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オオカミ男の歌

音楽を聴く時という行為は発見に満ちている。それがまだ見ぬアーティストによるものならなおさらだ。私はバンドが好きだ。様々な歌手のジャンルがあるが、バンドの何がいいかといえば、基本的にバンドメンバーと彼ら自身だけで音を作り出せる、という点が特にいい。日本において一人で活動している歌手の多くはアコースティックヴァージョンやアカペラの曲の場合以外はほぼ彼らだけでは音楽を作ることができない。バンドの場合、極端な話、そこに彼らと楽器があれば生の歌が聴けると思うと身震いする。人間がその場に居合わせることによって音楽が生まれる、という行為に感動するのである。ジャズやオーケストラの演奏にも同種の感動があるかもしれない。とにかく私はそういう風に新しいバンドとの出会いを求めている。そんなある日、一つの奇異なバンドの姿に目を奪われた。オオカミが歌を歌っていた。

 

MAN WITH A MISSION(マン ウィズ ア ミッション)というのがそのオオカミバンドの名前である。彼らの新曲である『Raise your flag』を見て貰えばわかるが、オオカミが歌を歌うと言ってももちろん本物ではない。ありていに言えば覆面バンドである。オオカミの被り物をした五人組バンドであるが、この存在が非常に奇特に感じられた。覆面バンドは何も珍しいものではない。少し前の日本で言えば、BEAT CRUSADERSはメディア登場時には常に自画像がコピーされたお面をつけていたし、今では仮面女子といういわゆるジェイソンマスクをつけたアイドルグループすら存在する。これらの多くはキャラクターづけというパフォーマンスか、若干の匿名性の担保、あるいはその両方のために用いられる。しかし、これらはいずれもあくまで“仮面”であり、非生物であった。人間の顔を隠すために用いられているものの、仮面という性質上それをつけているのは顔を隠した人間である。仮面をつけることによって逆説的に人間として証明されている。しかしMAN WITH A MISSION(以降略称の「マンウィズ」と表記)はオオカミの被り物である。ここで「彼らの正体はオオカミである」と述べるつもりはないのだが、そこには人間でない何かの存在が若干ではあるが付与されることになる。

しかし、「人間ではないアーティスト」は彼らのみというわけではない。同じような例は、海外で言えばDaft Punkがロボットのようなヘルメットをかぶっていることが有名であろう。しかし、彼らは厳密に言えば、私が先ほど述べた、いわゆる「バンド」ではない。ハウス、エレクトロといったようなコンピュータによるサンプリングやDJプレイを主に用いて演奏をするユニットである。その電子的な要素が彼らのロボットとしての外観と合わさることで、彼らはまるで「近未来のロボットが作った音楽」を演出している。そこでのロボットマスクには人間であることを外観から排除するという、彼らの作る音楽との一貫性がある。しかしマンウィズはそうではない。私が最初に述べた、バンドによる人間がそこに集まることで生まれる音楽にはオオカミである必然性はない。むしろバンドによる演奏を人間的営みとするならば、オオカミであるというのはひどく中途半端に思える。さらに言えば彼らのメンバーにはDJが含まれている。サンプリングした音楽を近未来的に演出するためにロボットになったDaft Punkがいる一方で、オオカミによるDJとはこれもひどく中途半端である。つまり、マンウィズはオオカミのマスクをしてバンドをすることにより、人間でもなく、かといって完全に人間離れするというわけでもなく、身体的にひどく中途半端な存在となっているのだ。その中途半端さが奇特性につながる。

ここで彼らのパフォーマンスについて考えてみよう。彼らの演奏行為は一般的なバンドグループと変わらない。オオカミだからといって特に四速歩行をするだとか、何かに噛み付くだとかをするわけではない。楽器を演奏し、マイクを握り歌う。マイクの位置がライブでは若干オオカミの顎下あたりであることもあるが、基本的にまるでオオカミ男が歌を歌っているような所作である。しかしオオカミ男は実在しない。実在しないかはわからないが、基本的には存在を信じていない人の方が多数派であろう。ということは彼らの存在は幻想である。とするならば、ややもすると彼らの存在、あるいは音楽自体の幻想につながる。存在が幻想であることによって彼らの持つバンドの「生」の音楽と考えられたもの、少なくとも彼らの音楽がリアルだ、と感じる視聴者の幻想が打ち崩されてしまう。そもそも昨今は音楽に対する実在性は希薄になってきているだろう。それはインターネットに始まるデジタル時代の到来による現象の一部であり、映画などの映像も含めてその存在の写実性が見えにくくなっていることはよく語られる。音楽においてその際たる例が初音ミクを始めとするVOCALOIDの出現であり、歌声の持つ身体性が剥奪されたともいえる。生身の体を持たずデータのみで綴られる歌がCDとなり、スピーカーから聞こえるというのは歌の持つ身体性から最も遠くにあるものだろう。それゆえ、初音ミクはCGで作られた身体を持ち、それを投影することでライブを行った。それは身体を持たなかったものが本来持ち得るべきであった身体性に近づこうとした一例である。しかし、このように音楽の実在性と身体性が流転する時代において、マンウィズはただ幻想に近づこうとしている。彼らの演奏や歌声が本物だと支える身体性は、もはや幻想なのである。作り物のオオカミのマスクは声帯を震わせることはおろか、口を動かすこともしない(ボーカルのオオカミは常に舌を垂らしている)。そうなれば彼らの演奏を全て信じることは難しくなってくる。今更口パクのようなものを批判するわけではないが、彼らがいかにカッコよくギターを掻きならそうと、迫力満点のドラムプレイをしようと、音を消してしまえばそれはひどく空虚なものとなる。まるでエアバンドであるかのようにすら映るのだ。ここで一つの例としてゴールデンボンバーというバンドをあげるよう。彼らはまさにエアバンドであり、音楽ができないことを公言している。しかしこれは前述の初音ミクの例と同様に、メディアの実在性の裏を取った演出である。事実彼らのパフォーマンスは人気を博し、振り付けは大流行した。このように多くの人々にとって、身体性や本物らしさの不在は黙認されている現状にある。その中でマンウィズという存在はどのように認識されるのだろうか。

 

ここまで私はマンウィズが奇特だとしながらも、中途半端であり幻想になっていくと述べた。しかし、彼らの大きな要素として歌唱の特異性がある。それは“流暢な英語”である。マンウィズの多くの曲は英詩を含んでおり、それもラップ調であったりして、日本人が歌いこなすのはなかなか困難である。さらに日本語部分もどこかカタコトのような印象を受ける。英詩を歌う邦楽アーティストは珍しくないし、それこそバイリンガルのように日本語と英語を使い分ける歌手も多く存在する。しかし、彼らにはヴィジュアル的な国籍の要素があった。「流暢に英詩を歌う」という運動は彼らの身体的特徴と結びつき、その整合性をもたらす。しかしマンウィズはその存在をオオカミのマスクで隠している。このことにより、国籍は完全に秘匿される。外国人なのか、ハーフなのか、それとも帰国子女か。このことは私に中の人への興味を否応なくもたらす。そしてそれと同時に、先ほどまで述べていた幻想が連鎖的に覆るのだ。中の人に対する興味は、前提として中の人の存在を認めてしまう。中の人の存在を認めることにより、そのことは幻想と思われていた音楽とは逆に、その中から本物らしさを感じさせる。人間なのかそうでないのか、真実なのか幻想なのか、そのひっかかりが中の人物を意識させることにより、余計に本物らしさを感じさせてしまう要素となっている。

そこには新体制や本物らしさの不在を黙認している時代において、もう一度音楽の実在性を再確認させてくれる存在となる。

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