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〈存在〉に耳を澄ませる

 

渋谷駅。中央改札を出る。文字通り「筆舌に尽くしがたい」音の数々が私の耳にどっと押し寄せてくる。ズボンのポケットからiPhoneを取り出す。イヤホンを耳に当て、iPhoneの画面を素早くタッチする。ZAZEN BOYSの「The City Dreaming」。それまで散漫だった神経細胞が耳元の鋭いドラムベースに集約される。背後の喧騒はぐっと後退し、私の耳がせりあがる。自分だけが海の底を歩いているような心持で、雑踏の中を歩いていく。

 

〈聴取〉の時代だといわれる。先に挙げたようなiPhoneや携帯オーディオシステムの存在によって、私たちはそこには存在しないはずの音響にも耳を傾けることができるようになり、また私たちの聴覚以外には音響の存在を証明する手立てはなくなった、ように思われる。今日音響とはもはや客観的なものではなく、私たちが聴覚を通じて感知するものを指し、またそれのみが音響と呼ばれうるのである。

いや、しかし、仮に私たちの聴覚以外に音響を証明する手立てがなくなったとして、いかようにも「聴取」されない音響など、本当にこの世に存在しないのだろうか。

 

ⅰ.音響とは〈出来事〉である

 

そもそも物理学的には、音響とは波である。何らかの空気や水といった媒体の分子を揺らす波(音波)によってもたらされるものであり、私たちは鼓膜の振動によってその波を感受し、音として認識する。つまり音響が発生するには、私たちの存在以前に、まずは音波が発生するような状況がなくてはならないだろう。例えば人間の声は生体が震えるという〈出来事〉によって発するものであるし、足音は靴底と地面との衝突という〈出来事〉によって起こる。音響とは常に一種の〈出来事〉として立ち現れなければならないのである。

ここで重要なのは、「音響」は、〈出来事〉である以上何らかの差異と方向=意味(サンス)を内包している、ということである。私たちが「音響」と言うとき、「音響」は音響とイコールではない。音響はつねに〈音響〉として私たちの耳に届くのであり、〈音響〉として届かない音響は音響ではないのである。

近藤譲は『線の音楽』において、こうした事態を聴取の立場から解説している。近藤は、聴取可能な音は高さ(振動数)、強さ(音圧レベル)、長さ(持続時間)、音色(近藤によれば、物理学的にはまだはっきりと規定されていない)の3つのパラメーターから構成されるものであると述べるとともに、音と無音の特性を、それぞれこれらのパラメーターによる分節可能性と分節不可能性によって定義している。音がパラメーターによって動くものであり、多様性を特性としているのとは対照的に、無音はどのような場合でも均一である。無音が無音によって分節されるということはあり得ない。無音は常に音節の分節性によって分節される。

差異と分節は、表裏一体である。音響は常に〈出来事〉としての差異性ゆえに分節され、分節されるがゆえに出来事としての差異性をはらんでいる。では、無音、すなわち〈出来事〉が起こらないような状況とは、どのような場合を示すのであろうか。

 

ⅱ.無音とは〈存在〉である

 

一説には、ジョン・ケージの作品4分33秒の目的は、無音に耳を澄ませることではなく、会場のざわめきや木々の揺れる音など、演奏を中断することで露わになる会場内外の様々な雑音を聴くことであるとされており、ケージのある有名な体験が、強く裏付けになっている。

 

私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液が循環している音だ、と教えてくれた、私が死ぬまで音は鳴っている。                                                               ジョン・ケージ 『サイレンス』柿沼敏江訳、水声社

生きるということは、もはやそれ自体〈出来事〉であり、私たちは〈出来事〉から逃れることができない。だからケージは言うのだ、私たちは未来永劫、音から逃れることはできないのだ、と。

では、私たちが真の「無音」というものを聴取できないのであれば、「無音」は存在しないのであろうか。それともケージが言うように、「無音」は単なる音響の戯れにすぎないのであろうか。いや、ジョン・ケージの上の言葉を、次のように読み替えることもできるであろう。むしろ「無音」とは、様々な〈出来事〉の混交状態ではなく、むしろ様々な〈出来事〉の受け皿となりうるような基底的状態である、と。つまり、「無音」とは、発展する〈出来事〉ではなく、むしろその〈出来事〉の規定にある、差異を差異たらしめるような〈存在〉を示しているのである。(未完)

 

文字数:1978

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