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その目に宿す、ライ麦の陰を切り裂いて -イノセンスの流儀と系譜学-

 

「僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた」

 (J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』)

1.イノセンスの系譜

アメリカ文学の金字塔、J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(1951年、以下「ライ麦」)は、子どもから大人への移行期である少年時代特有の葛藤を描いた作品だが、それはひとつの通過儀礼として描かれるのではなく、主人公ホールデン・コールフィールドは大人や社会に対して「インチキ」だときっぱりと全否定し、それに近づきつつある自分も否定し、年少の妹と死んだ弟だけを「綺麗だ」と思い、その葛藤の果てに心が壊れてしまう形で結末を迎えるため「イノセンス」的な文学だと評されている。

川本三郎は『フィールド・オブ・イノセンス-アメリカ文学の風景-』(1991年)のなかで、「アメリカ文学は気がついてみると繰り返し、繰り返し「無垢」(=イノセンス)への愛を描き続けてきた」と述べるが、池澤夏樹は『世界文学を読みほどく』(2005年)のなかで、アメリカ文学が描く「イノセンス」は、ヨーロッパの汚れた歴史に対する失望と、歴史のない自分たちアメリカはイノセンスであるはずだ/そうありたいという願望に基づいた幻想だと評している。ところで、日本のアニメ文化においてもまた「イノセンス」というモチーフが頻繁に登場しないだろうか。日本のアニメには純真、無邪気、天真爛漫な性格のキャラクターが数多く登場し、しばしば「イノセンス」自体がテーマになる。それは古くはスタジオジブリ作品に顕著に見られ、近年では『AIR』(2005年)『CLANNAD』(2007年)などの所謂「Key作品」を始めとする多くの作品に確認できるが、東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001年)で述べたように、日本のアニメ文化がアメリカからの輸入でありながらもアメリカへの敗戦の反動によって形成されたということを踏まえれば、日本のアニメの「イノセンス」のルーツもまたアメリカにあり、アメリカの「イノセンス」への欲望を無意識に継承しながらも、アメリカに対し日本は「イノセンス」である/そうでありたいという願望に基づいた幻想であるうえに、アメリカがヨーロッパに対してとった態度まで継承しているのだと理解できるだろう。このように、作品という虚構のなかで扱われる「イノセンス」は概ね都合のいい「幻想のイノセンス」なのである。
だが、サリンジャーの「ライ麦」で描かれるのは限りなく真の「イノセンス」だ。なぜなら主人公ホールデンは「インチキ」な大人たちや社会に加え、それに近づきつつある自分も否定し、そうではない妹や死んだ弟たちを「綺麗だ」と思い、その美学に殉じて生きることでふいに壊れてしまうからである。そこに都合のいい願望などは一切存在しないのだ。
こうしたアメリカ文学や日本アニメなどを始めとした「幻想のイノセンス」を描いた数多の作品群とは別の地平に「ライ麦」は位置している。だが「ライ麦」の結末は、壊れてしまったホールデンの物語は乗り越えられるべきではないだろうか。本稿では「ライ麦」の続きを、その乗り越えを描こうと試みる作品が日本にもいくつか存在することを確認し、果たして人は「イノセンス」であり続けることは可能なのか、その「ライ麦」の続きの地平において「イノセンス」はどのような姿で現れるのかを考察する。

 

2.ホールデンのゴーストを継ぐ者たち

「社会に不満があるなら自分を変えろ、それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ。それも嫌ならっ・・・・!」

(『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』)

神山健治『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(2002年、以下「攻殻SAC」)は、第3次核大戦とアジアが勝利した第4次非核大戦を経て訪れた東洋文化と西洋文化の混濁する『ブレードランナー』(1982年)的なサイバーパンク感溢れる日本を舞台に、電脳化(脳と魂のデジタル化)によって人々が常時ネットに接続されることで起こった実質的な真犯人の不在を特徴とする「笑い男事件」の解決を試みる「公安九課」の活躍を描いた作品である。「笑い男事件」とはサリンジャーの『笑い男』のパロディであり、「笑い男事件」の中心人物アオイは「ライ麦」のホールデンのトレードマークである赤いハンチング帽を持ち、ホールデンの言葉を引用するまさにホールデンを再現したかのようなキャラクターとして描かれる。
超特A級ハッカーであるアオイはある日ネットに隠された社会の欺瞞を発見し、それを正すべく戦うも現実を前に挫折する。この醜い世界への絶望による数年の沈黙の末、「僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた」とホールデンの台詞を引用してから、「だがならざるべきか」と付け足し、再び社会の「インチキ」との孤独な戦いを開始する。これはまさに「ライ麦」の、ホールデンの結末の続きを描こうと目論んだ野心作であり、この作品はアオイを通じてホールデンが「ライ麦畑で崖から落ちそうになる子供達を捕まえる人になりたい」という言葉で「醜い世界から子どもたちを守りたい」と語ったことを再確認するのだ。そしてアオイは主人公の草薙素子という一人の大人を信じて事件解決の主導権を譲ることで目的を果たし、ラストシーンでアオイの赤いハンチング帽(ホールデンのトレードマーク)を草薙素子が被り、それをアオイに投げ返すことで、草薙素子はアオイ=ホールデンの「イノセンス」を大人として引き継ぎ、以降の「攻殻SAC」シリーズにおいて「イノセンス」と「インチキ」との戦いを続けていくのである。

 

3. 綺麗だ、なにもない。

その一番美しいものこそ、お前の敵だ。

(森博嗣『クレイドゥ・ザ・スカイ』)

森博嗣『スカイ・クロラ』(2001年)シリーズもまた、サリンジャー的なイノセンスを描いた作品群である。各章の冒頭ごとにサリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(1953年)からの引用が行われていることからサリンジャーへの目配せを確認できるだろう。
戦争がショーとして成立する世界に生み出された大人にならない子ども「キルドレ」、戦争を仕事に永遠を生きる子どもたちの寓話が『スカイ・クロラ』だ。記憶の混濁という問題を抱えた「キルドレ」の一人称形式で物語は語られ、それにより物語は無数の謎と矛盾を孕み、『スカイ・クロラ』作品世界そのものがミステリーと化す。「キルドレ」が醜いと全否定するその世界は同時に、彼ら/彼女らが脱出を試みる永遠という名の密室であるが、それに囚われたりはせず、彼ら/彼女らはうつくしさとは何かをどこまでも追求することで、この醜い世界からどこか別の次元への脱出を、空への飛翔を既に果たしているのだ。
彼ら/彼女らは「ライ麦」以上にイノセンスを徹底して貫き、ありのまま戦い、うつくしさのみを求める。彼ら/彼女らにとっては空こそがうつくしく、戦闘機に乗って空で戦うことこそがよろこびであり、醜いこの世界も、自殺願望も、孤独も、絶望も、なにもかもがそれに比べてどうでもよく、悩むことにも悩まないほどにありのまま愚直にうつくしさを求めるのだ。彼ら/彼女らは「ライ麦」と同じ絶望を生きながらも、それ以上のうつくしさを知っているのだ。

 

4.この醜く間違った世界で、それでも戦う貴方のために

「世界が間違っているとすれば、歪めているのは……この世界に存在するものすべてだ」

(石田スイ『東京喰種』)

現在ヤングジャンプで連載中の青年マンガ・石田スイ『東京喰種』(2011年~)は「人間」と人間を喰うことでしか生きられない怪人「喰種」の二つの世界に切り裂かれた東京で、偶然「喰種」化してしまった「人間」カネキがそのどちらかだけを選ぶことなく、悲劇に翻弄されながらもそれに抗い、いつかその悲劇を解体することを暗示させる物語だ。次の引用が作中で行われると同時に、カネキは戦いを決意する。

 

鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。

(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』)

『東京喰種』ではまず一巻のはじめで絶対的な理不尽としてのカフカ『変身』(1915年)が引用されると共にカネキが「喰種」化し、続いて「イノセンス」と超越性としてのヘッセ『デミアン』(1919年)が一巻のおわりに引用されると共にカネキは戦うことを決意する。『東京喰種』では絶対的な理不尽としてのカフカに対し、それの乗り越えを試みるべく超越性としての『デミアン』が対置されることで『デミアン』が描かなかった醜い世界との戦いを試み、その超越の過程における葛藤として「凛として時雨」の音楽のようなうつくしくも倒錯的なニュアンスのパラノイアが描かれ(作者の石田スイは「凛として時雨」の大ファンである)、「理不尽/世界」と「超越性/イノセンス」と「パラノイア/人格変容」の三角形を形成し、カネキは「超越性/イノセンス」をもって「理不尽/世界」に挑み失敗し「パラノイア/人格変容」を経て新たな「超越性/イノセンス」を獲得し再び「理不尽/世界」と対峙する。カネキは拷問されることによって精神を病み生まれ変わったように強くなる。

喰種になったカネキは「もう食べたくない」と絶望する。しかし不可能は不可能であり、カフカが描いたのはそうした絶対的な理不尽だ。だが『デミアン』はそれすらも乗り越える力を持ったある意味では未完の作品であり、『東京喰種』は『デミアン』の続きを描こうとすることで同時にホールデンの感じた世界への絶望をも乗り越えようと試みる。この作品にはカフカの理不尽や絶望すら超えていく、そう思わせるだけの何かがあり、この物語は今もまだ続いている。

 

5.佐藤友哉にうってつけの花束を

「姉はとても素敵なときもあれば、そうでないときもあります。迷子になって泣いていた女の子の家を、名前も住所も聞かずに一発で当てる人です。靴ひものチョウチョウ結びが綺麗にできなくて恥ずかしいと云って、お面をかぶってコンビニへいく人です。姉は百の迷惑を投げつけてくるかわりに、千の幸福を渡してくれるのです。これって結構、困っちゃうんですよね。あなた、兄弟はいらっしゃる?」

(佐藤友哉『ナイン・ストーリーズ』)

そして佐藤友哉は日本において恐らくサリンジャーを最も意識的に踏襲している作家である。主著『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』(2001年)を初めとする通称「鏡家サーガ」シリーズは、サリンジャーの「グラース家」をモチーフとしており、『ナイン・ストーリーズ』(2013年)に至ってはサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(1953年)の完璧なパロディである。ここでは徹底してサリンジャーの反復が試みられているのだ。佐藤友哉は寓話的にではなくあくまで現実的な描き方で、舞台である現代日本にサリンジャーの物語を蘇らせる。これは我々の世界への接続を、もっと近くへとサリンジャーを届けようとする試みであり、花束のような愛のある贈り物なのだ。そして、サリンジャーの絶望に我々の素朴な現実感を対置させることで、そのかなしみは乗り越えられていくのである。

 

6.すべてのインチキを切り裂け

これまで4つの作品群が如何に「ライ麦」における「イノセンス」故の絶望と向き合い、その乗り越えを試みてきたかを確認した。ところで、「イノセンス」の和訳とはなんであろうか。無垢、潔白、純潔、純真、無邪気、天真爛漫などはろうか。だがそれらは守り抜かなければ壊れてしまう。それらを貫くことこそが「イノセンス」なのだ。ならば、「イノセンス」の和訳とは「道」のことではないだろうか。生き方と言ってもいいだろう。武道、茶道、弓道、書道、華道、修験道、香道……道と名のつく修練はどれも、スポーツなどの競技としてではなく精神の修練を目的とする。ここでサリンジャーも禅を学んでいたことを忘れてはならないだろう。新渡戸稲造『武士道』(1900年)では、「忍耐と正しき良心とをもってすべての災禍困難に抗し、かつこれに耐えよ」というのが武士道の教えであり、それは日本人の心であると述べられているが、この正しき良心こそが醜さに抗うことでときに世界や自己をも否定し「克己」と「超越」の契機になり得る「イノセンス」であり、その実践こそがまさに「武士道」なのだ。江戸城無血開城を成し遂げた立役者の一人、勝海舟は次の文句を残している。

「私は人を殺すのが大嫌いで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃がして、殺すべきものでも、マアマアと言って放っておいた(中略)人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった」

(勝海舟『海舟座談』)

この態度こそ「イノセンス」の実践である。そしてその根底には正しき良心があり、それはまた、ホールデンが貫いた美学や絶望を出発点とするのである。よって、「ライ麦」の続きを描くことは「イノセンス」の実践、つまり作品内における「武士道」の試みになり得るのだ。今尚多くの作り手によって「ライ麦」の続きを描くことが試みられているが、最後にその乗り越えにあたって、ホールデンが醜いこの世界を全否定しながらも、本当はみんなみんな何もかも、心から愛していたことに留意して論を終わりたい。次の引用文をもってして、「ライ麦」の物語は終わりを迎える。

 

たとえば、ストラドレーターやアクリーでさえ、そうなんだ。あのモーリスの奴でさえ、なつかしいような気がする。おかしなもんさ。誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。

(J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』)

 

 

 

 

だから彼は壊れたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」

(J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』)

文字数:5627

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