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告白論   〜文豪はスワイプするのか〜

元来告白とはキリスト教的西洋思想において信仰の告白、あるいは自分の罪の懺悔に他ありませんでした。胸の内を打ち明けること、自分が内面に秘めているものを白日のもとに告げる。それは心の奥深くにある神への信仰、または自らが封じ込めた罪を打ち明けるものでした。

今「告白」といえば、世間一般にはその意味が転じて、ほとんどが他者への信仰、つまりは他人に恋慕する感情を打ち明けることとなりました。「告白」という言葉の持つ、胸に秘するものは打ち明けるべきでないような恥であり罪であるというニュアンスが恋愛と結びついたのも無関係ではないでしょう。もちろん状況によって意味が変わるのが言葉でありますから、罪や秘密の吐露として「告白」という言葉が使われる場面も多々あります。しかし、日常会話の中で「告白」といえば、「愛の告白」という場面がほとんどです。それは男女に互いに興味が出始め、恋愛が盛んになる思春期において顕著でありましょう。若者の間で「告白する」という言葉は「コクる」という動詞に変化し、その本来の意味が持つ、どちらかといえば深刻で真面目な要素は形を潜めて、若者らしい恋愛のための言葉となりました。もちろん若者たちにとってはいささか真面目で深刻な事態ではあるのですが。

 

近代日本はその独特な家父長制の中から恋愛の形の変容がありました。よく言われることではありますが、自由恋愛の時代の到来です。その契機には戦後にもたらされたGHQの文化政策が大きな役割を占めます。映画などのメディアの中で接吻映画と呼ばれるようなものも登場し、今までの日本人には触れることのない自由な恋愛や性愛の場面が提示され、それは戦後日本を文化面から自由主義に変えていくために必要な手続きとしてアメリカによって励行されました。そこから急激に変化したというよりは、ゆっくりと過渡期を迎えながら恋愛の形は変わっていきました。親に決められた家同士の結婚から個人同士の結婚という価値観がうまれました。もちろん今日、結婚の中に家同士のつながりという意味がなくなったわけではありませんし、元来戦前の日本人が個人同士の恋愛をしていなかったわけでもありません。しかし、集団から個人への価値観の変遷は確実に存在し、「個」という名の自由が恋愛においても強力な力を持ち始めます。

 

見合い等の社会的な結婚支援制度が減少した理由の一つには、個人の恋愛からの結婚が正しい形であり家を反映させるための結婚は強要されない、という考え方の台頭があるでしょう。戦前の「家柄がいい」「勤め先が立派」という言葉には、一族繁栄のためのニュアンスが含まれていました。そのためにお互いの家同士をマッチングすることがお見合いの機能でもありました。しかし、現在のそれらの要素、つまりパートナーに選ぶ人間の社会的地位といったようなものは、ステータスやブランドのようなものになりました。ブランドもののバッグや外車を買い、そのものの機能性などよりブランド自体を消費するようになったのと同じように、パートナーの社会的地位は何か具体的な機能性(多くの金銭を得るという機能は除く)よりも、ブランドとして他人からの優位性を誇示するために重要視するという事態も多く見受けられるようになりました。そして社会に根ざした結婚支援制度、つまりお見合いのように地域や身内で自給自足できるサービスとして成り立っていたものが成立しなくなり、そのサービス事態を企業に代行してもらう、今の婚活ビジネスへと繋がっていきます。そのことからも現代の結婚に対する価値観はある種、路頭に迷っているともいえます。社会的な外圧としての結婚の理由がなくなり、個人の価値観の上での結婚は「なぜ結婚するのか」という結婚の必要性を説くことから見直さなければいけなくなっているのです。

 

そのような中で物語の中の恋愛も大きな変化を強いられます。悲恋を取り扱った作品は数多くありましたが、その悲恋の内容が変わります。家と個人の間で板挟みになり苦しめられ引き裂かれるという悲恋が、自由恋愛の解禁によって引き裂かれなくなってしまいます。家は個人の幸せを尊重し、美しく青春を謳歌する恋愛を推奨するほどの立場になります。そのことによって悲恋を成り立たせる、二人を引き離す障害がなくなってしまいました。そして新たな障害として、確実に強力に二人を引き離すものとして導入されたものが《死別》でした。2001年の『世界の中心で、愛を叫ぶ』から始まり、恋愛の悲劇としてどちらかが死に関係するという風潮が多く見受けられました。死別する悲恋が大量生産されることは昨今の恋愛市場の自由化と決して無関係ではないのです。そしてそれは裏を返せば、家によって引き裂かれるということが死に匹敵する絶対的な別れであったという感覚も垣間見ることができます。だからこそ秘めたる恋の中に個としての美しさが凝縮されていたとも考えることができます。

 

社会的な結婚制度は恋愛という個人的感情と表裏一体になっていました。今から見ると窮屈な家父長制の中でのお見合いなどは、一族、ひいては国家の繁栄にとって非常に合理的なシステムとして成り立っていました。しかしその裏で日本人は秘めたる恋を美徳として持ち合わせていたのです。感情を秘めることを良しとする中で、「告白」とはやはり元来意味として持ち合わせた心の奥底にある感情を、罪のように打ち明けるという要素を強く持っていました。むしろ秘すれば花、告白すらしないことが最大級の美しい感情なのだ、とまで言えたかもしれません。しかしそれとは逆に、個が台頭した日本では自分のために自分の感情を表に出す必要が現れました。前述の社会的結婚支援制度の消失も含め、もはや秘めていたのでは恋愛などできない時代が訪れたのです。自分の好みを並べ、まだ見ぬ異性が好きだと容易に告白することがベーシックとなっているのです。

 

そして簡便に告白するための方法として、いまでは様々なツールが駆使されます。それこそ文字すら庶民では読めない時代では、告白の方法は行動、あるいは言葉として直接表明し、伝えることしかできませんでした。この中には絵画や歌などのいわゆる芸術活動も含まれるでしょう。次に言語活動として文字が普及すれば、ラブレターになりました。いまでも文豪の恋文が発表され、その叙情的な様が話題を呼びます。次にはコミュニケーションツールの発達の中で電話、Eメール、LINEなどと続いていきます。そしてラブレター以前とその後の電子的ツールの中では大きな歴史的開きがあります。これらの媒体はどれも自分の秘めたる感情を対外的に表し伝えるという意味では大きく変わることはありません。ではラブレターとLINEの違いはなんでしょうか。物質的な力や、デジタル化なども挙げられるでしょう。しかしそれはやはり言語体系としては同じものであるのです。芥川龍之介の恋文を横書きの5インチ液晶に納めてもその内容が変質することはありません(もちろん物理的な差異による印象の変化はあります)。しかしいくら同種のものといえど残る違和感はなんなのでしょうか。これはデジタルとアナログの違いと一見錯覚してしまいそうですが、やはり内容の違いではないでしょうか。いままで散々述べてきた時代による恋愛観の変化。抑圧され悩み苦しむことにより純化された心の奥底の感情と、直接的に表すことのできる今生まれては吐き出される感情。この違いが、デジタル化による媒体の変化により具体的な表出方法が変化したという技術的事象と時期を近しくしたことによって違和感を生み出していると考えることができます。

これらのことは優劣ではなくあくまでも違いであり、形式の変容です。そしてその内容や意味性の重要さは変わらず存在しています。これからの時代、いくら軽はずみに「告白」できたからといって、以前の恋愛観より劣っていることには必ずとも言い切れず、その変容した恋愛観の中で個の持つ感情の美しさは依然意義を持ち続けるでしょう。制度は変わり、技術も変わり、恋愛観も変わります。しかし「告白」すること自体が無くなることはないのです。

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