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対話の世界 -意味と幻想の写真論-

神話の女というのはまた別格でな。詩人が自分に都合のいいように描いてみせるのさ。

(ゲーテ『ファウスト』)

1. この世界は何色だ

写真は何を映すのか。特に、人が人に対してではなく、世界/風景にカメラを向けるとき、そこに何を見出し何を切り取るというのだろうか。いい写真を撮ろうと眼前の風景に対しあれやこれやとアングルを変え構図を決め兼ねているその様子は、まるで存在しない写真を撮ろうとするような、世界/風景のなかに「私」を探しているかのように見える。この問いに答えるにあたり、我々はまず我々人間の目がどのように世界/風景を見ているか/切り取っているかについて考えねばならないだろう。

以下の議論の枠組みとして図1を提示する。

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哲学者ハイデガーは主著『存在と時間』(1927年)において、我々人間は「意味」を理解する存在者「現存在」であり、世界は「現存在」にとって諸々の意味連関の総体として開かれていると述べている。これを踏まえれば、世界/風景は我々にとって我々に意味するものつまり「イメージ」として見えていると言えるだろう。しかし、ハイデガーによれば我々は「世界」の内側に予め閉じ込められている「世界内存在」であり、我々の理解する意味/イメージは世間や日常の共同的な認識のなかで、予め既に開かれて/与えられているものに過ぎず、人はそれに囚われ本来の自分を見失っていると述べている。
一方、写真の観点から考えると上記の論と反対の運動を確認できる。写真評論家の飯沢耕太郎は『私写真論』(2000年)において、「あらゆる写真は「私写真」であり、〝私〟と被写体(現実世界)との関係の網の目から濾し出されてくるのである」と述べている(故に純粋な記録写真はありえない)。なぜなら、「たとえ同じ被写体を撮影したとしても、十人の写真家がいれば十通りのまったく違った写真ができあがってくるだろう」し、「自分の意志で自発的にシャッターを切るならば、そこには当然〝私〟がどのように被写体に対して身構えていたのか(無意識的な姿勢も含めて)が映りこんでくるからだ」。つまり我々は予め規定されたイメージに沿って世界/風景を見ているが、その一方ではそこにどうしても我々個人の気分や状況などの世界/風景との対峙の仕方が視界(目の動きや状態)に反映されて、その混合物としてのイメージの世界/風景を見ている/切り取っていると言えるだろう。
これは吉本隆明の『共同幻想論』における議論と対応しているだろう。風景のイメージを規定する世間や日常の共同認識は「共同幻想」にあたり、写真/風景のなかに映り込む「私」の個別認識は「自己幻想」にあたるだろう。これらを踏まえて図1を改めてみる。世界/風景を映す以上純粋な私写真はありえないし、また〝私〟が入り込む以上純粋な記録写真もありえない。我々は非本来的な人間でもなければ本来的な人間でもなく、共同幻想と自己幻想のどちらに属することもできず、その「共同幻想」と「自己幻想」が溶け合う中間地点で揺れ動きながら世界を認識し、風景写真を撮っていることが分かるだろう。(この二つの幻想は通常逆立するが、ここでは部分的には逆立しないと考えられる。なぜなら吉本隆明も述べたようにこれは生活の位相においては十分に考えられることであり、我々が海を見るとき一般的な海のイメージと個人が抱く海のイメージが全面的に対立/逆立するということは考えられないだろうからだ。そして、風景ではなく人……特に異性にカメラが向けられ、被写体が撮られていることを意識するとき、それは家族や男女の関係における個人と個人の私的な関係である「対幻想」となる)

下の図2のように、我々の目が見ているモノ、そして写真が映しているモノとは、世界そのものではなく世界の中に存在し我々の共同幻想と自己幻想の溶け合う、我々が常日頃見ているこのイメージとしての世界/風景であり、それをハイデガーの「世界内存在」にちなんで本稿では「世界内風景」と呼ぶこととする。

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2. 対話の世界

沢耕太郎は「誰がシャッターを切ろうとも同じような写真ができあがってくるのではないか」という思い込みや「写真は真実を映す」という神話が今でも我々を強く支配していると述べており、何人かの読者はまさにそのように疑っているであろうと筆者は予測する。確かに、写真は世界/風景を映すものであり、そこに「自己幻想」を持ち込むことは容易ではないが、人がカメラを用いていい写真を撮ろうとするのは「自己幻想」を追求するためであり、それは撮影技術に基づく身体性によって可能となるのだ。ズームやピントの調節などの撮影機材の操作に始まり、被写体を探し距離を調整するための移動や、アングルや構図を決定するための動作、シャッターチャンスのためのひたむきな待機に至るまで、それらはすべて身体の動きとして現れている。故に写真は非常に身体的な芸術行為だと言われる。

また、写真は光を切り取る芸術であり、それは光そのものを、まさに鋏で画用紙を切り取るように切り取るということであり、つまり光そのものの作り替えである。図3を見て頂きたい。写真を撮るときには、まず世界/風景から何を切り取るのかという被写体選択の切り取りがあり、次にどのアングルからどの構図で撮るかという切り取りが存在する。ここで光を切り取る撮影行為は、絞りとシャッタースピードの調節という身体的な動作によってまず行われる。図3においては分かりやすくするためにカメラを鋏に置き換えたが、この鋏の開き方の大きさがカメラの絞りに該当し、鋏が開いている時間がカメラのシャッタースピードに該当する。絞りとシャッタースピードは光量=あかるさを決定づけるとともに(蛇口から出る水の量を想像して頂きたい。絞りが蛇口の大きさで、シャッタースピードが蛇口から水が流れる時間である)、絞りは被写界深度(ピントの合う範囲)を変えることで鮮やかなボケを演出し、シャッタースピード(光を切り取る時間)は遅くすれば蠢く残像を、早くすれば一瞬の内に静止した世界/風景を映すことができる。

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そしてカメラはレンズの色収差と、フィルムの種類(デジタルの場合はセンサー)と、現像方法(デジタルの場合は加工)によって光の色合いを変える。これらはレンズ交換や、フィルム交換、カメラ自体の交換、デジタルカメラの設定変更などの身体の動作によって為される。更に二つのテクニック、クロスプロセス現像と多重露光について紹介したい。クロスプロセス現像とはポジフィルムをネガフィルム用の現像液で処理する現像テクニックであり(デジタルカメラにおいてはクロスプロセス風のフィルター設定がこれに相当する)、非常に発色の強いコントラストのはっきりした描写があらわれる表現方法である。多重露光とはフィルム1コマに2回またはそれ以上露光する技法とのこと、つまり2枚以上の写真を重ねて撮る撮影方法であり、非常に不思議で幻想的な写真に仕上がることが特徴的である。

このようにしてカメラを用いた一連のアクションは光としての世界/風景を切り取り、「自己幻想」を具現化しようとする。だが、完璧な一枚の写真などあるだろうか?目とカメラが映す世界が根源的なズレを抱え込んでいるように、「自己幻想」を具現化できる写真などは存在しない。ならば、その写真と我々とのズレはフィードバックされ、次のシャッターへとフィードバックされ……こうして我々と写真は対となり循環構造を構築する。図4を見れば分かるだろう、これは「自己幻想」も「共同幻想」もぐちゃぐちゃに溶け合った「世界内風景」、我々と写真との「対幻想」なのである。

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3. 存在しない写真を求めて

ハイデガーは『存在と時間』の結論として、人は自分がいつか死ぬことを肝に銘じ、生まれてから死ぬまでの時間/歴史を意識するとともに、見えている世界/風景や自己の意味とは何かを問うことで、日常に頽落している非本来的な自分から本来的な自分へと至るべきだと説いているが、まさに写真とは世界/風景のなかに〝私〟を見出し、「共同幻想」と「自己幻想」の対話を実現する哲学的な実践であると言えるだろうし、それはどこまでもカメラという道具を駆使する身体的なアクションなのだ。

だがそれは時に危険な「私探し」に成りかねない危うさを持つ。前述の通り、写真は決して純粋な「自己幻想」たりえないが、深瀬晶久のように「私写真」という「自己幻想」の追求に取り憑かれて壊れた写真家も存在するのだ。世界/風景を対象にする写真においてははじめから「自己幻想」への道は半ば閉ざされていると言えよう。それでもその存在しないナニカ――〝私〟を探し求めてあえて世界/風景にカメラを向け対話し続けた彼らはまさに本来の自分へと至ろうとする存在、ハイデガーの哲学を体現する求道者ではないだろうか。このような態度はゲーテ『ファウスト』(1833年)において、世界の根源を究めようと悪魔メフィストフェレスと盟約して魂を売り渡し、のちに美の象徴たる神話の女神ヘレネ―を追い求めたファウストの生き様と重なって視える。「私が興味を抱いているのは、いつでも私自身である」と言い残し、「私写真」に憑りつかれ壊れてしまった写真家・深瀬晶久は次のように自問自答する。

「思えば私は生まれた時から写真の中でだけ育ってきた。もう取り返しはつかないのだが、いつも愛する者を、写真を写すという名目で、まきぞえにし私を含めてだれも幸せにはできなかった。私はいつも迷いつづけ、人を迷わせた。写真を撮るのは楽しいか?」

(深瀬晶久『洋子1974』)

文字数:3973

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