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失われたものを修復する写真

田口和奈(1979~)は自ら描いた絵画を写真に撮影しプリントするというプロセスで製作している作家である。そこで描かれるモチーフは女性が多く、きわめて精密に描かれており、一見絵画を撮影したとはわからない。描かれている。描かれる女性の顔を構成している目や口や鼻は別々の人物から抜き出されており、モンタージュ写真のような女性である。さらにそれらを写真に撮る行為は引き算/割り算の連続である。

2009年のshugoartsで開催された個展『そのものがそれそのものとして』では従来の女性のモチーフの他に「失ったものを修復する」という題名のつけられた3枚の連作が発表されている。それらの写真は描かれた女性がまさに写真で撮られたかのように、宇宙に広がる星々が描かれており、見るからにモノクロの天体写真にしか見えない。なぜ星々を描き、それらを撮ることが「失ったものを修復する」ことになるのか、ひも解いていくためには、まずその写真に写っている星々の音に耳をかたむけるところからはじめなければならない。

音は物体が震えることで発生し、そのふるえが空気に伝わり、空気の振動が耳の鼓膜に響き、その響きを音として我々は聴いている。音が聴こえるためには、物体の震え、鼓膜以外に、その震えを媒介する大気がなくてはならない。よって大気のない宇宙では音は聴こえないのだ。しかしながら太陽が動くとき雷のとくらべるような音が鳴っていると考えられていた時代があった。

この宇宙の、天体が動くときに音響が生じていると考えたのは、ギリシア哲学者のピュタゴラスである。彼は天体が好転する時に音を発していると考え、その音は美しく解け合った響きであって、宇宙は大きな竪琴のようなものだと考えていた。

大きさの面でも、動く速さにかんしても、天体よりはるかに劣った地上の物体が動いても物音がするのだから、天体などという規模の大きな物体がうごけば、必ず音がするはずだ。しかも、太陽とか月といったあらゆる星、数のうえでもスケールの点でも桁違いな者が凄い速さで動いているのである。とてつもない大音響がしないわけがない、こう考えたのである。そして、こうした論拠と、星と星との距離から割り出したさまざまな星の速度が音楽上の協和音程と同じ比率になっているという観察結果をもとに、さまざまな星の周期運動から生まれる音は諧調していると、ピュタゴラス派の人々は主張した。

                       アリストテレス/『天について』

ピュタゴラス自身は聴こえたとされたこの音響は、人々の耳には届かなかった。当時は天界の音楽は、まさにわれわれが生まれた瞬間から耳元で鳴っていたとされた。よってその反対である静寂と区別がつかことはない、ざわめきと静寂は、たがいに比べてみなければ違いがわからないからであるという理屈がつくられたと言われている。アリストテレスは鍛冶屋を例にだして、鍛冶屋は一日中金属を打つその音を聴いているから騒音になれてしまうのだと語った。鍛冶職人は自らの生み出す一音一音にいつの間にか耳を傾けなくなってしまった、音が聴こえなくなってしまったのだ。

鍛冶職人同様に自分の金槌の響きに耳をすますことを忘れてしまった人々がいる。それは「写真家」である。「写真家」はあまりにもファインダーをのぞき、目をこらすことにばかりで、かつて耳をすましていたことを忘れてしまった。いつしか彼らは耳を傾ける変わりに、口と手を動かすことに懸命になった。自分と被写体との関係、撮影の意図やその経験等、写真にまとわりつく事柄ををよくしゃべり、足りないのであれば、書かないと死んでしまうとばかりにペンを走らせるようになった。つまり被写体(もちろんそれは風景でも人物でもなんでもよい)とその被写体が写った写真を媒介する大気を、そこに響く音を彼らは失ってしまったのだ。その大気のような「媒介」を「間」、「通路」、「部屋」と言い換えてもよいだろう。写真家にとって音を聴く行為とはピュタゴラスの天体の音楽を聴くことそのものだ。写真家はその音色をききわけ、響きをたよりにその空間がどの程度の大きさなのか、星がどの程度移動したかを測ることができる。写真家にとって音とは距離だった。かつて写真家は目ではなく耳で「距離」を測っていたのだ。その距離を「差異」、「落差」、測る行為を「配列」「分配」といってもいいだろう。

セリエリズムとクセナキスの音楽の根本的相違は聴取可能性にあるのではなく、音楽を作るという行為の考え方にある。前者にとって作曲とは構成(construct)ことであり、足し算・かけ算による思考であるのに対し、後者の作曲とは配分する(distribute)ことであり、そこでは引き算・わり算が思考の方法になる。セリエリストは音を組み立て、まとめあげるが、クセナキスは配分し、散らばせる。西洋音楽では、ある限定された数の単位がもとになって、そこから多くの派生体が(足したりかけたりして)形成され、それらが展開されてくる過程で有機的に組み合い、一つの音楽作品を構築する。反対に、クセナキスにとって宇宙は既に音で満ちている。わざわざ組み立て、構成する必要はない。世界は所与として音である。だから、その音=世界を適切に分割、配分し、節にかければそれが音楽になるのだ。人間、植物、昆虫、鉱物は等しく音であり、節の目や配分の度合いによって異なった音になる。世界は所与として流動である。だからその流動を適当に制御・分配すれば建築になる。世界は所与として光である。だからその光に適当なフィルターをかけ、切り取って映像にするだけでよい。写真は撮るものではなく、写真は撮れるのである。

                          清水 穣/「無人風景」/『白と黒で‥…』

写したものとの関係や、ましてや写真家の主観なのではなく。与えられた光と写真機、フィルムや印画紙などの感材や薬品による科学反応、光が印画紙に定着されるまでの通路で、まさしく「もの」(もちろん印画紙上の被写体も「もの」である)との間に所与としてあたえられる関係がある。よって写真家は自分が撮った写真について語る時、つねにその関係性のヴェールの向こうに被写体をみて話しているのだ。その薄い膜ごしに被写体/その被写体の写る写真をみるということ。それはよく見えないということに等しい。耳をすまし音を聴けば聴く程、写真家は目がみえなくなっていくのだ。よって彼らの口から出てくる言葉も、人に伝わりやすい形ではなく、ぎくしゃくしたものになっていく、短く文節され、やがては息を切らしながら名指すだけで精一杯になり、さらに名すらきざまれ、きれぎれになっていく。それは言葉が音になっていく。やがて沈黙という休符にたどり着く。その一音一休符はまさに夜に煌めく星々とそのあいだの漆黒にちがいなく、またそれらは写真を構成する銀の粒子の一粒、一粒のことである。

いっさいの本質的な存在者は完璧な独立性と不可侵性のうちにある。現象から独立しているだけでなく、そうして本質的存在者は相互にも独立している。ちょうど天空に流れるハーモニーが相互に接触のない天体の運動によっているように、叡智的世界の存在は、純粋な本質的存在のあいだの距離の解消不可能性に依拠している。どの理念(イデー)もそれぞれ一個の太陽であり、相互の関係は太陽同士のそれと同じである。こうした鳴り響く関係こそ真理なのである。

                   ヴァルター・ベンヤミン/「認識批判的序説」/『ドイツ悲劇の根源』

「写真家」は自分の思い通りに、主観のままに星との星との間に線を引き、星座をつくり、これは何々座だと得意げに話す。だが写真家は宇宙の天体の響きに耳をすまし、その音をたよりに星と星との間に線を引き星座をつくる。だがその星座が何座なのか彼らの口から語られることは決してない。

被写体自体は存在しませんが、部分的には確かに存在しています。あるいはその存在していた断片も私の手を介しているので、どんなに丁寧に写しとっても歪められ、存在していないとも言えます。絵画を精巧に撮影することは容易ではありませんし、プリントも然りです。いくとものプロセスを踏んで存在感そのものが転義していると考えます。そうすることによって「何らかの意味」に接近したいといつも思います。プロセスを多元化することで重層的なフィクションを作っていますが、そのことが一層、ひとつの見解に誘導しているかもしれません。こっちへおいで、と。

                 田口和奈/アーティストステートメント/「そのものがそれそのものとして」(2009)

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