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ねじれる日本人

人は恋愛が好きだ。特にそれが他人の恋愛ならなお良い。人は他人事の恋愛が好きだ。もちろん「恋愛話なんて興味ないよ」と言う方も多くいらっしゃられるだろうが、歴史の中で恋愛が政治や芸術を成したこともあっただろうし、日本人は義務教育で古典の名作として『源氏物語』なる官能小説まがいの長編恋愛小説を教えるほど、恋愛文化に古くから親しんでいる。

そんな恋愛大好き民族の日本人だが、西欧諸国より性に対して大らかではないと言われる。しかし少し歴史を紐解けば、夜這いやら筆下ろしやら武士の間では男色がステータスだとか赤線地帯のように公娼制度が存在したりと、戦前まではなかなかにエロかったらしい。それを加味してみれば、日本人は大のムッツリスケベ民族である。エロいことや恋愛には興味津々。だけど人前では日本男児、女には目もくれないのが美学。女もおしとやかに、操を守り貞淑さを磨きましょう。まるで中学生のごとき恋愛倫理観である。

さて、そんな恋愛倫理観を持ち合わせていた日本人だがここ最近その倫理観に変化が見られる。それはアメリカナイズされ性に大らかになった、というステレオタイプなことではない。一言で言えば「恋愛の顕現」である。

もともと昭和に入り日本が豊かになりだすと日本人はその消費を生活ではなく、余暇やレジャーに向けた。その時、市場がターゲットにしたのはファミリーとアベックであった。はじめはドライブ用の車や記念のアクセサリーという物質的なものが売り出されたが、恋愛市場の発展に伴い、男女が楽しく過ごせる場所や時間の使い方までもが提案されだした。そして平成不況を経て、物質的な快楽を求めていたものが、“スローライフ”という言葉にも見て取れるようにお金をあまりかけずとも時間や生き方を充実させようという形に変わっていくわけだが、そこに今までマスメディアなどによって作られた恋愛至上主義が加わると、人はパートナーとの時間を大事にすることこそが至上命題、という価値観に変化した。一方で個性の教育、個の考え方といった価値観が台頭すると同時に一人でも楽しめる趣味の多様化が現れた。インターネットやアニメのような典型的イメージのオタクカルチャーもその一つである。そのような数多くの楽しみの前に恋愛も個人が選択する趣味の一つとなった。そうすると、ここからある種の二極化が始まる。恋愛をする人としない人である。…そう思われたが実際そんなことはなく、オタクだって結婚する人はもちろんいるし、本当に恋愛にも他のものにも興味のない真の無趣味のような人もいるだろう。これらの概念は二極というよりは混じり合いねじれながら進んで行く。そしてそこに一つの社会現象として十分に普及したインターネットからSNSという文化が加わる。

SNSは“見せる”文化であった。他人と“共有する”文化であった。人々は自分の行動や気持ちを人前に晒す必要に迫られた。そこに今までの恋愛との違いが生まれる。確かに以前からペアルックやペアリングのようなものは、互いがパートナーであることを対外的に示唆するものであった。パートナーの職業や容姿を他者に見せびらかすことも珍しくなかった。しかし基本的には二人の生活、いわば“ライフスタイル”は彼らのみのものであったし、友人知人が、彼らのデート先を知っていることはあっても、赤の他人が知り得ることはそうそうなかった。しかし今は違う。二人の行動を、愛の形をSNSにあげることで人前に提示し証明することになる。それも目の前にいない他者に、である。さらにそこに「いいね!」という他者の共感が合わさり、優位性を示す要素が加わった。「僕たちはこんな素敵なデートをしました」「私たちはこんなにラブラブです」と。その最たる例がtwitterのカップルアカウントであろう。個人または一企業などの情報を配信するツールであるtwitterをカップル二人で共有し、見ている人々がそのカップルを応援するのである。そしてこの種のアピールをするほど数値化された優位性が返ってくる。他方で従来のオタクと呼ばれる人々が、いままでは個人で部屋の中で愛でていたキャラクターたちを、どのように愛しているかSNS上で競うような行為も見られるようになった。キャラクターの誕生日には多くのグッズやフィギアなどを祭壇のように飾り付け、ケーキとともに写真をSNSにアップすることも珍しくなくなった。その仕組みも、対象は多少違うものの、基本的には同じものである。

ここに至るまでには価値観の変容だけでなく、もちろんハード的な諸条件が揃ったこともある。前述したインターネットの発展がそうであったし、ポータブルなカメラ・通信端末などの特徴を併せ持ったスマートフォンの普及もある。携帯各社がその大ヒットを目の当たりにし、今まで一社のみの取り扱いであったものを、次のモデルから相次いで取り扱うことを決めるきっかけとなったiPhone4の発売が2010年である。それはその後のSNSの発展に大いに影響した。

このように従来の恋愛文化に加えてツールの発展により、現代は「恋愛の顕現」を要求されている時代と言える。しかし、ここに一つのねじれ状態が生まれる。それが婚活文化である。恋愛を他者にアピールしたいのに相手がいない。そしてその原因は趣味の多様化であったり価値観の変化である。個人でできる楽しみが増えれば出会いの場も少なくなる。一方で価値観も複雑化、そして他者にアピールするという意識的・無意識的前提のもとに要求する要素が多くなり、結果に結びつきづらくなってしまう。その末にもはや恋愛に特化した行動をとらざるを得なくなる。それが婚活ではなかろうか。もちろん婚活の成立には社会的な問題や経済的な要素も関わってくるため、決して一義的ではない。しかし「恋愛の顕現」の末の婚活もまた一つの要素である。そして一番の問題は「恋愛の顕現」によって必要に迫られた婚活が、奇しくも「恋愛の顕現」の中に戻っていくような構造になっているからである。今よく目にする婚活のスタイルとして、婚活サイトなどの企業に依頼する形での婚活産業が増えてきている。しかし、そのような婚活未満の活動としては、SNSのようなシステムを使うことになる。そこで自分をアピールし、アピールされている要素に対して取捨選択をする。それはもはやアピール・顕現の坩堝である。

戦後日本人は争いを好まない、とされた。政治家の「誠に遺憾である」という言葉は、弱腰の代名詞のように言われることもある。しかし今どうだろうか。SNSはアピールの戦場である。「いいね!」という戦闘力を競う、ランキングの場だ。それは多くのソーシャルネットゲームも同じ仕組みである。自分が強くなったということを、技術や自分との対比ではなく、他者との相対的な評価に求めている。昨今、そのようなアプリを製作する企業の急成長が度々見られるが、それが人々に求められた結果だとすれば日本人は他者に対してひどく好戦的であるのかもしれない。物理的にうちのめすことより精神的に優位に立つことへの、いわば強迫観念とも言えるような執着。それは人としてあって当然かもしれないが、その構造がねじれ、スマートフォンという小さな箱の中の、広く狭い世界で繰り広げられていることが問題だろう。その違和感が、電車の車内でスマートフォンを見つめる人々の群れにこだましている。

しかし、この顕現することをもとめているのに目に見えないというねじれを打破するものもまた、価値観の変容とハードの発展ではないか。例えば、いままで人がどこで何をしているかというのは、相手に直接連絡を取ることでしか伺い知ることができなかった。しかし、SNSのようなアピールするツールによってそれが解消される。さらに言えばそこから今の相手の感情すらわかる場合もある。それがハードの発展と時代の変化に伴い、より感覚的に情報を入手し発信していくことができれば、それはまるでエスパーのように相手の気待ちを推し量り、人々が誤謬なく生きていく助けとなる可能性もはらんでいる。もちろん個人のプライバシーや、相手の気持ちを理解することが幸福に結びつくとは限らない。むしろ、そんなことは御免だと、否定する要素の方が多いだろう。このまま価値観が変わらず現代のままそのような状況になった場合、悪い変化の方がより顕著であろう。しかし、今まで述べたように、技術やハードの発展と社会や人々の価値観は相関関係にある。その上で述べるならば、新人類のような存在がこれから生まれてくることもあながち否定はできない。

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