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藍喩たる『異空海』

絵、絵、絵、絵、それら各世界にタイトルをつける。『爛れ繭』、『海獅子』、『歪(ヒズミ)』、『複眼の欲動』、『幻蝶』、『死の緑閃』、『受胎日』、『ノアの人々』……そして『異空海』。「Portishead」や「S.P.K.」を交互に聴いて精神をめちゃくちゃにいじくりまわして十分に心が壊れたあと、美術館はなにか複合的に多重の輪郭が重なる多次元的な風景となって、眼に這い寄るが如く入り込んできた。絵画は静止することをやめ、0.1秒から0.4秒の間隔を揺れ動きながらリピートする映像となって囁きかける。無音とシンフォニーの静寂に、コツ、コツ、と赤黒の影のような鑑賞者たちの靴音が内耳で痙攣する。一緒に鑑賞することを約束した恋人とはいつのまにか別れ、置いていってしまったのか置いていかれたのかも判然とせず、人格が分裂した状態で、なにもかもを過敏に知覚する意識の状態で、ナニカ決定的に色鮮やかなイメージを感知しようと美術館を巡っていた。幾度となく、行き場もなく。……戦争画が続いた。僕はそれらいくつもの絵画の中の戦場に引き込まれては人を殺し、その絵のなかで殺されては現実の美術館に引き戻された。リアライズ(=現実帰還)とメタファライズ(=没入)の終わりのない繰り返し。殺しても殺しても殺し足りなかった。殺されても殺されても殺され足りなかった。絵のなかの僕の立ち位置は、現実の美術館における僕のその絵に対する距離感と立ち位置と連動していた。殺すときはその人物に一歩近づき、殺されるときは無意識に一歩退いて頭痛を堪えた。吐き気と眩暈と幻覚だけがたしかにそこに存在した。

絵画は常に焔や映像のように揺らめく。それは〝私〟という鑑賞者の視点に基づき、カメラのようにイメージを切り取られ続けることで、連続撮影した一枚一枚の写真が微妙に異なるように、揺らぐように様相を異にし続ける。絵画に限らず作品とは、無限の解釈の可能性を孕む、ひとつの過色の世界である。
佐々木健一は、絵画のタイトルは「こう読め」という「知覚の方向付け」を果たすため、「われわれはタイトルを知る前と後で、画面が全く異なって見えることを経験」し、「そのような見え方を指して、ヴィットゲンシュタインは「アスペクト」(=風景相)と呼ぶ」と述べ、さらに「スタンダールは恋愛感情に「結晶作用」を認めたが」、「恋人のなまえ」が「恋人のすべての美質と固く結びつき」「恋愛感情を「結晶」させる核となる」ように、「なまえ」(=タイトル)には結晶作用があると述べている。ここではタイトルが必ずしも作品理解に役立つというよりかは、むしろ「タイトルは言葉であり、この言葉は鑑賞体験を方向付け、限定してしまう」可能性を常に孕んでおり、また作品の読み解き方を変えたとしてもその新たに見出した作品の美質も既存のタイトルと結びつき同様に結晶化されてしまうことで、作品に対するイメージを変わり難いものにしてしまっていることに留意したい。例えるならば、タイトルとはいつも同じ場所を撮り続ける定点カメラのようなものなのだ。「名は体をあらわさず」むしろ「名は体を要求する」。だから、佐々木健一の言うように「その名がこの結晶作用に著しくそぐわないときには、相応しい愛称が作り出されるだろう」。僕は『ソロモン海域に於ける米兵の末路』に、『異空海』という別のタイトルをつけた。なぜなら、「ソロモン海域」という場所、「米兵」という人物像、「末路」という状況の三つがこのタイトルによって示唆されるが、そのどれもが僕の直感に反したからであり、またこのタイトルが僕のその絵に抱いたイメージにもそぐわないからだ。

異空海

1.

一巡目。僕は『異空海』というタイトルをその絵につけた。荒れ狂う海を漂う一艇のボートと男たち。そのどこまでもありふれた情景のなかに何かふわっとした異空間のような感覚……神話の世界に迷い込んだようなイメージを抱いた。そしてそれは鑑賞者である僕に限らず、絵の中の男たち自身もまさにいま迷い込んでしまった世界に驚愕し、呆然と絶望し、立ち向かうべきか跪いて命乞いをするべきか決めかねているような様子に見えた。まず、僕は彼らがどこの国の人間なのか気になった。彼らは日本人のようでもあり、西洋人……それもまるで古代ローマの神の下僕たる純朴な羊飼いのようでもあった。この絵はノアの方舟と洪水のイメージを僕にもたらした。だが一方で彼らは日本人のようにも見えるのはなぜだろう。

この絵を右側と左側からそれぞれ見たときにそれぞれのイメージのギャップに気がついた。右側に立って絵を見た場合は希望に奮い「立つ男」や、マリアを彷彿とさせるような神聖な亡骸に、闇に包まれた穏やかな海、あたかも信じる者は救われるかのようなキリスト教的な世界観を感じた。左側に立って絵を見た場合は絶望し海を「見る男」や、海を突き進む六匹の鮫、波間のところどころに白い光……そんなものはありえないにも関わらず救いのように見えてしまうひかりの誘惑、あたかもすべては神のきまぐれによって左右されるかのような日本における自然や災厄としての多神論的世界観を感じた。右側では船は安定しているように見え、左側では船はひどく不安定にみえるのも印象的だ。

なにか神話的な雰囲気の漂う異空間のような海に、どこの国なのかよく分からない人たちは、タイトルが示唆する様相とは明確な矛盾を孕んでいる。だが、彼らがいるのは神の裁きを待つ「末路」であることは間違いがないだろう。問題は、そこに救いがあるかどうかだ。彼らは救われるのか、裁かれるのか。この絵は何を表すのか。僕はこの問いに答えあぐね保留したまま、順路に身をゆだねてその場を去った。

2.

二巡目。再び出会ったこの絵を前にして僕は一巡目で得たイメージを改めた。

絵を右上から左下にかけての対角線に沿って二分すると、左上側は自然=神、右下側は人間たちが位置し、その二項の対立構造が顕になるように見える。そして俯いてない人たち……「見る人」や「立つ人」、真ん中の男は自然=神の側に頭が位置づけられている。これはなにかのメッセージだろうか。絵の下側は暗く、上側はかすかにあかるく描かれていることも相俟って、ここでは自然=神と人間の単純な対立構造というよりは、むしろ自然=神をも恐れず戦いを挑まんとする人間は救われ(顔を上げることで上側の光に向かい)、よくわからない自然=神に恐れおののく人間は絶望に沈みゆく(俯くことで下側の闇に向かう)という近代の科学主義的な価値観を反映しているようにみえる。つまり、ここでの読み[2.]は先ほどの読み[1.]とは反対に、人が自然=神に裁かれる側から、自然=神を裁く側に変わる。さらに、先ほどの読み[1.]における絵の右側の希望に震え「立つ人」を中心とした信じる者は救われるキリスト教的世界観は、絵の右下側の人間たちの科学主義的な態度に対応し、絵の左側の絶望し海を「見る人」を中心とした日本的な自然=神が絵の左上側に対応することで、先ほどの読み[1.]において発見した二つの宗教観は明確に対立構造を形成していることが読み取れる。これら二つの読み[1.]と[2.]は、それぞれの画面の分割によって現れる。そのため、二つは異なるレイヤーつまり「アスペクト」(=風景相)として矛盾を起こさずに二つのイメージが重なり合う。[1.]ではバラバラに、[2.]では対立として描かれる、二つの宗教観における二つの関係性のイメージが混合する。

このイメージが具体的に何を指すのかはあえてここでは考察しないが、おそらくは作者が視ていた当時の世界像……第二次世界大戦に対するイメージと無関係ではないだろう。

空白

三巡目から七順目までは何も新たなイメージを得られなかった。

3.

八順目。

絵を遠くから俯瞰してはじめて真ん中の男に気がついた。[1.]と[2.]のどちらの構図でも目立たなかった男。なにかここから抜け出しているような、真ん中の男。「憂鬱の男」。この男はその憂鬱そうな雰囲気によって、今までのどの読みにも当てはまらず絵から遊離した感覚を覚える。実際にこの「憂鬱の男」は[1.]と[2.]のどちらの構図においてもちょうど真ん中に位置するため、どっちつかずの両義的な立ち位置を獲得していた。そして、ここであることに気が付く。絵にうっすらと赤褐色の線が水平に二本走っている。はじめこの線に対して特別な注意を払っていなかったが、この二線が「憂鬱の男」の頭の先と足の先をぴったり捉えて引かれていることに気がついてからは絵に対する見方「アスペクト」(=風景相)がまるで変わってしまった。遊離していたかに見えた「憂鬱の男」が、幽閉されているようにしか見えないのだ。勿論、[1.]と[2.]の関係と同じく、遊離と幽閉のこの二つの読みはレイヤーつまり「アスペクト」(=風景相)を異にするので、むしろ感覚的には重なりながら共存し、同時に相反する二極となってアンビバレンスな対立構造を形成している。

では、この「憂鬱の男」とは誰なのだろうか。

空白

九巡目――――。

4.

十順目。

僕はあの絵の真ん中の視えない檻に吸い込まれるように心囚われ幽閉され、ただうつらうつらと美術館を彷徨いながら何度となくしゃがみこんだ。あたかも鏡のように……あの「憂鬱の男」に自分のナニカを投影していた。突如、あの「憂鬱の男」は作者ではないかと思い至った。つまり、ある種の自画像である。作者とは作品にとっては神の如く存在であり、絵画という世界から遊離している一方で、無心にその絵画を描くことに没頭する限り、作品に幽閉されているとも言えるだろう。この遊離しながら幽閉されるという構造は、僕という鑑賞者にも同じく言えることで、絵画を見る僕は神が如く外部として作品から遊離する一方で、その絵画に強く引き込まれている限り幽閉されているとも言える。リアライズしながらメタファライズすること、またはその往復運動。僕は絵の真ん中にいる「憂鬱の男」を「僕」自身だと錯覚し、同時にそれが作者であると錯覚することで、僕と作者の憂鬱がひとつのイメージとなって重なったような気がした。それは「憂鬱の男」という像となってイメージは結実する。

ではこの憂鬱はどこへ向かうのか。この憂鬱が、遊離と幽閉の二極によって引っ張られるアンビバレンスなものであるならば、それは参加と非参加の狭間の憂鬱であると換言できるだろう。それは前述の二つの読み[1.]と[2.]が複合的に重なり形成する世界のイメージに対して向けられた作者の眼差しであり距離感であろう。それは否定として現れるが故に「無」であり、この「無」のニュアンスは禅の思想における「無相の自己」に通じるように視える。ありとあらゆるすべてを否定したところ、仏をも否定したところに真の仏と真の自己を見出すことこそが禅の思想であり(これを「無相の自己」の自覚、または悟りという)、『異空海』においても自然(=ありのままの絵画に描かれる風景)に憑りつき「イコール」という等号で結びつく神(=「アスペクト」(=風景相))を否定することで、ようやくこの絵画の核心にしてあらゆる「アスペクト」(=風景相)に通低する「アスペクト」(=風景相)、つまり「無相」を読み解くことが可能になる。この絵を貫通する「無」のニュアンス……「無相」とは、「アスペクト」(=風景相)を否定する「アスペクト」(=風景相)のことなのだ。

ここで絵の右下に記述された『ソロモン海戦に於ける敵の末路』というタイトルにありのまま着目する、それはタイトルと絵との違和感から出発し『異空海』という別のタイトルを設けた本稿の根本的な否定たりうる。タイトルと絵そのものとの違和感から、絵そのものへの注目が促されそこで「無相」を発見することで「アスペクト」(=風景相)が否定され、絵そのものに描かれたタイトルを発見することでタイトルの魔力「こう読め」という「アスペクト」(=風景相)が再び強要され、再びタイトルに強要された「アスペクト」(=風景相)と絵そのものの違和感に溺れ、絵そのものに見入っていく……。
「無相」(あらゆる「アスペクト」の否定と、絵に記述されたタイトルへの示唆)、絵に記述されたタイトル(「アスペクト」の設定、タイトルと絵の矛盾への示唆)、タイトルと絵の矛盾(タイトルが設定する「アスペクト」の否定、「無相」への示唆)、この三つのモチーフを有するこの絵ではこのような循環構造が生じることになる。だがこの無限の循環運動も、『ソロモン海戦に於ける敵の末路』というひとつのタイトルへとイメージは「結晶化」され、絵画に対するイメージはタイトルへの違和感を引きずることとなる。だから、この絵ははじめから二つ目のタイトルを要請しているのだ。

僕はこの絵に『異空海』というタイトルをつけた。換言すれば、「無相」という「アスペクト」(=風景相)に対してそう名付けた。つまり、上述の循環構造は『異空海』と『ソロモン海戦に於ける敵の末路』という二つのタイトルに紐づく二つの「アスペクト」(=風景相)の循環構造として現れる。この無限循環において、交互に行き来する二つの「アスペクト」(=風景相)のイメージはそれぞれのタイトルへと「結晶化」され、故にこの絵画は二つのイメージの「結晶」による「複合イメージ」を形成し、そこではじめてタイトルへの違和感が解消されるのだ。

上述の二つの「アスペクト」(=風景相)の循環運動は、遊離と幽閉、つまりリアライズとメタファライズの振り子運動に対応する。僕は絵画の右下に記述されたタイトルからこの果ての無い循環構造としての「末路」に気付き、そして絵画の真ん中の「憂鬱の男」に囚われていた自分から、作者の憂鬱から、絵画の前から、切断を意志することによってリアライズすることが……現実の美術館に戻ることができたのだ。

僕ははぐれた恋人を探しに美術館を巡り、十七巡目でようやく恋人を見つけた。恋人は『ソロモン海域に於ける米兵の末路』の絵の前で僕をずっと待っていた。

 

藍喩

恋人は言った。

「美術批評なんか読まないよ。時間の無駄。絵は感性で捉えるもので、誰かに説明されて理解した気になるものではないし、そもそも語るものでもないよ。それに、あれを書いている人たちは別に感性があるわけでもないし、うつくしい文章を書くわけでもない。わかった気になってる人たち同士の哀しい寂しいお戯れ。だからすぐに絵の外部の情報を参照する。私の方がいい写真を撮るし、いい詩を書くし、あの人たちにはそれができないでしょう?色で思考することができない。絵にタイトルをつけられない。絵を視て傷つくことができない。メタファライズすることができない。絵に傷つかない人に、絵の何がわかるんだろうね?絵に入り込めない人に。君も、そう。今回の批評は失敗だったね。色が無い。うつくしくない。ごちゃごちゃどうでもいいことばっか、それっぽく並べて……。君は絵を描くことができない。君には絵が描けない。絵が描けないと言って首を吊ろうとしたあの人、君はあの人の自殺を止めようとしたけど、絵が描けない君にはあの人の気持ちは一生理解できないよ。ちょっと前に、君は死んでしまったお友達のことを批評として書いたけど、それだって結局貫けなかった。君はもう忘れている。君はあの頃、毎日ずっと泣いてたし、ずっと一人で別の方法を考えてた。流した涙に清められていた。でも、君はもう傷付くことができなくなっている。君の文章はうつくしくない。君には絵が理解できない」

「わかってる。わかってるけど、僕はこうやって書くしかなかったんだ。僕はまだ『異空海』というアスペクトに心を囚われてしまっている。それがうつくしくないと知りながらも、書くしかなかった。結局この章を後付けで挿入することくらいしか僕には方法がなかったんだ。もしよかったら、ヒントだけでもくれないか。どうやってあの絵のことを書けばよかったんだ。どうやったら綺麗な文章を書けるんだ。どうやったら絵を見てちゃんと傷付くことができるんだ。君はあの絵にどんなタイトルをつけたんだ?」

……僕に色をくれないかな。

「私は、『藍喩』というタイトルをつけた。あの絵の、すべては藍色の隠喩に視える。藍色を欠いた海面は、潤いという名のソレを欲し、憂鬱は不在の藍色を願う。群青の幽霊たちはただ佇む。クリスタルにひかりを透過させるように、描き込まれた海面を覗き込めば、絵という平面の奥の裏側に、宇宙のように広大な立体に膨らんだ海に溺れる。それは戦争に疲れたすべての人たちの涙が溢れてできている。なにもかもが綺麗な憂鬱で、すべては藍色の隠喩だね……」

文字数:6802

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