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介入する観客

誰もが思いつく平成と昭和の代表的な違いを一つ挙げるとするならば、インターネットテクノロジーの台頭だろう。その基礎となるシステムは昭和から存在したが、確立し大衆に普及したのは90年代以降のことだ。そのインターネットは技術発展とともにさまざまな変化をもたらした。情報の即時性や集合知としての環境を整えた。インターネットサイトでは様々な情報がやりとりされ個人が情報を享受するだけではなく情報を発信することを可能にした、というのは良く語られることであろう。それはいままで受け手とされてきた多くの人たちに主体性が芽生えたことであり、さらに主体的な参加を可能にする媒体が普遍化したからこそである。自分の主義主張を簡便に表明する機会や場が圧倒的に増えた。少なくともインターネットという世界で不特定多数の他人に発表することは以前と比べ明らかに手軽になった。個人サイトをはじめブログや各種SNSでの情報発信はもちろん、動画ならば主体的に発信できるのは映画監督やテレビ関係者などの一部に限られていたものが、いまではネット上で動画を撮り発信するユーチューバーや生主といわれる存在も目立つ。動画投稿サイトはテレビなどに対する二次的な媒体ではなく、それ自体が影響力をもっている。映像の配信としてyoutube等の動画配信サイトは今では媒体として制作者たちが無視できない存在である。情報技術の進歩はハード面にも及び、スマートホンの登場によって人々は映像を含む情報それ自体を持ち歩くようになった。そして情報や映像が人々にとって身近なものとなり、ビデオは再生ボタンではなくタッチパネルによってより直感的に操作できるようになった。

このような中、完成している映像に視聴者が手を加える仕組みが現れた。映像配信サイトとして日本では強く根付いたニコニコ動画において動画の上にリアルタイムでコメントが流される機能がそれである。それは一つのレビュー的な存在ではなく、リアルタイムのコメントはそこからさらに視聴者によって動画を拡張する働きさえ持っている。さらには文字で絵を描くアスキーアートが組み合わさり、画面の中に他のキャラクターを登場させたり、動画の一部のような字幕が視聴者によってつけられた。それは動画を自分で編集することとは、元の素材に手を加えるという意味では類似するが、その即時性や容易さ、改変の度合いとして視聴者が動画を組み替えるのではなく、介入しているともいえるだろう。

また、昨今は視聴者の参加を促すような映像媒体が増えた。そもそも日本では2003年にスタートし移行した地上デジタル放送自体が双方向性を特徴の一つとしている。テレビでは朝のワイドショーなどで視聴者にボタンの入力によってプレゼントクイズに参加させたりアンケートを即時とったりする。アートの分野でも、その双方向性は顕著である。チームラボが日本科学未来館で開いたアート展示は「チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」と名付けられ中心となる対象は児童向けながらもアートとしての体験型展示を中心とした。中でも描いた塗り絵をその場で取り込みスクリーン上に登場させる展示は、観客のアートへの参加に他ならないだろう。流行しているプロジェクションマッピングもその代表例だが、今までの映像の上映と全く違う点として自分たちが実際に生活している場に直に映像を投射する点があげられる。スクリーンやディスプレイを介さない映像体験は直接的なものであり、我々にその映像世界を体験する主体的参入を求める。

いまや「映像に触れる」とは、例えば自分でホームビデオを撮ったり映画を鑑賞するというような、ただ映像に接するという意味だけではない。文字通りの“接触”、つまり物理的に触る、ということである。一つの例として安室奈美恵「Golden Touch」という曲のミュージックビデオはその名の通り「touch」がモチーフになっている。MVを再生すると冒頭にタイトルが出た後、「ここにタッチしながらご覧ください」と画面の中心あたりに円が表示される。その後に音楽が流れ出し動画がスタートするのだが、次々と自分の指にまつわる映像が展開していく。風船が流れてきてはその指に触れたあたりで弾け、指先に鳥がとまる。突いたガラスは割れ、指で抑えれば水は流れを止める。視聴者は実際に映像の中に触れているような錯覚を起こす。最後に安室奈美恵本人が登場しこちらと指を合わせるのだが、本当に指と指が触れたような感覚が走る。このMVが示しているのは観客の疑似インタラクティブな映像への介入だ。この作品は視聴者が自ら指でディスプレイを直にタッチすることで完成する。その前提としてあるのが前述した映像に直に触れることへの「慣れ」である。それはタッチパネル操作が主流のスマートホンにおいて映像に接触するということが日常的になったため生じたものだ。自分が介入することによって画面の中の映像が変化することに対する抵抗の低さとも言い換えられる。この映像を実際にタッチして視聴する時、画面にあるガラスや物理的な壁は限りなく薄くなり、視聴者による映像への直接的な介入が行われる。身体的な操作と映像の中でおきる操作の境界がなくなるのだ。また、そもそもこのMVは明らかにスクリーンや大画面で上映することより、より距離の近いデバイスで再生されることに重きを置いている。スマートホンやPCでの視聴が推奨環境であり、さらにいえばそれらで見られることの多いyoutubeなどの動画配信サイトで最大の効果を発揮する映像となっている。

このように特に映像分野に関しては映像メディアの変化、技術的な進歩によって、視聴者はもはや受け取り手ではなく作り手に近い存在となっているだろう。作り手との共犯関係といっても良い。いままでの観客というのは対象の解釈においてその主体性が発揮されたが、平成における観客の主体性は対象そのものへと影響を及ぼす。それは一緒に作り上げる、といったような生半可なものではなく、視聴者によって対象が形を変えてしまうことになりかねない。

だが現在の視聴者がそこまでの存在になっているかというと、そうとも言えないだろう。作品の意味性こそ変えてしまうかもしれないが、未だに観客は単純な受容者である。映像作品やアートが体験型になったとはいえ、それはあくまで係員の指示に従ってアトラクションに並んでいるのと変わりはない。そこには決まったコースがあり、決められた場所に個人がそれぞれ当てはめられていくだけだ。それは観客が作品を「主体的に受容させられている」にすぎない。昭和的な受動性に対して平成的なインタラクティブさが存在するとしても、その双方向性すら一方向から受動しているという倒錯的な状況に陥ってしまう。それは観客が未だに昭和と地続きの受容態度の中にいるからだ。

しかし、そこから新たに生み出されるべきなのはやはり、完全な作り手でも全くの観客でもない、作品に介入し新たな変化をもたらす存在である。素材を組み替えたりするのではなく、発信されたのちにその対象を自分の主体性において改変することを行うのだ。それが可能な媒体や仕組みがこの流れの中から生まれる可能性は大いにある。そしてさらには作り手との関係も変化するだろう。作られたものを観客が改変してしまうなら、制作者と観客の関係は極めて曖昧になる。二つが混ざり合ったとき受動者は発信者となり、その存在は従来のものと全く異なる性質を持つ。真の意味でのインタラクティブさ、個人によるつながりが実現されるのかもしれない。そのための萌芽はもう芽吹き始めている。

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