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「不気味なものたち」

それは「昭和」という時代が分類、分離し遠く排除したものだった。

それは我々が自らの社会の自己正当化、合理化のために排除したものだった。

現代、我々のまわりには「不気味なものたち」が回帰し、あふれている。

我々が日常の中で「不気味なもの」たちに出会った時、そこに演劇が立ち上がっている。

それが「ポスト昭和」である。

現代社会において「不気味なものたち」とは誰なのか。冒頭で私はそれらが「昭和」という時代が分類、分離し、そして我々の社会の自己正当化、合理化のために排除したものであると述べた。「昭和」に排除されたものは何か。そのひとつに障害者をあげることができる。(本論で扱う障害者とは精神障害者、身体障害者、知的障害者、発達障害者のことであり、さらに精神病質を含めておくことにする。)その他には部落出身者、在日朝鮮人などももちろん含まれるであろう。また排除されたものは人間だけには限らないが、本論では障害者を中心にして論を進めたい。

戦前、戦中、そして戦後から高度経済成長期をへて現代に至までの障害者施策の経緯を列挙するのは決して実りないことではないが、ここでは「昭和」の時代における象徴的な障害者市民運動を参照し、どう障害者が排除されてきたかをひも解いていくことにしよう。

1970年(昭和45年)5月29日、神奈川県横浜市において、脳性麻痺の我が子を母親が絞殺する事件があった。事件後、町内会や障害をもつ父母会などの市民団体が、若き母親の減刑をもとめる運動が起こることになる。なぜなら母親は子供の将来を悲観し、「このまま生きていても我が子もつらいだけだろうと、母の愛情をもって殺した、仕方なく殺してしまったから」というのが減刑の理由であった。

1972年(昭和47年)に兵庫県衛生部が開設した「不幸な子を産まない対策室」の啓発運動である「不幸な子どもが産まれない運動」の一環として羊水検査がおこなわれた。この啓発運動の主旨というものは「五体満足」でない「健康」でない、障害を持つ子は不幸であるという前提のもと、出生を防止しようとするもので選択的中絶を正当化するものであった。1973年に不幸な子どもが産まれない対策室が刊行した『幸福への科学』にはこうのように記述されている。

「明らかに、生まれてきてよかった、と思えない重症が、胎児の段階で予測される場合、その不幸を、苦しみを新たに生み出すことが、はたして、人間を生かすことになるのだろうか」

当時のこのような上記の現状に対し抗議や批判をおこなったのが、脳性麻痺者らによる運動団体である「青い芝の会」である。横浜で起きた母親の減刑運動に対しては、母親の障害者殺しを正当化することの根底に「障害者はいつ殺されてもよい、仕方がない」といった意識があることを痛烈に批判し、兵庫県の羊水検査に対しても、行政が障害を持つ子どもの尊さを説きながらも、生まれるべきではない命に対しては中絶をすることを推奨するという問題のすりかえを指摘した。「青い芝の会」の活動はバス会社の車椅子障害者の乗車拒否が発端となった「川崎バス占拠事件」などにみられるように過激なものであった。

ここで青い芝の会の横田弘が起草した、会の行動網領をいくつか抜粋したい。

一、われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。

 われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつ自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且、行動する。

一、われらは、愛と正義を否定する。

 われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且、行動する。

鮮烈である。これほどまでに非対称性を真摯に受け取った言葉があるだろうか。健常者と障害者の絶対的な非対称性をあえて肯定することで自らの生を見いだし、そしてわれわれの社会を覆っている善意を表出させるために、愛と正義を否定するのである。

そしてこのような活動の延長線上にある「ポスト昭和」の時代にあるのが自立生活運動である。私が記した回帰のひとつはこれである。自立生活とは「どんなに重度の障害があっても、全ての人がその人生において、自ら決定することを最大限に尊重され、そのために起こる危険を冒す権利と、決定したことに責任を負える人生の主体者であることを周りの人たちが認めていくこと、そして哀れみではなく福祉サービスの雇用者、消費者としてサポートをうけていく権利を認めていくこと」である。障害者は施設をでて地域で生きていくことを選択しているのである。活動は障害者当事者が代表を務める自立生活センターを中心として行われ、その数は今や全国で140を越えている。代表の障害者が健常者である介助者の雇用主であるということであり、これはたとえ税金を活動資金の基盤としていてもマイノリティからマジョリティにお金が分配されるという従来にない構造、マイノリティがマジョリティの利益を考えるという構造があることを指摘しておきたい。

 自立生活における障害者の回帰は、電車やバス、飛行機といった交通機関、映画館やカラオケボックス等の娯楽施設、ネオン輝く歓楽街、そしてショッピングモール(ショッピングモールほど平で広い道はない)、ありとあらゆる場所で「不気味なものたち」に我々が出会う機会をもたらしてくれる。

私たちが日常の中で「不気味なもの」たちに出会った時、そこに演劇がたちあがっている。本論の核心を論じるためにも幕を開けたいと思う。

 ショッピングモールでカエルのようにぴょんぴょん飛び跳ね、走り回り、メガネをかけている人を見つけてはそれを奪い取り地面に叩きつけるという一幕。主人公は知的障害をともなう自閉症児の彼であり、脇役はペコペコ頭をさげている母親である。勝どきのような奇声をあげる彼は誇らしい顔をしているが、母のそれは真っ赤である。なかなかのコントラスト。そう、私は観客である。あの人もこの人も。そして忘れてはならないのは、買い物に来ただけなのに、メガネを割られてしまって、あっけにとられているその人である。彼らを中心として、驚いた表情をしているもの、じっと現場を凝視するもの、「お母さん大変そう」などと声を漏らすものがいる。少し耳をそばだたせてみれば、「俺、なんだかああいうの気持ち悪いんだよね。生理的にうけつけないっていうか。」「そう?なんかかわいいじゃない?」「そうか?たまにニコニコして可愛くみえてもさぁ、いきなり豹変して真顔とかになるじゃん。あれが気味悪いんだよ。」といった会話がきこえてくる。

どうやら呆然と立ち尽くす彼が正気をとりもどすまでにはまだ時間がかかりそうである。それでは観客であるあなたを退屈にさせないためにも少し寄り道をしよう。ぜひおつきあい願いたい。

歴史家である網野善彦は著作『日本の歴史をよみなおす』において、非人は本来的に社会から完全に疎外された存在であるという考えかたである黒田俊雄の説を紹介しながらも、次のようなことを記述している。

 私は、(中世の)非人は一般の平民百姓や不自由民である下人とも異なる、(中略)神仏直属の神人、寄人と同じ身分と考えることができるので、ある種の職能民の一面ももっていると思っておりますが、これは学会のなかではまだ市民権を得ていない考え方であることを、最初に御承知おきいただいたほうがよいかと思います。

網野は著書で中世の一時期において非人とよばれる人々が、職能民であったことを主張しているのである。

接続しよう。私は現代における「不気味なものたち」を職能民だと主張したい。職能とはなにか。それは演者としてである。その演者だちは、我々には思いも尽きない妄想をもって我々に語りかけ、身体の緊張をもって予測のつかない方向に腕を振り上げ、痙攣し、表情が豊かだと思った瞬間には真顔になり、奇声をあげながら飛び回る。そして我々の中の〈わたし〉がその落差にぐらぐらと揺らされるのである。そして彼ら「不気味なものたち」を経由してもうひとりの〈わたし〉が回帰してくるのである。彼らはそのための入り口であり、出口である。共生が正義となっている昨今、皮肉にも我々はもう一度彼らを分類し、切り離し、演者として出会わなければならない。スペクトラムは断ち切らなければならない。愛と正義は否定しなければならない。絶望から始めなければならない。我々は生まれ変わらねばならない。

劇に戻ろう

彼は正気を取り戻し、メガネが壊された責任を母親に追求している。すると彼らを中心に丸く取り囲んでいた観客からいろいろな声が聴こえてくる。それにつられるように、ゾロゾロと観客が増えてくる。新たな演者が中心に飛び出して話だしそうな雰囲気でもある中、無関心をよそおって通りすぎる青年みえる。

残念ながらもう時間だ。

ちなみに無関心を決め込んだ彼は、この後MMORPGで親友になったひとりと待ち合わせをしている。ついた居酒屋で定員が席に通してくれる。個室の襖をあけると、そこには電動車椅子に人工呼吸器を積み、ホースが喉に刺さってしゅーしゅーいわせた男が待っている。隣には善人面した若い男が座っている。なんということだ。「俺、じつは障害者なんだよね。」などどいわれなんと返事をしてよいものかわからない。善人面がいろいろ話題を提供してくれなんとか予約した時間をやり過ごし居酒屋を出る。歓楽街のネオンの中、「じゃな、またな」といって電動車椅子のスイッチいれてくるっと反転し、モーター音を響かせて走るしゅーしゅー男の背中には人工呼吸器のデジタル信号がキラキラと点滅している。「きれいなもんだな‥…」と彼はつぶやくのだった。

それにしても当初の予定では彼は帰宅後「人が燃えたらどうなるのかみたかった。どうしようもなく燃やしてみたかった」と逮捕後供述することになる女子大学生に燃やされるはずだったのになぜ僕はしゅーしゅー男の話にしたんだろう。まぁいいだろう。「不気味なものたち」であることには変わりはないのだから。

あまりにも愛と正義が溢れ出してしまったところで本論の幕を閉じることにしよう。

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