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映画、外部を露呈するもの

 

今日、映画とは何かという問いに答えるのはそう容易ではない。理由としては第一に、90年代以降、私たちを取り巻くメディア環境が大きく変容したという点が挙げられるだろう。SNSやスマートフォンの普及に伴い、誰もが場所時間を問わず映画を鑑賞し、更には動画を撮影、共有することが可能になった。私たちは今や単に映画を鑑賞するのみならず、無数の映像に取り囲まれながら暮らさざるを得ないような状況に置かれている。

そして第二の理由として挙げられるのは、デジタル化によってあらゆるイメージがデータとして操作可能になったという点である。レフ・マノヴィッチは『ニューメディアの言語』において、「デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケース」とまで言い切っている。あらゆる実写は、もはやアニメーションの一言で片づけられるだけの可能性を持ってしまったのだ。

では今日、映画はもはや死に絶えたのだろうか。いや、死んでなどいない。今日的な状況の中で映画は、元来内に含んでいた「映画的なもの」をむしろ顕在化させているのである。

 

では、今日における「映画的なもの」とは何だろうか。この問いについて考えるには、まずはそもそも映画とはいかなる装置かという問題にまで一度立ち返る必要があるだろう。

周知の通り、映画とは高速でシャッターを切ることが可能なカメラを用いて現実を連続撮影し、投影することで現実を再現する装置である。スタンリー・カヴェルが『眼に映る世界 映画の存在論においての考察』において述べているように、映画は何より「連続した自動的な世界の投射」を基盤とする。そして映画は、その「自動性」を通して、現実の真正性に対して懐疑の目を向けている私たちに、「世界の現実を確信させてくれる」装置でもある。

しかしここで注意すべきは、映画が再現した現実はあくまで見せかけのものにすぎないという点である。まず映画は、それ自体静止画(コマ)の連なりでできており、非連続な媒体である。また映画内のコマは、互いにいかなる関係も結びえない。現実の出来事は大抵、何らかの物理的な因果関係に則って展開するが、映像に至ってはそれがない。つまり、映像を映像たらしめるのは、コマとコマの間に連関性を見出す私たちの認識作用でしかないのである。そこにはイメージの論理とでもいうべき固有の論理が働いている。

「映画的なもの」の本質は、映像がもつこうした非連続性、そしてそれに伴う異質なもの同士の出会いに内在している。かつて「映画的なもの」とは、代替可能なイメージが持つ恣意性にあった。たとえばジョルジュ・メリエスは『月世界旅行』(1902年)で、異質な時間・空間の映像をつなげることで、映像を用いて物語ることを発明した。またレフ・クレショフは、まったく異質なイメージをつなげることで、視覚化できない観念を弁証法的に表現する技法を発明したのである。

しかし今日、冒頭に述べたようなメディア環境の内で、映画的なものは大きな変容を蒙っている。端的に言えばこのような異質なもの同士の出会いが、映画の内外の境界としておかれるようになったのである。

 

ここで私たちに重要な示唆を与えてくれるのが、1994年の『学校の怪談』シリーズを皮切りに90年代の日本を席巻した「Jホラー(ジャパニーズ・ホラー)」と呼ばれる作品群である。

例えば黒沢清の『回路』(2001年)。この作中冒頭、OLのミチ(麻生久美子)は、同僚の突然の自殺を目撃する。そしてその日以来、彼女の周りから知人が黒いしみを残したまま忽然と姿を消していく。またちょうどその頃、もう一人の主人公である大学生の亮介(加藤晴彦)は、「幽霊に会いたいですか」と問いかける不気味なサイトにアクセスしてしまう。

この作品においては、インターネットの世界が外部として存在し、非現実的な存在である幽霊は、ネット回線を通して日常に闖入する。また作中、世界を俯瞰するような視点が導入されることはない。後半はミチと亮介の出会いを皮切りに、一転してSFのような展開になるが、それでも二人の視点を起点として描かれる。つまり、外部は、その全体が明示されないまま、あくまで異質なものとの出会いの内に描かれていくのである。

このような外部からの他者の闖入は、おおむね90年代以降のJホラー全般にみられる特徴である。例えばJホラーの中でもとりわけ著名な『リング』(中田秀夫監督、1998年)においては、闖入者とは紛れもなく「呪いのビデオ」から出てくる貞子であり、『呪怨』(清水崇監督、2000年)では、虐待された果てに殺された伽椰子の幽霊である。

しかし、こうしたJホラーの映画の最も特筆すべき特徴は、むしろその「理不尽さ」にある。どの映画においても、外部からやってきた闖入者の目論見が、皆目見当がつかないのである。黒沢の作品『ドッペルゲンガー』(2003年)において、自殺したはずの弟のドッペルゲンガーとともに暮らす永井由佳(永作博美)は、同じく自分のドッペルゲンガーに翻弄される早崎道夫(役所広司)に対して、涙ながらにこう語る。「どうしてこんな目に合わなきゃいけないんでしょう」―――この「どうして」を欠落させたまま、彼らは外部に翻弄される。彼らにとって、外部との出会いは、「降りかかる出来事(accident)」なのである。

実際には、黒沢はこのような映画の外部に対して極めて自覚的であった。黒沢は『黒沢清、21世紀の映画を語る』において、「不意に露呈する外部」が21世紀の映画に共通する特徴であると述べたうえで、以下のように述べている。

《映画の外側に世界がひろがっていて、そこは暴力で満ち溢れている。映画は原理的にそこから逃れられない。そんなことは実は百年も前、映画誕生のときからわかっていた、わかっていたのに何もしてこなかったことの責任を、今こそとらねばならない。そういう認識に立った映画を、 二一世紀の映画と呼びたいと思います。》

ここで黒沢が述べる「外側」という語が一体どのような世界を示すのか、少し分かりにくい表現である。しかし筆者には、現実世界ではなく、むしろ世界の「ヴァーチャルな」様態を示しているように思われる。一体どういうことなのだろうか。

 

筆者は先ほど、「ヴァーチャルな」と述べた。この語は、通常であれば、仮想の、虚像の、といった意味を示すために用いられることが多い語である。そしてこの意味においてはこの語はリアルに対立する語であると思われがちである。しかし本来ヴァーチャル(virtual)とは、ラテン語で「力」や「潜在性」を意味するウィルトゥス(virtus)からきている語である。つまり「ヴァーチャルなもの」とは、「可能的に存在するものであって、現実に存在するものではない」(ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ』)。ピエール・レヴィによれば、「ヴァーチャルなもの」は、隠された出来事であり、リアルに対立するのは、むしろ隠れている実体、すなわち「可能的なもの」の方である。

こういった意味で、私たちは、既にヴァーチャルな世界にどっぷりとつかっている。例えばインターネットは、身体的なリアリティが喪失した世界であり、私たちは、その中で日々顔の見えない他者(外部)と交信している。また冒頭でも述べたように、私たちはデジタル技術を用いて、リアルなイメージを意図的に操作することで、ヴァーチャルな外部を操作することが可能なのである。

しかしこうした外部は、本当に単なる絵空事にすぎないのだろうか。いや、そうではない。私たちは、この平凡な日常が、ある日一変する可能性をはらんだ脆弱なものであることを、4年前の3月11日にまざまざと見せつけられたはずだ(黒沢の作品『叫』(2007年)においては赤い服の幽霊が現れるときに突如として地震が起こるが、今となってはもはや単なる偶然とは思えない)。そしてそれから遡ること10年前の9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が激突する映像を目の当たりにしたとき、まるでハリウッド映画を観ているかのような既視感を抱いた人も少なくなかったはずである。ゴダールが述べたように、「世界は映画化している」。そしてこうした世界の偶有性に耐えるため、今日、ヴァーチャルな存在を外部として描く必要があるのだ。

 

そう、私たちは今になって、ヴァーチャルな偶有性の海の中を漂っていることに気づかされたのである。しかし、そもそも「出来事(accident)」とはそういったものであったはずだ。今日「映画的なもの」とは、そうした外部、つまりヴァーチャルなものを露呈させるものであり、またそうでなければならないのである。

 

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