一つ一つの線分を認識するのは難しくなる。我々は人間の認知能力の限界に打ち当たってしまった。結局、全ての構成要素の固有性が現前されなかった時代には、全体像の輪郭とその中の自分に近しいいくつかの固有性だけが重要だったが、全ての構成要素が他とは違う一つの何かと認知される現代には、もうその輪郭さえどうでもよくなってしまった。我々は見たい時に見たいものだけ見る。
ところで今私はメディアを運営している会社のオフィスで、残業を装ってこの文章を書いている。そろそろ終電なので、ここで筆を置かなければならない。いかにも平成的な単位の情報を売り物にしている会社の真ん中で、残業を重ね昭和的な働き方をしている。平成的なものはビットの固まりとしてしか存在せず、我々は昭和を劣化させたような世界認識と生活をしている。

結局、平成などというものは存在しなかったのかもしれない。

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