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「こんにちは」の実在

 

「こんにちは」といえば「こんにちは」と返ってくる。このやり取りに無数の、普段は意識し得ない奇跡が詰まっている。

それは俵万智の短歌やACのCMにみるような道徳観を指して言っているわけではない。

 

世の中には様々な声が存在する。では「声」とはなにか。

 

当たり前だが「声」は「音」である。通常我々が「声」を発する時、声帯を震わせ口腔に共鳴させ空気中に振動として声を生じさせる。その振動を耳の内部器官が取り込むことで伝わるわけだが、もう少し詳細に説明すれば、その前後に脳による電気信号の指令があるだろう。言葉を発しようと思考し、脳が考えた言葉を電気信号の命令として声帯に送り込むという作業が加わる。耳に入った音声も同じ工程を辿って脳に伝わり認識される。さらには言葉を発しようと思った行動などにまで言及することもできようが、それではバタフライエフェクトのような話になってしまうため、一旦この文章では発生の仕組みをこの範疇に収めておこう。ではこの工程の中、いつから「声」は生じたのであろうか。

 

頭の中で思考しているものはまだ実在しない、というような認識論に当てはめてみれば、耳に入って他者に認識された瞬間からだろうが、「声」がこの世に物理的に生じたのは空気を震わせた瞬間であろう。空気を震わせた瞬間に「音」が生まれた。あくまでも波形の振動でしかないが、そこには物理的影響力をもつ現象が生じている。

 

 

さて、話は変わるが昨今様々なもののデジタル化が謳われている。それは芸術の諸分野でいえば写真、映画、音楽などに波及しているだろう。その時に問われるのが、実在性の問題である。映画であれば、CGのようなものは結局元をたどればコンピュータ上に再現されたデータにすぎず、そこには元来フィルムに焼き付けられていた本物の対象物が存在していないことになる。そもそも幻燈というシステムにおいて、その実在性を担保していたフィルムというメディア自体が今では希少になり、映画がデジタルデータで流通している。それは写真の場合さらに顕著であり、スマートフォンの台頭によって誰しもがデジタルカメラをいつでも所持し、写真を撮る機会が増えた一方で、デジタルによって取り込まれた画像はプリントされることなく、ほとんどがモニター上で閲覧される。そこには実際に写真は存在していない。デジタルの画像データがあるのみだ。さらには前述のCGのように、フォトショップなどの画像加工ツールによって画像自体を改変することができるようになった。そこではフィルムや写真がもっていた実在性や確からしさといったようなものは、もはや姿を消している。我々はもう坂本龍馬の写真での姿を信じることはできない。

 

音楽でもこの傾向はもちろん顕著であり、音をサンプリングし加工するタイプのミュージックが出現する。音を自由に加工することができるようになったとき、声にエフェクトをかけた歌が登場する。それ以前にエレキギターなどのエフェクトも同様に音を変質させることが普及していったのだ。ある意味では「音や声の整形」といったようなものが可能になったのだ。次にそもそもの音をデータとして作り出すことができるようになった。そしてついには実際には人の手では演奏されていない音楽も登場する。コンピュータ上に再現されたその音楽に、コンピュータで再現された音声までつくこととなる。このとき我々が耳にしている音楽は、出自不明の突如として湧いて出た存在のように知覚される。

 

我々は実際に演奏された音楽や写真や映画に対して、オリジナルの存在や実在しているという一回性からくる、ある種の神性のようなものを感じていた。それはヴァルター・ベンヤミンがいうところの「アウラ」であるわけだが、デジタル化が進むことによってさらなるアウラの喪失に我々は遭遇してしまった。しかしこの喪失は一方でひどく曖昧なものであることがわかる。特に音楽に関して。

 

前述した例の中で重要になるのが「人の手による介入」ということだろう。しかしそもそも翻ってみれば、音楽の演奏という行為自体、広い意味での音の編集である。音を組み替え、並べることによって音楽はできている。コンピュータ上で再現された音楽や歌は、もともとの存在が希薄である。その理由としては元来の組み換える前の音の実在性がないからだ。しかし、その前に登場した電子楽器、例えばキーボードなどにみられるものは実在性がないと言えるのだろうか。キーボードや電子ドラム、テルミンでもいいがそれらは実際には演奏されてないということができるだろうか。ではそれらは人の演奏による一回性を持つとして、インプロビゼーションによって聴衆の目の前でコンピュータ上に曲や歌を再現した場合、その行為は十分に演奏と言えてしまう。存在しないものを演奏することによってそこに実在性を付与することは十分に可能だろう。それはもともと音というものが、少なくとも視認することのできないゆえに、多くの認識に支えられて存在するという特性をもつものだからだ。我々が思っているほど、シンセサイザーのキーボードとコンピュータのキーボードは大差がないのかもしれない。そうした場合、音の加工であったり、音を生み出すという行為は、実際のところ大いに許容されているのではないだろうか。少なくとも映像や写真に比べると、我々はすでに日常的に音の変容や改変を受け入れている。

 

このように音の加工が日常的であるとしたとき、その論を冒頭の「声の発生」に差し戻し、声の発生について再び考察してみたい。加工された音を、我々が本来の音と誤認したとして、しかしその認識を付け加えることで音は存在を持つことができる。例えば、ゴジラの鳴き声は松ヤニを塗った革手袋でコントラバスをしごいた音をさらに逆回ししたものだという。しかし我々はゴジラの鳴き声を聞いたときに、松ヤニとコントラバスを想起し得ない。むしろその加工された音はゴジラの鳴き声として、ゴジラが発したという実在性すら帯びている。それはもちろんその他の「架空の声・音」にも言えることだ。もともとの音を加工することで、元来とは違った実在性が与えられる。そのような行為が日常的に存在する中で我々は、互いに「こんにちは」を認知する。それはある意味で冒頭に述べた「空気の振動」という物理的要因をはるかに超えた認知であろう。脳による電気信号的認識をも超え、声や音の実在性は、物理的に担保されているのではなく精神的に担保されている。そうしたとき、音は発生しうる前から音として我々の内的部分に存在している。加工やデジタル化ともまた違った枠組みで「音」や「声」は実在しているのだ。

 

「こんにちは」

文字数:2724

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