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純粋なる鑑賞行為の追求

絵画を前にして私たちは、その雄大さや美しさ、あるいは鬼気迫る迫力や巧みに現実を切り取った様に息をのむ。その時どのような背景を持って、どのような思想のもと、どのような時代に作られたのかということは大いに重要だろう。芸術作品に値がつけられる時、そこには作品内容はもとより、希少性や作家の知名度などが考慮される。しかし、この世に真の芸術というものが存在するのならば、それはおそらく地球上のどのような人間をも直感的に感動させるものだろう。そこには人種や時代に左右されない、根源的な美しさ、もしくは美しさだけに限らず私たちの感情に訴えかけてくる“何か”が眠っているはずだ。美術館には解説を読みに行くのではなく、作品を鑑賞しに行くものだ。私たちはその作品を見て、時に全体から、あるいは細部から作品の魅力を読み取らなければならない。作品はそのキャンバスの上にしかない。キャンバスの上にある絵具の集合体だけが絵画そのものである。この文章では一つの絵を前にした、ある男の思考を追っていきたい。

 

 

……私の前に一枚の絵がある。幅は2メートルほど、高さはそれより少し長い。なかなか迫力のあるサイズだ。嵐のように荒れる海に7人の男を乗せた船が浮かんでいる。彼らは皆ひどく衰弱し嘆いているように見える。中心の男一人だけが仁王立ちし前を見つめている。しかしその顔は英雄的とは言えない。よく見ると船の奥の波間にサメが群れをなして潜んでいる。船の男の一人はそのサメを見つけて怯えているようだ。絵の中に写っているものはこのようにいたってシンプルである。荒れる海、波間に浮かぶ船、その中の男たち、そしてサメ。それらが暗い色調で表されている…。

まずタイトルから考えよう。藤田嗣治『ソロモン海域に於ける米兵の末路』…。なるほど、「米兵」というからには彼らは米兵なのだろう。「末路」というからには、この米兵たちはどうやらここでお終いのようである。この後はサメに食われるのか、波に飲まれるのか、それとも餓死か。兵隊がこのように哀れな姿になっているということは敗残兵と考えられる。戦場で負け、乗っていた戦艦が撃沈でもしたか、命からが小船に乗り込んで今に至るというわけか。最初に目につくのはやはり仁王立ちしている男だろう。彼は腰に手を当てキッと船の後方をじっと睨んでいる。どのような感情なのか、現時点ではまだ推し量れない。しかし彼がしゃがみこんで絶望している他の船員の中、一人すっくと立つ姿はなかなか堂々としている。

…よくよく船を観察しているとおかしなことに気づいた。この船にはオールがない。そもそも、まとまった荷物らしきものがない。船底には船を係留していたものだろうか、ロープが転がっている。無造作に転がる樽のようなものは、そのぞんざいな扱いから察するに、もはや空か中身が残っていたとしてもわずかであろう。オールも、ましてや帆も存在しない船。まさにこの船は漂流しているのだ。行く方なくただ波間に漂い続ける船はいよいよもって絶望的な状況らしい。そして絵に顔を近づけてわかったのだが、船や人物のやたらくたびれた様子の中に、赤に近い茶色、いうならば赤錆びた色の絵の具が塗られている。まるで血が固まったかのような生々しい赤色だ。この有機的な赤は果たしてこの船員たちのものなのだろうか。

この船員たちにもここに至るまでにドラマがあったのだろう。どのような戦闘だったのか。彼らはこうなることを覚悟していたのか?故郷は?家族は?さすがにそこまでのことはわからない。ここにあるのはとにかく現状に絶望したりうなだれたりする男たちの姿である。男たちの様子をよくよく見てみる。どちらかといえば皆「静」の絶望をしている。左上の男は身を乗り出すようにサメに視線を送っており、ある意味この中では一番動きがあるように感じる。その手前の男は顔に手をやり、もう一方の腕を伸ばしている。その腕は船のへりをつかんでいるが、角度のせいもあって天に手を伸ばしているようにもみえる。しかしこの腕、先ほどの乗り出している男の背後すぐ後ろを通ってへりに至っている。ということは乗り出す男は、見た目よりもかなり狭いスペース、手を伸ばす男と船の角が作る三角形に押し込まれているのだ。まるで拘束されているかの様にも感じられ、圧迫感を増している…。

次に気になるのは乗り出す男のちょうど対角線側、仁王立ちの男の足元で布にくるまり目を閉じている男だ。この男はもうこの状況に諦念を抱いているのか逆に落ち着いて見える…。いや、そうではない。この男は明らかに周りの男たちより血色が悪い。黒色に白のような色。そして白い布に包まれる姿。なるほど彼はもう死んでいるのだ。顔も骨ばってドクロの輪郭が透けているようにみえる。この絶望的な船旅に明らかな死の香りをもたらしているのは死装束に身をまとった一人の男というわけだ。

…さて、今度は海に目を向けてみよう。この海、ほとんど黒のような濃い青をまとっている。奥にはまるで山のように盛り上がり荒れ狂う波が描かれている。一方、中心の船より手前側はというとこちらはまるで動きがない。奥の山の如き高波と、手前の凪のような海。その対比が対位法となり、かえって荒れる波=これから訪れる災難がこの窮状に迫っているような効果を生んでいる。先ほどの山のように盛り上がる波の麓にはサメが群れをなしている。一匹は体を大きくひねり波間から飛び出し、いかにも元気いっぱいという様子だ。サメの群れは全部で6匹。なぜ6匹なのだろうか。…人間の数はというと、全部で7人だ。単純に一人多い。しかしここで気づくのは、先ほどの布に包まれた男が、死人といううことのより強い根拠になるということだ。サメが死をもたらすものの象徴として描かれているならば生きている人間に対応して6匹。つまり足りない分はもう既に死んでいるからと考えられる。そしてこのサメは構図的にも人間と対応していると考えられる。しゃがみこむ仲間の中、一人立ち上がる男。群れのサメが水中に潜む中、躍りでる1匹のサメ。それぞれに対応して死に相当するような困難が訪れることが示唆されている。

…もう一度よく船上の人々を観察するとまたひとつのことに気づいた。この人々は妙に人体の一部が隠れているようだ。立ち上がっている男も右腕は体に隠れてしまっているのか見えない。そのすぐ足元にしゃがみこんでうなだれている男の左足は曲げているのか、それとも失われてしまっているのか、膝の下あたりからぷっつりと描かれていない。一番「動」の表現をしているサメに向かって乗り出している男ですら右肩が見えていない。やはりそれは人体の欠損、不完全さを示し、消耗感を表していると考えられる。人体の欠損と考えるとところどころにみえる赤錆びた色の絵の具も、まさに血を表現しているともいえるかもしれない。そういえば先に見た和田三造の『南風』では中心に一人立つ男は筋骨隆々としており、一部布で体が隠れたりはしているものの、その立ち姿は実に英雄的であった。西洋の宗教画において人一倍大きく描かれていたり強調されているのは、キリストであったり聖人である場合が多い。つまりこの『ソロモン海域に於ける米兵の末路』において聖人のようなポジションにいるのは、やはり仁王立ちの男なのである。よくみれば、頭のあたりはぼんやりと白味がかかっており、強調的に描かれているように受け取れる。ウジェーヌ・ドラクロワの『Christ Calming the storm』やティントレットの『ガリラヤ海のイエス』に描かれているように、キリストや聖人の頭に後光や後輪があるのは珍しくない。そんな中で後光をまとい強調表示されている男は必要にしわくちゃの服を身にまとい、右手はすっぽりとまるでそこに存在していないかのように、描かれていない。そしてその足元に転がるのは死人と思われる布に包まれた男だ。唯一の英雄的存在をあえてボロボロに、人体の欠損とも取れるような未完成な描き方をし、とことんまで貶めるような描き方が、キリストを思わせる英雄ですら終焉に向かっていることが感じさせる。船に乗る彼らの中心的存在が、一番に彼らの末路を暗示しているのだろう……。

 

『ソロモン海域に於ける米兵の末路』を前にして、私はこのようなことを考えた。しかし、絵画そのものをみて、できる限りそれについてのみ純粋に思考してみようという私の目論見は失敗したかのように思われる。というのも、これはそもそも私の持っている知識や今まで培われた感性のようなものに裏打ちされている見解であるからだ。それでは万人が共通に得る印象とは言えないだろう。しかし、何かをみる、今回の場合は絵画を鑑賞する時において、最低限度の人間的前提はなくすことはできない。そこから何を個々人が受け取るのか、作品を前にしてどんな個人的見解が飛び出すのか。そこに批評というものの一端をみた気がするのだ。絵は視覚を持っている限り、時間や場所にとらわれず共通のものを我々に与えてくれる。

 

同じようにキャンバスの上に乗った絵具の集合体が、私たちの目によってのみ形を変える。

 

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