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詩が語る映画〜シネマトグラフ覚書〜

私のそう多くない映画に関する読書体験の中で、今現在最も興味深く、また他の映画関連書籍とは違う触感を抱いているものを一つ挙げるとするならば、それは間違いなくロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』である。

この本は映画について、例えば多くの映画批評のように分量のある言葉を用いて極めて具体的に、特定の作品や監督・役者を掘り下げるように書かれたものではない。映画に対して、とても抽象性の高い言葉の断片集になっている。しかしその一方である特定の状況や役者などに対しては極めて具体的な記述も見られる。これはある種、この本の技術書的な部分である。この本はタイトルの中に“覚書”とあるようにフランスの映画監督であるロベール・ブレッソン自身が自分の中にあるセオリーや、自身に課したルールであるとかをメモのように書きつけたものであるからだ。そのスタイルがこの本に他の映画関連書籍とは違う手触りをあたえる。この本はある意味で、冒頭から最後まで順番に前から読まれることを必須としない。少なくとも私自身が考える多くの批評は、構成が入念に考えられ、序文から本文、そしてまとめとなる形式を逸脱しているものではない。エッセイ的に書かれたものであっても、この文章がそうであるようにいわゆる“まくら”のようなものから内容を膨らませ、そしてオチとなる語り口から大きくそれることはないであろう。それは一定のまとまった文章が持つ宿命であるし、どのような文章も一つの創作物として「序破急」のような構造を持ちうることは自明である。そうでなければただの単語と助詞の羅列に過ぎないからだ。そんな中この本が語る言葉の断片は、きわめて羅列に近い。しかし、その羅列が我々に与える感覚的感銘はある意味で何万の文字が費やされた文章よりも大きいものである。ブレッソンの紡ぐ言葉一つ一つが私たちに映画を創ることや、映画の見方、果ては映画そのものについて考えさせる。

『シネマトグラフ覚書』がもつ「映画」という大きなものに対する姿勢を語ったが、一方でそもそものブレッソン個人の手記的な要素も見ることができる。この本には映画的真理なような要素も詰まっているが、当時のフランス映画が置かれた状況とその中でのブレッソン自身の映画への向き合い方、姿勢が記されている。具体的に例をあげれば、当時のサイレントからトーキーヘの移行や、それに対するブレッソンの考え方を知りながらこの本を読み進める必要もあるだろう。それはある意味で当時を知る歴史資料的側面でもあり、ブレッソン作品を読み解くための解説書的機能も有してくる。そしてブレッソンに焦点を当てるなら、『シネマトグラフ覚書』はブレッソンの金言をいわば芥川の『侏儒の言葉』のように書き留めた、彼自身の目から見た人生訓に近いものとして感じられる。それは彼自身を知るための重要な資料の一つになる。

 

そもそもシネマトグラフという言葉自体がもはや一つのブレッソン的イディオムになっている。それは彼自身がシネマを「撮影された演劇」と語り、シネマトグラフ、つまり「活動写真」の独自の活動様式を模索したからである。彼は職業俳優を否定し、素人を多く起用した。そして被写体のことをモデルと呼んだ。それは極めて作為的なイディオムの使用である。そしてその用法に隠されているものはブレッソンが映画という新しいメディアに対してあくまで真実味を重視していたことをうかがい知ることができる。本の中では繰り返し、人の作為を極限まで減らすべきだと主張されている。そしてそのことはブレッソンの映画に対する誠意がうかがえる。

 

『シネマトグラフ覚書』は抽象性・具体性、全体性・個人性、時代性・普遍性などを併せ持つことによって、いよいよ単なる映画書というジャンルを脱した、詩や哲学書のような様相も呈してくる。この本の魅力的なところは、ブレッソンによって紡がれた言葉が、映画に対しての深い造詣や感銘をもたらしてくれると同時に、良質な散文を読んでいるようなリズム感と共にシンプルな言葉の裏にある筆者自身も気づいていないような壮大な真理を我々に語りかけるところにある。我々はもはや、ブレッソンの手記や映画論書という括りをはるかに超えた、別種の真理の手応えをそのリズムや行間から無意識に感じることすらできる。ここまで書くと大言壮語かもれないが、ある種の詩や哲学のもつ「言葉」にはそのような力があるのは事実であろう。

 

文字数:1817

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