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批評とは武装解除である。 -菊地 良 × 荻上 三朗-

 

0.観光と対話、二つの越境性 

批評とはなにか。この問いに応えるにあたり、批評再生塾において繰り返し言われてきたのが、①外部に立つこと②物事に新しい視点を導入すること③異なる領域を横断すること、の三点である。とりわけ、③異なる領域を横断すること=越境性は批評の最大の武器であり、同時に現在に於いてはほとんど機能していないが故に、その回復が望まれている。

東浩紀はゲンロン1の『[共同討議]昭和批評の諸問題 1975-1989 東浩紀+福嶋亮大+大澤聡+市川真人』に於いて、批評を「観光客的な知」と位置づけたうえで、批評とは「越境する知」のことであると述べている(同書 P90)。ここでは批評の越境性が観光というあり方で捉えられていることが分かるだろう。
だが、それでいいのだろうか。湧き上がる疑問を抑えることができない。そこに現実的な意味や効果はあるのか。ないわけではない。それは知の観光化、つまり知の低コスト化によって目論まれているはずだ。だが、東氏のゲンロン1はどちらかというと読者に多くの前提知を要求する書物のように思える、それは多くの批評文にとってそうだろう。批評は批評を読まない人にとってはハードルが高く、またそれほど望みもしないものなのだ。

だから、ぼくは、本誌の試みについては、わかるひとだけがわかればよいと思っている。(ゲンロン1 東浩紀『創刊にあたって』P34 2015/12/1)

東氏は正しい。だがそれでは越境したことにはならないのではないか。東氏のいう「観光」とは、批評に馴染みのある人を主体に据えたどこまでも内輪的な考え方ではないだろうか。世の中にはたくさんの人がいて、ほとんどの人は批評を読まない。
本稿では、批評の越境性を「観光」ではなく「対話」と読み変え、批評を読まない人たちとの現実のコミュニケーションについて考えたい。そのために、私は私一人で論を進めるのではなく、ある一人の知人との対話のなかでこれまでの自論を更新したい。

 

1.氾濫する優越感を武装解除するために

菊地 :僕が批評(=文学)の越境性についてはじめて論考を書いたのが批評再生塾の第七回課題文『「きみは死んだらおしまいだから、だから私は何度だって、死ぬなっていうし、世界を憎もうっていうよ」』に於いてです。この文章は「問題作」として少なからず反響を呼び、荻上さんとの出会いもそのひとつでありました。インターネット空間で誰かが不当に迫害されていることに対しての問題意識と無力感を共有していた僕たちは、一時期お互いの文章に刺激を受けあいながら応酬するように文章を発表し続けていました、僕は批評再生塾に於いて、荻上さんは彼のブログに於いて。本稿の議論はその延長線上に位置付けたいと思っています、最近の荻上さんの言葉を借りるのであれば、氾濫する優越感の「武装解除」を目論むために。

荻上 :そうですね。その問題作、『「きみは死んだらおしまいだから、だから私は何度だって、死ぬなっていうし、世界を憎もうっていうよ」』では、それぞれのプライベートな小さなコミュニティが一方で絶対的で「フツウ」な「審級」への従属を余儀なくされながらも、「みんな違ってみんないい」という欺瞞のもとでそれぞれの差異が等しく個性として肯定され、プライベートが全肯定されてしまうことで、かえってオフィシャルな領域へそれを持ち込めず無効化されてしまっていると同時に、オフィシャルな権力も肯定されてしまう現象、つまり公的なカーストと私的な幻想に基づく優越感の二つの暴力を如何に解体するかという問題提起が成されていたと思いますけど、本稿では「教室」という概念を新たに提唱して以前の議論の更新を試みるというのが狙いでしたよね。

菊地 :そうです。公的な場でも私的な場でもなくその両方の特性を併せ持ち、不良やオタクや普通の人も色んな人がそれぞれに抑圧しあっているのが「教室」であり、上記のようなポストモダン的な状況(=バラバラになった社会)を打破するために有効な空間であると思います。問題は実際どのようにしてそのような空間を達成するかですが、そちらに関しては本稿の終わりに考えることにして、まずはミクロに文化(作品)とそれを享受するコミュニティの関係性について改めて再考するところから始めようと思っています。もっと現実のことを、具体的なことを考えたいと思います。

 

2.文化(作品)が自己肯定もしくは憎悪をエンパワーする

荻上 :あらゆる作品はなんらかの価値観を帯びるというのは自明だと思いますが……それは批評も同じですけど、オタクとか平和を愛する系の話が多いアニメを見てるはずなのに、全然じゃん、むしろ攻撃的じゃん、みたいな失望があるんですよね。アニメそのものが視聴者であるオタクの価値観の是非を問うような、自己批評的な作品が必要なのかなと思います……。

菊地 :あらゆる作品はなにかしらの善(そして悪役)を孕むし、そうやってその作品の射程に位置する文化圏の価値観が強化される。そして過剰に強化/エンパワーされた善は他者を見下すことで相対的に自己肯定をすることができる。オタクはオタクにとっての正義や世界観を作品を通して強化しているだけに過ぎないので、異物や他者に対してはより攻撃的になるのでしょう。ならば、その無意識の優越感と裏返しの劣等感を炙り出し、無化することは批評的であると言えるだろうし、荻上さんの言うとおり作品は自己批評的であるべきかもしれません。そして、これは作品(=作者)と読者の間で対話が成立していないということと読み変えることもできると思います。オタクの二次創作に端的に現れていますが、あれは作品との不和をすべて切り刻んで丸めて都合のいい形状へ変える行為ですからね。

荻上 :たしかに、対話は他者とのコミュニケーションなので、なんらかの対立がないと成立しませんからね。

菊地 :そういう意味で、ファン商売的なゲンロンは読者との対話=対立がないのではと思います。ゲンロンの読者は果たして本当にそこから何か自分を変革させるようなものを得ているのか。自分に都合のいい形状に加工された/した情報を積み重ねているだけに過ぎないのではと思います。それに…これは主観ですが……彼らの多くは十分にそのままで生きていける人たちであって批評が必要というわけではなさそうに見えます。知というあり方ひいては自分を肯定してくれて、なにか思考対象としてそれなりに面白ければそれでいいのではと、疑いたくなります。チェスで代替可能かもしれません。

荻上 :まあそれは批評や文学全体の問題で、ゲンロンが取り組むべき問題かというとどうなのかはよく分からないですよね。でも、「武装解除」を目論み批評やゲンロンの外部に立とうとする僕らにとっては避けては通れない問題だと思います。つまり、批評家や批評の読者たちが無意識に形成している優越感のようなものに対して菊地さんは疑問を持っているということですよね。

菊地 :そうです。批評はもっと根本的な部分で自己批評的にならないと、批評の外部=批評を読まない人たちとの距離感が開いていく一方になり、更には批評そのものもポストモダン的にバラバラになった社会に於ける多様なイデオロギー=自己肯定の手段の一種に成り下がってしまうような気がします。その外部に立つために、外部に逃げるのをやめて自己批判的になることが大切なのかなと。他者への優越感はその見下した対象である他者が思い通りに動かないときに憎悪に変わる可能性を常に持っていて、読者に対して(主に本を読まない人に対して)そのような苛立ちの片鱗をみせる書き手は少なからずいるのかなと思います。

 

3.教室空間的な多項対立

菊地 :世の中にはいろんな人がいる、っていう凄く今更な感じのことを再確認したいのですが、批評に携わる人もいれば批評を読まない人もいるわけなんですよね。むしろ読まない人の方が大多数なわけで。でも批評…知に携わる人の多くは本を読むことを大事だと考えていて、これが知を特権化して自らを相対的に自己肯定するという優生思想に陥っている人が多い印象を受けます。でも、他のあらゆる異文化間の衝突と同じく、批評を読まない人からしたら「なんだこのオタク」ってそれだけの話ですよ。

荻上 :そうですね、菊地さんが仰っているとおりオタクとインテリって親和性高いですからね。オタクはインテリぶる。

菊地 :ルックスがダメでスポーツもダメなのに男性性を拗らせたらそうなるんじゃないんですかね。ルックスやスポーツに比べて、比較的に言葉でならなんとでも言えますからね。批評再生塾の第八回課題『死にたいくらいに幻/文学が好き』でも書きましたが、ヤンキーとオタクって喧嘩が弱いことを過剰に気にして男性性を拗らせて強く/偉く見せかけようと虚勢を張るってまったく構図が一緒だし、それが向かうのが知であれ暴力であれ犯罪自慢であれ奇抜なファッションであれ、だいたい回避的で安っぽいんですよ。そういうのはきちんと抑圧されないと、優越感が憎悪に転換して2ちゃんの炎上みたいな暴走が起きる。あれはオタク/インテリが過剰になった必然の結果ではないかと。

荻上 :そういう類似や自らの優越感と裏返しの劣等感に気付き、互いにまっとうに抑圧しあうための場として「教室」を提唱されたのでしたよね。これは東さんが『弱いつながり』で、言葉の果てしないメタゲームを止めるためにモノが必要だと仰っていたことともリンクしますよね。ゲンロン1の共同討議では、東さんはそこへ歴史性を持ってくるのですが、菊地さんは教室を持ってくるということですね。

菊地 :そうです。ヤンキーもヤンキーで知へのコンプレックスって絶対あるし、それはヤンキーへの抑圧としても機能するし、そういうダイレクトに知への劣等感と向き合わせるみたいなのって知を広める方法としてもそれなりには有効なはず。勿論、ヤンキーがオタクや普通の人々に与える抑圧も暴走を防ぐために重要です。どこかで優越感といがみ合いのメタゲームを止めなければいけない。何とでも言える言葉の過剰反乱を防ぐこと。

荻上 :「武装解除」ですね。

菊地 :「武装解除」です。

荻上 :でもその先にはオタクとヤンキーに類似が見られ、お互いに劣等感を持ちうる契機が存在するからこそ、対話の可能性…仲良くなれる可能性があると思うんですよね。これは菊地さんの『死にたいくらいに幻/文学が好き』を読んで思ったのですが。

菊地 :まさにそうですね。

荻上 :例えばありがちですけど、一見オタクっぽくない友人が実はオタクで、オタクに対する偏見が改められるみたいな。これはヤンキーでもウェイでもなんでもいいんですけど、やはり「教室」のような実際に会って話をする場ってそういう可能性を秘めていると思います。

菊地 :僕なんかは高校の頃はオタクが嫌いでした(笑)自分自身オタクみたいな風貌をしていたんですが……まあ同族嫌悪ですね。ですが高校の終わりの頃に出会った親友が不良なのにオタクという奴で、なんか割とどうでもよくなった感じはありました。

荻上 :やっぱりそういうのありますよね。

菊地 :その親友の所属していたコミュニティが面白くて、オタクとヤンキーがちょうど半々の割合で混在していたんですよ。両者いがみ合うこともなく楽しく遊んでましたよ。

荻上 :いいですね。理想的な関係だと思います。

菊地 :……僕には高卒でドカタをやっている友達がいます。ヤンキー気質なのにいい子ちゃんの多い卓球クラブに所属しているから他の部員からいつも馬鹿にされがちなんですが、僕は彼が馬鹿だと思わなくて、単なる人種の違いがもたらすコミュニケーションの齟齬かなあと。その友人は交通整理の仕事をしていたとき、お客さんの車種とナンバーをほぼほぼ覚えてたらしんですが、僕にはそんなこと逆立ちしたってできません。…議論すれば勝ちますけどね。でもそれがなんだって言うんです?彼の言語化不可能なただただ純粋な人生への絶望を僕は知っているし、そのありふれた忍耐を凄いと思うし綺麗だとも思います。オラオラアピールみたいなことをしないからあまり知られてないけど実は喧嘩が強くて、ヤンキーだから暴力衝動はあるけれど、優しいから人を殴れないというのも一緒に組手をしたから知っている。すぐに知性とか教養という物差しで人間の価値を図ろうとする浅はかな人たちがいるけれど、彼らは何のどんな機能を指して知性とか教養と呼んでいるのだろうか。「物事を知り、考えたり判断したりする能力」とでも言うような、そんな小さいものが人の知性なのだろうか。記憶、感情、微笑、五感、第六感、他者との関係性、変貌の可能性、美的判断、共感、情緒、衝動、運動、性…人の全機能を指して私は知性と呼びたい。すくなくとも、知性主義者が狭い範囲の能力のみをクローズアップして、人の全機能が知性によって互換可能であるとでも言わんばかりに知性を特権化させるならば、私はそのように反論したいと思います。と、長くなっちゃいましたね(笑)

荻上 :いえ、菊地さんっぽかったです(笑)ちなみに、やはり菊地さんは結局いまでもオタクは嫌いなんでしょうか。

菊地 :うーん、どうなんだろう。というか、基本的に人間が嫌いなんだと思います。自分も。なんかすみません。

荻上 :なるほど。

 

4.同窓会的な想像力

荻上 :さて、本稿もそろそろ結論を出す頃合ですね。菊地さんは実際にどうやって教室的空間を現実に導入するおつもりですか。

菊地 : 二つのアプローチがあります。一つ目が批評の領域になりまして、教室的なグループ間に生じる優越感や裏返しの劣等感を、各文化(作品)のなかに見つけたうえで指摘し続けることですかね。

荻上 :「武装解除」ですね。

菊地 :「武装解除」です。文化(作品)がその享受者の価値観を過剰にエンパワーしてしまうならば、それを解体し続ける言葉が必要でしょう。批評の結果、このような遠くの/遠ざけた他者への劣等感を炙り出す考え方が広まれば、その都度仮想的に教室的空間が立ち上がることになりますしね。二つ目は現実の「同窓会」に出席すること、またはその企画(=環境設計)を自ら行うことです。

荻上 :なるほど。そこでお互いの優越感と裏返しの劣等感を確認しあうわけですね。それは比較的簡単そう。

菊地 :別に集団でやる通常の同窓会じゃなくてももう連絡をとらなくなった人に会ってみるのでもいいんです。できれば意図的に会わなくなった人、会いたくない人の方が望ましいです。なぜなら、人はそういう人を切断/排除して今の自分を形成してますからね。そういう自分を一旦解きほぐして、再度他者との対話を試みる必要が、現実に誰かを見下してしまわないために必要であると思います。そのあとで可能な限りざっくばらんにお互いの話ができればいいですよね。これはまず、批評家や批評の読者自身が、自分の無意識の優越感と裏返しの劣等感を確認し、解体/克服するべきだと思います。次に批評を読まない人たちに対してアプローチを啓蒙的にならないようにあくまで対話的に行う必要があると思います。…いろんな人がいろんな生き方を強いられていることへの想像力を確保するために。

荻上 :割と現実的な話に踏み込めましたね。ちなみに、対話を可能にする同窓会のあり方みたいな議論まで踏み込むのはさすがに今回ではむずかしいですかね?

菊地 :(苦笑)

荻上 :ですよね(笑)では最後に教室/同窓会に於いて批評家はどうあるべきかという問題を考えたいのですが…どうですか?

菊地 :むずかしいですよね。どのようにアグレッシブに回避的な態度を選択しても、何らかの立ち位置に収束してしまう。何らかの立ち位置をとる限り、どこかで独善的にだったり全体主義的にならざるを得ないのかなと思いますので、流動的に…めだかボックスの球磨川禊のような距離感の取り方を僕は心がけています。

荻上 :『決めているんだ。争いが起こったとき僕は善悪問わず、一番弱い子の味方をするって』ってやつですね。

菊地 :まさにそれです。常に弱者の側に立って敗北を戦い続ける限り、なにか違った地平で領域を横断することができるのではと思います。やさしい不良的なね。端的にうつくしいと思うっていうのもありますが…。

荻上 :そうですね。ちなみに僕は喜界島のような距離感を大事にしたいです。

菊地 :あぁ、なるほど、声で制圧する非殺傷能力ですし「武装解除」感がある。

荻上 :それでいったら球磨川のブックメーカーも封印術ですし、非殺傷能力で「武装解除」ですよね。勿論、「相手を自分と同じ弱者に変える」という対話のための能力でもありますが…。「弱者の気持ちをわからせる」という意味では本当にいい能力だと思います。結局、同じ立場を味わうことでしか人はわかりあえないんですかね。そうなると、菊地さんの言う「決闘」の必要性もわかるような気がします。

菊地 :僕たちは現実の痛みを知らなくてはいけない。痛みを知らない人間が、殴られたこともないような人間があまりにも多すぎる気がします。僕は殴られてその痛みと向き合うことをラカンでいうところの「虚勢」だと捉えていまして、人間がまともな大人になるのには必要な過程だと思います。案外この辺に「ゆとり」の正体があるのかもしれませんね。とにもかくにも、人は殴られて、その痛みとちゃんと向き合って、自らをコントロール可能な存在へと解きほぐし、研ぎ澄ましていくのです。

荻上 :あいつらに勝ちたい。格好よくなくても強くなくても、正しくなくても美しくなくても可愛げがなくても奇麗じゃなくても、格好よくて強くて正しくて美しくて可愛くて奇麗な連中に勝ちたい、ってね。(『めだかボックス』 10巻 球磨川禊)

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