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隙間だらけで、切り離された写真を

その写真は真ん中に写る顔がようやく判別できる程度だった。その顔は数日間に渡って愛する人の分身を探し続けていたことを労うかのように、こちらを微笑みかけている。泥にまみれたその写真は、バクテリアがゼラチン層を侵蝕したその像は、まるで絵の具を溶かしたようだ。それは津波がその人を飲み込んで連れ去ってしまったということを追認させると同時に、その笑顔を囲む鮮やかすぎるほどの赤、白、黄色の斑点は、愛する人へのたむけの花のようにも見える。

愛する人を奪いさっていった津波が、それを悲しみ嘆く人々の救いとなるような写真を生み出してしまう。

日本が震災大国であることは2011年の東日本大震災以来、自明のものとなっている。今後予測される震災としては、東海地震、東南海・南海地震、そして首都直下型地震がせまっているとされ、それらの地震によって引き起こされる津波による被害も大きなものと予測されている。また先日の記録的な豪雨により鬼怒川の堤防が決壊し、甚大な被害を被ることになったことは記憶に新しい。さまざまなメディアで住宅や車が濁流に飲み込まれている映像が流され、その映像に4年前の震災の記憶を呼び起こさせられた人も少なくないだろう。

今後日本はこうした震災に直面しつづけるなか、先の「被災した写真」のを媒介として故人に思いを馳せる行為は失われていくだろう。それは現在の我々の写真文化の有り様をみれば、たやすく推測することができる。依然として昔ながらの記念写真や家族写真をを撮るという写真文化そのものは当然のように残っているものの、デジタルカメラの誕生とその進歩が写真にも大きく影響を及ぼした。それはかつてフィルムで撮られていた時代のように、ネガからプリントする必要はなく、デジタルカメラ本体に付属しているモニターやパソコンのモニターで撮った写真を確認することができるようになったということだ。それは必然的に紙にアウトプットする習慣を失わせていくと同時に、誤って撮ってしまった写真、ピンぼけの写真、気に入らない写真を大量に消去させるにいたった。(フランスの思想家で写真についてことさら言及していたロラン・バルトが、亡くなった母を見出した写真はいづれもピントが甘いものであったことを指摘しておく。)

そして近年のfacebookやinstagramなどのSNSの潮流によって最終目的がプリントではなくアップロードすることに変化している今の状況は、その現状を加速させている。ネットサービスがわれわれの身体性に変化もたらすことは当然のようにあるし、それにあわせるように写真文化も変化していくのは必然であろう。(データによる写真の管理は、大きな震災を経験した我々にとっては非常に合理的な道筋を示している。つまりデータであれば被災することはないということである。もし大切な昔の写真があるのであれば、データ化しておけばよい。もちろんデータを保存したメディアやハードディスク自体を失ってしまうことはあるだろう。だがクラウドサービスがますます整備されつつある今のネット環境では、そのリスクも限りなく分散することができるだろう。)

新たな身体性と精神性と獲得するであろう生まれながらのデジタル・ネット世代が、数十年後、大切なひとを失った時、瓦礫の中を歩き、泥の中をかき分けながら、あてもなく写真を探しもとめることはもうないであろう。その時、彼らは救援物資で運ばれたガジェットを手に、悲しみにくれながら、クラウドサービスの上に展開されたSNSの中で微笑むその人の写真に接続する。そしてモニタ越しにその顔に触れて涙を流すだろう。そこに失った人が実在している確かな実感をもって。

だがそうなることは希望的観測にすぎないような状況が現在広がっている。それは先にあげたSNSの出現によって、そこにアップロードされる写真にバイアスがかかってしまっていることだ。すなわち人に見られるということを前提として、「どれだけの共感を得ることができるか」(facebookであれば〈いいね〉をどれだけ獲得するか)、といったバイアスが写真を撮影する際や、どの写真を投稿するか選ぶ時にも働いてしまう。もちろんそのバイアスは写真を受け取る側にも影響してしまう。(「これはみんなから〈いいね〉を押してもらえるように投稿された写真なんだな」といった具合に。)

「いいね」を押してもらえるような写真を撮影するために、人々が共感するような生活を嘘でも本当でも、それが部分的であれ実際にしなければならなくなってくる。SNSでコミュニケーションを円滑にとることへの目的がその人間の生活を規定し、そこに掲載される写真の傾向や書かれる文章の内容までも限定してしまう。(そこには予定調和を感じさせないよう定期的に差し挟まれる、退屈な日常にスパイスの役割を果たすような脚色された写真と文章も含まれている。)そのようなSNSの波に飲み込まれていった先にある身体が撮る家族写真や恋人、友人同士のプライベートな写真にSNSに投稿される写真との違いをみつけられるのだろうか。SNS上では異なる人間が撮っているはずなのに、どこか既視感の感じるような写真ばかりがどんどん積もっていく。(現にSNSサービスには写真を加工するための機能が付属しており、写真に数種類のエフェクトをかけることができるが、それ自体がまさに既視感を増す要因となるであることは容易に考えられる。SNSでは生活もエフェクトもスタイルを選ぶことしかできない。)

来たる日にそのような写真にアクセスした時に果たして私たちは/彼らは、その写真から大切な人を見出せるのだろうか?バクテリアがもたらした鮮やかな赤色と黄色の斑点と白い隙間だらけのエフェクトの写真とSNSがもたらすエフェクトの写真、どちらに私たちはその人を見るのだろうか?

故人の写真をみて、その人に思いをはせる時、それは時として非常に暴力的なものとなる。人間は自分にとって救いとなるような、思いを目一杯に詰め込める写真を選んでしまう。だが、そのような写真を通過して得られた故人と記憶の中の故人の融合物は、このあいだまで生きてきた故人とも、今まで自分の心のなかに思い描いていた故人とも確実に異なる人物なのだ。しかしながら我々は死を乗り越えるとき、そのような媒介を必要としてしまう。(映像では思いを詰め込める隙間があまりにもなさすぎるがゆえに、その再現性の誠実さゆえに「救い」にはならないだろう。)

このセルフィーの時代に、たくさんの肖像写真が生まれるだろう。そして家族で恋人同士で撮ることもあるだろう。しかしながらそれがネットに投稿されると同時にその写真の隙間は埋められてしまう。たとえ投稿しなくても写真がSNSに、ネットに繋がれてしまっているように見えてしまう。写真によって愛するものの死を乗り越えようとしたとき、その写真はあなたのために切り離されてなければならない。そうでなければ、あなただけのもとに届かないのだ。

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