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「祈りは神に捧ぐものか」

 

SNSグループで試験のマスターノートを共有する。そうすると友人たちからレスポンスが来る。「ありがとー!マジ神‼︎」。

感謝の最上級のように述べられたその言葉の意味することは今更説明するまでもないだろうが、省略された部分をあえて補って述べるならば「マスターノートを授けてくださってありがとうございます。あなたは私にとっての神のような存在です。」つまり、キリスト教的に言えば「主よ、感謝します。」といったところだろう。現在の日本人はずいぶん軽はずみに「神」というようになった。例えば戦時中、日本人が神といえば天皇を指しただろう。当時、前述のような言い回しで神という表現を使うとおそらく不敬だということで顰蹙を買う。アメリカ人は映画などで「Oh My GOD!!」と度々口にする。しかし、このよく耳にするフレーズも敬虔なキリスト教徒の前ではタブー視される。それはやはりキリスト教的神を侮辱したと考えられるからだ。それでも今、私たちは神を簡単に口にする。そしてその対象はもはや漠然としたものですらなく、少なくとも試験のマスターノートを渡した友人にとってはその瞬間私が神だったのだろう。

さて、一昔前にパワースポットブームがあった。パワースポットと呼ばれる寺社や土地を巡り、そこから力をもらって運気を上昇させるという嗜好のものだ。しかしそれは決してミーハーな行為ではなく、昔から行われていた。お伊勢参りであったり、広義でいえば初詣すらパワースポット巡りといえる。屋久島ならば屋久杉などの巨木を神聖化しそこを参拝している。結局、神の住んでいると言われるような場所を人々は訪れ、そこで祈りを捧げるのだが、それは信仰とは少し違う。そこにいる神々に祈ることはまさしく“神頼み”だ。その場にたどり着き神に祈りを捧げることの代償として、自分の願いが叶うはずだ、とする信仰である。その考えは少々浅ましいとも取れる。トンネルや橋における人柱のように神に対して生贄を捧げるというのは信仰の中でよく見られることだ。しかし、それに比べてそのようなお参りの文化は顔を出すだけで願いが遂げられる、という生贄の簡便化が起こっている。

しかし、元をただせば日本人はなかなか節操がないことを多くしている。よく言われるのがクリスマスと初詣。そこにハロウィンなどが加わったが、宗教的に美味しいところを取ろうとする傾向は古くは七福神などにも見られる。七福神の神はヒンドゥー教や仏教、道教の神が一堂に会して一つの信仰対象グループとなっている。しかもそれぞれ人間の煩悩の代表のような願いを象徴しており、さらには宝船に乗ってくる。この団体はかなり都合のいい存在だ。「豆まき」もなかなか自分勝手なイベントの一つだ。豆を「鬼は外、福は内」と言いながらまく。諸説あるが豆は「魔を滅する」から転じて家の邪を祓うことに使われた。そのため豆をまくのはまだ理解できるが、問題は「福は内」である。実際に人がやる行為は豆をまくだけであり、その行為は鬼を退散させること、つまり、「鬼は外」部分に対応している。むしろ、行為自体は魔除けしか意味していないのに。文言には「福は内」と、鬼を祓うついでに福まで呼び込もうとしている。

このように言えば、神に祈るという行為もひどく都合のいいことのように感じるかもしれないが、それは神に祈っているのではない。祈る、願うというのは自分の心に対して誓いを立てる行為である。それを神という概念に代行してもらうことが祈りの効能なのだ。人が何かに祈り願う時、その時はその人自身が神になっているといえる。

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