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世にも奇妙な批評 〜ジンギスカンキャラメルとサスペンス的本能〜

皆さんは「ジンギスカンキャラメル」というものを食したことがあるでしょうか。北海道土産として生まれたこの商品は北海道の郷土料理ジンギスカンをそのままキャラメルの味として出したものです。ジンギスカンはラム肉を甘辛いタレでつけたものをドーム型の鉄板で焼く料理ですが、そもそも好き嫌い、というより食べられる人と食べられない人がはっきり分かれるほど独特の臭みがあるラム肉をキャラメルとして出す発想は、開発された経緯に何かしらのドラマを感じずに入られません。肝心の味なのですが決して美味しいものではありません。なのでより一層、この商品が我々の口に入るまでに経てきた道筋を辿りたくなってしまいます。本来なら資本主義の経済体系において需要のあるものが開発され、商品となります。品質の良いものや、安価なものなどの違いはあれど、そこには一定層の必要性が認められます。そして、悪品やごく一部の人間にしか求められていないものは自然淘汰的になくなっていく、または手に入りづらくなります。そう考えたときにこのジンギスカンキャラメルが私たちの口に運ばれることが脅威的な奇跡とスペクタクルの意味を持ちます。

まず始まりは恐らく、メーカーの新商品開発部門から始まります。そこで「ジンギスカンキャラメル」という企画が発案され、承認される。次に試作品が出来上がり、商品開発部のトップが味を確かめます。その後社長のゴーサインが出され、そして商品が量産されます。パッケージやプロモーション、売上の見込みなども考えられたでしょう。次は流通の段階です。仕入れ業者がこの商品を仕入れ、発注をかけた商店に品物を届け店頭に並びます。そうして我々がその商店に足を運びその商品を何かしらの理由で買おう、と決心し購入します。ここまで常に選択の連続でありました。開発するかどうかを選択し、商品化するか選択し、仕入れるかを選択し、購入するかを選択して手に入る。それが「ジンギスカンキャラメル」なのです。ここまでたくさんの人が関わり、そしてすべての選択の奇跡の上でなりたっています。あなたが、あなたのご友人から「昨日家でジンギスカン味のキャラメルを作ったので食べてくれないか」と言われるのとは訳が違います。そしてさらには最後にその商品を我々自身の意思で口に運ばなければなりません。そうやって得られる結果はこうです。「不味い」。

それは多くの人が考えうる可能性の中で一番高い確率で得られる結果でしょう。逆にこのキャラメルを口に入れることで死に至る可能性を考えた人はごくわずかだと思われます。しかしそもそも人間の味覚の中で“不味い”という感覚は死につながる感覚としてあるものです。それは痛覚が我々に体の異変を知らせるように、我々を危機から守るためにあるものなのです。「酸っぱい木の実をはまだ熟れていないから食べてはいけない」「この肉は嫌な匂いがするから食べると食中毒になってしまうかもしれない」「苦味を感じるのでこの草は毒を持っているかもしれない」。このような危機察知能力が人間を動物の種として守るためにあった作用なのは間違いありません。しかし何故我々は「ジンギスカンキャラメル」をつくり、そして食べてしまったのでしょうか。その行為はもはや一つのサスペンスといってもいいかもしれません。

 

ここで一つの映画を紹介したいと思います。『トゥルーマン・ショー』という映画です。この映画のあらすじはこうです。

ジム・キャリー扮する主人公トゥルーマンが今まで暮らしていた世界は、実は街そのものが作り物でそこに暮らす人々はトゥルーマンを除いて全員が役者であった。トゥルーマンが住む世界は、街はおろか海や空までが監督によって作られた世界であり、生まれてからずっとショーとして全世界に24時間ライブ中継されている世界的超人気番組であったのだ。友人や妻さえも演者であったと気づいたトゥルーマンは、海を渡りこの世界から出ていくことを決意する…。

自分の周りすべてが作り物かもしれない、という疑問は誰しもが一度は持ったことがあるのではないでしょうか。この映画は色々な方向から眺めることのできる映画です。創作物である映画のメタ的表現と見ることもできますし、監督と役者の関係性からも論じることができます。しかし今回ここで問題にしたいのは、「この世界は物語の中の世界である」という可能性を誰にも否定できない点です。この『トゥルーマン・ショー』を見たとき映画の中に“トゥルーマンショー”を見ている観客が登場します。それはまるで夢の中で夢から覚める感覚に似ています。二重三重と世界が膨らんでいく中で我々は観客を見ている観客であり、そして観客に見られている観客となります。それは、もしかしたら自分にもこのようなことが起こりうるという一抹の不安、自分自身の世界の見え方を変えてしまうようなサスペンスが含まれています。むしろ、もうすでにこのような世界の中に自分自身が囚われているのかもしれないという、精神的な監獄状態まで引き起こしかねません。

 

ここに映画や小説中のサスペンスがもつ一つの謎に直面します。それは「なぜ我々がサスペンスを嗜好しているのか」ということです。人間を宙吊り状態という不安な状況に陥れる作品をなぜ好んで見るのか。それは「ジンギスカンキャラメル」を口に入れることと似ています。多くの人が悪い影響を受けると知りながらもそれを好き好む。それは本来動物の種として無益な行動のはずです。人間がまだ社会的動物として未成熟だった頃、不味いと感じるものを食べることと同様に、危険な場所に近づくこともまた死を意味するはずでした。「暗闇には凶暴な動物が潜んでいるかもしれない」「高い場所を覗き込んでしまうと落ちて死ぬかもしれない」。むしろそのような場所に率先して近づいた人間はまさに自然淘汰されたでしょう。本来ならば危機察知能力に長けた人間が生き残り、より優良な種として人類を繁栄させてきたはずです。しかし我々はサスペンスという危険を求めてしまいます。一説によればサスペンスなどを鑑賞して「手に汗握る」というのは、人間の本能が動物的に危機を察知し、字の如く足や手を湿らせることで滑り止めの役割を与え逃げ出す準備をするためである、と言われています。それほどの本能的な危機を察知しながら、我々がサスペンスを求めてしまうのはなぜでしょうか。

 

その一つの答えとして、闇の深さが世界の広さとイコールであったからだということがいえるでしょう。人類にとって“闇”とはその危険さと同時にその先に広がる無限の空間でありました。闇が深ければ深いほどその先の照らされていない未開への想像もまた大きくなりました。そしてまだ見ぬ世界の広さとは、芳醇に広がる自由への招待でもあったのです。もちろん闇はさらなる闇へとつながることもあります。しかしそれを開拓する人間がおり、未開への不安を切り拓くことで科学技術の発展もありました。危機や不安を回避することと同じようにその危機や不安を直視することも人類の発展において重要だったのです。サスペンスにおいては事件の解決は必須ではありません。危機を乗り越え解決することが重要なのではなく、それ以前に危機に直面しようとすること自体が人間の本能的な快楽へと昇華していったのかもしれません。

この闇はそのまま映画の原理に当てはまります。蓮實重彦は『映画の神話学』の冒頭でこのように述べています。「われわれがふつう映画と信じているものは、実はその朧げなうしろ姿でしかないのだから、闇の中の一瞬の残像との間に無限大の深淵がある。映画のイメージのより総体的な把握のためにわれわれの前にあるのは、どこにも存在しない空間と誰ひとり経験したことのない時間ばかりだ。」と。これはある意味で映画の闇の深さを、そして映画のその無限さを言い表していると言えるでしょう。映画を知るためには、前述のトゥルーマンのようにまだ見ぬ自由な世界へと船出するというサスペンスが必要なのかもしれません。

 

そしてサスペンスはもう一つわれわれに魅力をもたらします。まだ見ぬ自由な世界とは、そのまま我々の今の世界の崩壊と表裏一体となっています。今の世界の外にさらなる広大な宇宙を見た時、今までの世界はそっくり見え方を変えます。我々は広大な宇宙を目にした瞬間に、もはや今までの世界の住人ではなくなるのです。その世界の崩壊を観客にもたらすためにサスペンスは観客と作品との垣根を限りなく無くそうとします。それは有体に言えば没入感といったようなものでしょう。そのような没入感を得る時、我々は自分自身の身体的な客体と切り離されます。映画を見ているという客体は影を潜め、映画の中に自分の主体が沈み込んでいく。そして映画の中で観客はサスペンスと出会うのです。客体から切り離された主体は無防備となりそこに真のスペクタクルが生まれます。それは批評文を読んでいる時にも同じことがいえるでしょう。あなたの観客としての主体はこの文章を読んでいると言えるのでしょうか。この文章を書いたのは誰でしょうか。あなたはトゥルーマンとは違うと言い切れますか。ところで先ほどからあなたを後ろから見ているのはだれですか?

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