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映画化するゲームとその価値

映画は映像ではない。「映像」という言葉それ自体は、光によってつくられた像もしくは画面に映し出された画像のみを示す。しかし「映画」は映画自身の百数十年の歴史の中において急激に成長しその言葉の意味を複雑に、あるいは豊かにしてきた。映画とは初めは技術であった。映画は写真を始祖に持ち、そこに映写の性質である幻燈や動きの性質であるアニメーションを取り込むことで成立した。現実の世界を機械によって切り取る写真。画像を拡大し暗所で映し出す幻燈。間欠運動によって静止画を人の眼に動いているように見せるアニメーション。これらの複合的な技術体系で成り立つ技術が映画の始まりであった。

それが、様々な動きや人間が再現することのできない偶発性ごと世界をフィルムに焼き付けてしまう記録としての機能を発揮するようになる。記録とはすなわち同時に世界の再現にも他ならず、我々は過去に起こったことを映像として目の前に再現する能力を有することとなった。さらにそこには本来体験してないことや見ることができなかったものを、その再現性において人々に擬似的に提供するという機能が付与された。これが映画を見世物的な性質へと導く。人々は映画をスペクタクルを体感するための娯楽として捉えるようになった。そしてそのスペクタクルを見るときに「鑑賞」という、作品に対する主観的な美的感情が喚起され、そこに芸術性を持つまでに至った。しかもこれらはそれぞれが発展的に上書きされて成立しているのではなく、それらが融合したものが映画だといえるだろう。今なお映画が見世物としての側面を強く持ち、商業的芸術と呼ばれるところにその意味性の多様さが見て取れる。

 

しかし現在、デジタル時代の到来とともに映画はその根底を揺らされ始める。「映画」とは現実を機械によって切り取り再現する装置であったはずであり、それによって作られる現実世界の一端の複製が「映像」であったが、その実在性がデジタル化によって危機にさらされた。映画によって映し出されているものは、演技であろうが監督による作為性が入っていようが現実に存在していたもの、ということは疑いようがなかった。しかしCGの登場によってそれが失われる。今では対象物、例えば戦艦や人や動物だけでなく、背景そのものやそこに起きる風、木々のざわめきといった本来偶発的なものとされていたものまでがプログラムによって作られる。近年のハリウッド映画などを見たとき往往にして我々は、何も“実在していない”ものを見せられていることが起きている。そしてついには映像の物質的な依り代であるフィルムさえも喪失し、デジタル化された0と1の羅列が映画というものになってしまった。

しかしこれは映画のみならず、写真や音楽の世界でももっと以前から起きていることである。それにもかかわらずそれらの芸術性は失われず、依然として新たな芸術表現は生まれ続けている。その本質的なものは衰えず形を変えながらも発展している。翻ればすでにこれらデジタル化された芸術たちの本質というのは、デジタル化によって失われた部分には元々なかった、あるいは本質が移動したということがいえるのではなかろうか。現在のデジタル化による実在性の消失は映画を映画でなくすことにはなっていないといえる。

ということは今現在映画を「映画的なもの」たらしめているのは、実在性や再現性に囚われず、目の前に映像が映し出されるということ、さらにはその映像がスペクタクルや美的感情を観客に喚起することだと言えるのではなかろうか。

 

その「映画的なもの」を意識して発展し続けるメディアがビデオゲームだろう。このゲームの分野の技術的進歩は凄まじく、映像CG技術の発展がそのままビデオゲームの映像的発展に繋がった。SONYが発売したPLAYSTATIONというハード群は映像的な美麗さに特に傾注した。最近ではゲームソフトメーカーが映画と同じかそれ以上の予算規模を一本のゲームにかけることも少なくない。『バイオハザード』シリーズに見られるようにゲームの映画化も珍しくなくなり、それはつまりいくつかのゲームにおける物語性が映画としても十分に通用するということを示している。「プレイする映画」という触れ込みで売り出された、古代遺跡をめぐる冒険アクションが題材の『アンチャーテッド』シリーズは明らかにインディージョーンズなどをモチーフにしているし、ゾンビハザードによって退廃した世界を舞台に少女と男の人間ドラマをテーマにした『ラストオブアス』というゲームでは、ストーリー、キャラクター、世界観の作り込みが映画さながらになされ、ゲームの製作陣もゾンビ映画ではないが2008年アカデミー賞を受賞した『ノーカントリー』を意識して作ったと発言している。音楽は実際にアカデミー賞を受賞したスタッフにより手がけられ、ゲーム自体も世界各国で多くの賞を受賞した。そして残酷描写に対する規制により日本ではローカライズされていないホラーゲーム『デッドスペース』シリーズは『エイリアン』など多くのSF映画をモチーフにしながら、その最大の特徴は、画面内にプレイヤーへ操作キャラクターのステータスなどを伝えるインジケータ類が存在しない点にあった。銃の残弾やHPゲージといったものは全て操作キャラクター自身が参照しているものをプレイヤーにみせるという形式をとっている。これはホラー映画などで登場人物が残弾を確認する=観客に残弾を知らせる、登場人物が血まみれで足を引きずる=残りの体力が少ないことを観客に明示するような仕組みと同一のものであり、映画と変わらぬ表現を映像内にもたらしている。

 

これらのゲームに共通して言えることは高度な映像技術によって作られる、映画とも変わらないCG映像であるとともに、その技術をプレイヤー=観客の没入感、またはそれに伴うスペクタクルの喚起に重点をおいて作られていることである。今の映画館における3D上映も映像技術による観客の物語への没入、それによるスペクタクルの喚起である。少なくともハリウッド映画がそういった方向に進んでいるのは間違いない。さらには4Dなどの登場により映画のアトラクション化が進む中で、このようなゲームは「映画的なもの」を目指して観客を呼び込むと同時にゲームと映画の間に生まれる新しいインタラクティブな表現様式を生み出そうとしていると言える。

 

一方で「映画的でない」ゲームが衰退しているわけではない。世界的なゲームの金字塔『スーパーマリオ』シリーズの生みの親である任天堂は大掛かりな映像技術ではなく、ゲーム本来が持つ、他者と競い合い協力し合う体験やパズルや謎を解き明かしていくようなまさしくゲーム性というものに力を注いだ開発を行っている。『スーパーマリオ』に求められていることは映像の美麗さやプレイヤーの没入感ではなく、まさにプレイすること自体の楽しみや親しみやすさなのである。さらに昨今隆盛を極めるスマートフォンやPCでプレイされるソーシャルゲームはより商業的ではあるものの、人と競い合うことや協力することに対して、それらを有利に運ばせるための課金を求めるという方式をとっている。それは人の優越感や射幸心を目的にされており、そこに商業的側面が優先されゲーム性が低くなっているという弊害はあるものの、その本質はゲーム自体からもたらされている楽しみだといえる。

 

このようにビデオゲームにおける「映画的なもの」と「映画的でないもの」を見てきたが、この双方において優先されている価値とはそのエンターテイメント性だ。「映画的なゲーム」と「映画的でないゲーム」はそれぞれ違う魅力を持ち合わせているが、その異なる魅力というのは映画的であることに関連して生み出されるものではないだろう。「映画的」という視点から見出される価値は、共通の「娯楽的楽しみ」である。より大きく述べるのならば、「映画」と「ゲーム」の間に共通して流れる価値観が人々を楽しませるというエンターテイメント性に他ならないのだ。映画には観客に問いかけ、その内面や真実を暴き出す力があるだろう。それと同時に人間が生み出したイメージの世界で人々を現実の抑圧から解放する力も持ち合わせている。その映画の持つ娯楽性が、ゲームという映像メディアに映画的魅力を与えている。この可能性を持ち続ける限り、映画から生まれる「映画的なもの」も「映画的でないもの」もその価値を持ち続け得るだろう。

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