印刷

走れメロスのように

  • ある市民の証言

 

彼は怒っていました。それはもう。ただ怒るというよりもはや憤怒というか、激怒というか…。彼は政治なんてまるで知らないでしょう。十里離れた先にある村で牧人をやっていたはずです。確か結婚を控えた妹がおられるとか。あの荷物をみるにその準備にはるばるこのシラクスの市までやってきたのでしょう。でも不思議なのは結婚式などというのは実り多い秋にやるとばかり思っていたのですが、この真夏に準備をはじめるとは、大層せっかちに思えます。確か彼はこの街にセリヌンティウスという石工の友を持っていたと思います。彼のもとに立ち寄るのかと思い見ていたのですが、突然市の人々に「何かあったのか」などと詰問しだしたのです。若い衆に答えてもらえなかった彼は、次に老爺をつかまえ、あまつさえその老爺を揺さぶりながら「なにかあったのか」と語気を強めて質問されていました。たしかにここ最近、王は人を信ずることができないなどとおっしゃられ、次々に人を殺しています。それはもう恐ろしいことで、そのおかげでシラクスの市に最近活気がないのは事実なのですが、驚いたことに彼はそのことを聞いたと途端、「呆れた王だ。生かしては置けぬ。」と激怒して、買い物の荷物を背負ったまま城に乗り込んで行ったのです。あまりに単純な男です。そのような男ですから、巡邏の警吏にたちまち捕縛され、さらに懐から短剣が出てきたので騒ぎが大きくなりました。王との問答が始まりまして、最初は「市を暴君の手から救うのだ。」「罪のない人を殺して、何が平和だ。」と威勢がよかったのですが、王の口から磔という言葉が出た途端、「処刑まで三日間の日限を与えてください」「必ず、ここへ帰ってきます」と突然かしこまって言い出しました。それだけでも情けないのですが、なんと彼は代わりに自分の友であるセリヌンティウスを人質として置いていくと勝手に言い出したのです。「ここに帰ってこなかったら、あの友人を絞め殺してください。たのむ、そうして下さい」と嘆願なさっていました。まあ彼がもし帰ってこなくとも、王は磔にするとおっしゃっていたので、絞首刑ではないと思いますが。それをきいたセリヌンティウスですか?終始無言で頷くばかりでしたよ。呆然としているようにも見えました。その後メロスはすぐに出発されました。

 

 

  • メロスという男

 

日本人で義務教育を受けていれば、多くの人が知っているだろう太宰治の『走れメロス』。

この作品は、友との友情、人を信頼することと大きな意味での愛などを語る名作である。しかし、この作品を知ると同時に誰しもが突き当たったのではないだろうか。メロスはなんと身勝手で直線的な男なのだろう、と。その直情さが、この壮大なテーマを語る上で必要になるのは確かである。走ることと一直線的なそのイメージが結びついて、よりメロスという「走る人物」が活きてくる。メロスが荒れ狂う河を泳ぎ、山賊たちを蹴散らし、灼熱の中半ば諦めそうになりながらも再び復活を遂げ、最後は満身創痍になりながらも友の元にたどり着く。その姿は、まさに何か自分自身のためではなく、大きな愛や正義のために戦うヒーローそのものである。この作品はメロスと王との対決であり、約束を果たすためにメロスが帰ってくる、というわかりやすいプロットである。さらに言えば最終的には王を打ち倒す、というような勧善懲悪ではなく、メロス自身が人間の持つ善なる部分を体現するような存在になるというものだ。そう『走れメロス』はメロスが走る姿をみると同時に、メロス自身を見続ける物語とも言えるのだ。しかしやはりこの『走れメロス』という作品は初めにあげたような細かな粗が多い。しかもそのほとんどがメロスのパーソナリティによる部分での引っ掛かりである。あなたが、たとえば渋谷に買い物に行く。しかし渋谷はなんだか活気がない。道行く人にきいてみると、区長が邪知暴虐だという。「生かしては置けぬ」。こうなるだろうか。

この古今無稽さの理由づけとして、ここで提示したいのは《メロス=のび太》説である。

 

  • メロスとのび太

 

メロス=のび太と言い切ってしまったが、厳密に言うと《のび太と同タイプの主人公》ということである。普段はだらしなくおっちょこちょいであまり役には立たない。自分の思い付きには正直であり、大義名分よりは自身のことを中心に行動する。しかし、友情や愛情などの義理人情は厚い優しい性格で、そのために行動したときは人一倍いい働きをする。『ドラえもん』の世界の中ではときにTV版と劇場版で違った一面を見せるキャラクター(TV版では基本いじめっ子だが、劇場版では誰よりも仲間思いなジャイアンなど)がいるが、これは劇場版においてキャラクターのパーソナリティが変わっているというよりは、元々持っていたものが美化・協調されていると考えるべきだろう。のび太の場合は、その優しさや、友情・勇気、ドラえもんとの信頼関係がより協調される場合が多い。この『走れメロス』においてはメロスの持っている正直さや情念がある意味普段よりも美化されている。メロスとのび太をそのまま置き換えるとわかりやすいかもしれない。

のび太がシラクスの市にやってくる。街の様子がおかしいので人に聞いてみると、王が悪いやつだという。「なんてやつだゆるせない!」意気揚々と城に向かうも捕まってしまうのび太。そのときドラえもんを身代わりにおいていくことを提案する(ドラえもんとの問答があるだろうが)。必ずドラえもんを助けに来ると約束するのび太。村に戻り用事を済ませるも寝過ごす。しかしまだ間にあう、自分を奮い立たせ街へ向かう。数々の機転を利かせ難関を乗り越えるも、最後に諦めそうになるのび太。しかしのび太は諦めずドラえもんのために再び立ち上がる。そして最後、ついにはドラえもんの所へたどり着くのび太。感動の抱擁を交わし、互いに「ごめんねドラえもん、途中に諦めそうになったよ」「いいんだよのび太くん、僕も君が戻ってこないかと思ったときもあるんだ」と言い合う。そして王もその場で改心して仲間に入れてくれという。

概ねこのような感じになるだろう。ドラえもんとのび太という二人のキャスティングにより、細部こそ差異があるかもしれないが大まかなながれ、特に主人公の行動面においてはつじつまが合う。この流れは劇場版の『ドラえもん』と通じるものがあり、むしろ随所をアレンジすれば『のび太のギリシャ奮走記』などとしてそのまま劇場公開できそうなほどだ。このようにキャラクターを入れ替えても話が成り立つということは、互いのキャラクターの類似性の照明になろう。

 

  • 性格破綻者としてのメロス

 

ではメロスがのび太型主人公である意味とはなんだろうか。たとえば一般的な(ジャンプに代表される)少年漫画の主人公は自分の力で敵や困難に打ち勝つのを良しとする。それを『走れメロス』に適応するなら、メロスは一度邪知暴虐な王に捕まるも、命からがら脱出し修行の末に王を打ち破り自ら王になる、といったようなものだろう。ここで読者が見たいのは主人公であるメロスが困難を乗り越え勝利する姿である。そこにカタルシスが生まれるわけだが、実際の『走れメロス』はそんなことはない。実際の『走れメロス』どちらかといえば道徳的な意味を持った物語である。【メロス】が【王】に打ち勝ったのではなく、メロスの【信念】が人間の【欺瞞】に勝ったことを示す物語なのである。それは本文中の「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。」という一文に示されているだろう。先ほどストーリではなくメロス自身を見る物語だと述べたが、正確に言えばメロスに体現された【信念】をみる物語なのだ。翻ってのび太に言えることとは、のび太が示しているのは自身(のび太というキャラクター自体)の成長や勝利よりも、子供の純粋な優しさや友情のあり方をのび太に重ねられている一般的な子供たちに示しているということである。この手のキャラクターは結局のところある種、思想の擬人化であり、このキャラクター自身が深く見られることに対応していない。リアルなキャラクターを作りたいと思えば、こんなことしないだろうという疑念が出るような行動はとらせない。共感を求めることでそのキャラクターが等身大となるからだ。人間は様々なものが混ざり混沌としている。それがリアルなキャラクターというなら、このように思想を体現するような、いわば純粋信念や純粋友情はリアルになり得ない。それが彼らが古今無稽である理由なのである。

実際によくよくフォーカスして考えるとありえないキャラクターの行動、逆にいえば、ありえない行動をするキャラクター。その行動自体には理由がなくとも、その行動は少なくとも読者や観客が物語を見る上で必要なことがある。それは彼らの行動や言動が一つの純粋な役割から出てくるものなのだ。メロスは他の市民から奇異の眼差しを向けられていたが、これで少しは理解を得るのではないだろうか。

文字数:3711

課題提出者一覧