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死にたいくらいに幻/文学が好き

毎秒毎秒が火炎車で、生きたくないのか詩がかけないのか、すべてに意味がないような空疎は、フリダシに戻り続ける過呼吸。何も見えず、吐き気と目眩にゆれて、ゆれて、何もできず、毎秒毎秒が身を捩る程に今すぐ死にたい火炎地獄だ。

すべてに意味がないのだと思う。すべての希望が予め夢のなかにあるのだと思う。すべての色が、すべての輪郭が……。目覚めることなく歳をとり、いつしか感情は灰色に朽ち、心の残余として絶えることない吐き気だけが与えられる。虹色に穢れた心臓、産毛。
すべては機械的に生きるうえでの、「差異化」と「優位性の確保」のための暴力だ。
お前は、誰かを否定するその価値観、お前自身を肯定するために誰かを否定するその価値観、その冷たい批判のために、お前自身は死ねるのか。その覚悟はお前にあるのか。

文学/暴力だけが、エゴイズム/暴力性を超えていく。

 

序章 ナイフと海

この論考は前回の論考の続きである。前回の論考では批評の意義を二つ提出したが、今回はそこに新たに一つ付け加える。それは、批評行為をテキスト上で行うのではなく、実生活において実践的に批評を行わなければいけない場合において発生する。自殺志願者の説得だ。彼ら/彼女らはいつも二項対立を構築し、それを我々に提示する。我々はそれを瞬時に解体しなければならない。さもなくば、彼ら/彼女らは「結論=死にたい」へと至ってしまう。二項対立が提示され、瞬時に解体し、また二項対立が提示され、瞬時に解体し……果てしない戦いが続いていく。だがひとつ解体するごとに、その人の奥へ迫っているような気がしてくる。事実、提示される二項対立も段々と血の色を帯びてくる。そして我々はどこかでつまづく。どこかの段階で何も言えなくなってしまう。だが批評を学ぶことで、次はもっと奥まで解体できるようになっている。これが批評の第三の意義だ。そして、批評にはコジツケのような「無根拠の肯定」を可能にする力があり、彼ら/彼女らの構築する二項対立に何も言えなくなったとしても、苦し紛れの「でも君はきっと○○だから、それでいいし、僕は君が好きだよ」という発言が十分に彼ら/彼女らの精神を補強しているのだ。何も自殺志願者に限らず、万人がそれぞれの友人のために、友人の名誉のために、誰しも批評を行っているのであり、まず批評はこうした友人のために必要ではないだろうか。批評は友人のために意味を用意することができる。そして、友人を全否定する輩には次のように反論を始めてやればいい。「お前はその批判のために死ねるのか」

話を自殺志願者の説得に戻そう。彼ら/彼女らは本当に死にたいのだろうか。ケースバイケースであるが、我々が彼ら/彼女らを説得しようと試みるとき、多くの場合において彼ら/彼女らと対立することを覚悟/自覚しておいた方がいい。我々は一方では彼ら/彼女らに対して暴力的な抑圧装置である。これはある意味では単に二つのエゴの戦いでしかない。

自殺志願者は二項対立を提示し、「私はナイフだ(私は死にたい)」と叫ぶ。
我々は自殺志願者の二項対立を解体し、「君は海だ(君は生きろ)」と叫び返す。
世界/海は収束してナイフになり、ナイフ/私は解体されて海になる。それを繰り返す。繰り返す……。これですら結局は二項対立に過ぎないのだ。果てしないこの戦いは二つのかなしい暴力の衝突に過ぎない。いつかは自殺志願者も「結論」へと至るのだ、それはいつか。

 

第一章 暴力の世界

親のセックスが直接の原因で生まれてきた。卵子と精子が出会ってひとつの吐き気に変わった。それとなく名付けられ、親類どもに引き合わされ、ゆりかごのなかの無味無臭の教育から自己のすべてが始まった。公園の幼児たちと同程度の存在だった。猿のように主導権を巡って争いながら年を重ねた。思春期の数年間は全くもって無駄に過ごした。たくさん殴られてたくさん叫んだ。その間も命を食べ続けた。一生を農場と工場で過ごす豚たちを「いらない」と吐き捨てた。射精だけは欠かさなかった。そのうち「立派になったね」と規格化された自分を見て周りは微笑んだ。勝手に誰かを好きになり、好き勝手に感情転移し、強引にアプローチをしてはすぐに振られた。その間もたくさん命を食べ続け、射精を繰り返し、眠れなかったり眠り過ぎたりをなんとなくやり過ごしていたら就職していた。

決してこんなことをずっと考えているわけではないが、すべてに暴力性がどうしようもない程に色濃く刻まれていることに留意したい。あらゆる行為/思考は暴力である。
ならば、意味はどこになるのか。

 

第二章 暴力批判

自然のまま、暴力の赴くまま、機械のように生存し続けるのが動物であるならば、我々は自らの暴力性を律し、真に人間的であろうとするべきではないだろうか。よってまず本稿では暴力への批判を試みる。では我々にとっての暴力とはなんであろうか。前述の通り、すべては暴力的な一面を持っている。ここではまず一般的に暴力的だとされている「不良」について論を進めたい。
善良な市民は概ね不良を敬遠する。そして「インテリ」(他者を「馬鹿」だと侮蔑する多くの人の意)を自称する人間は「不良」を根本的に否定する。だが、その批判はどれ程有効であろうか。お気づきの通り、「不良」に批判は通じない。「不良」はそういう批判の裏側に隠れた「否定」によく気が付く賢い種類の人間で、それに対するレスポンスは、喧嘩を買うか大人しくしているか舌打ちするかの三通りである。不良への批判はあまり頭のいいやり方とは思えないのであり、概ねあまり効果を出さずむしろ「インテリ」を自称する人々の内輪の慰めとして機能しているのではないか。
では、不良への批判は如何にして可能か。ここで「不良」という人種の核心的な特徴をひとつ押さえておきたい。「不良」の大半は喧嘩が弱いのだ。どういうことか。彼らの大半は格闘技/武道を経験したことがない。つまり喧嘩においては全くの素人なのである。これは筆者の経験に基づく論であるが、概ね間違いはないだろう。では、なぜ彼らはあんなにも偉そう/強そうなフリをしているのかを考えると「不良」の本質が見えてくる。「不良」は弱い、だが強く見せかけたい、そして戦いによって負けることも極端に嫌がるのである。だから「不良」は独自の「審級/秩序」をつくりだし、それへ従属することで敗北することを避けながら、「不良」ではない人々に対し強く見せかけることにこだわる。だから彼らは弱い者いじめはするが、決して逆は犯さない。

しかし、ここで問いたいのは、暴力を欲望しながらも戦いを避け続け、「審級/秩序」を創り上げ従属することでなんらかの暴力性を行使するという習性は「不良」独自のものでは決してなく、むしろ「インテリ/オタク」に対しても顕著に見受けられるのではないだろうか。彼らは腕力やルックスの代わりに、知性や教養という言葉を用いて他者(インテリ集団外の人間)を見下して否定する。ミリタリー趣味や暴力論が、彼らの暴力への欲望を顕著に反映しているように思える。往々にして暴力を声高に「馬鹿だ」と否定しながらである。「不良」と同じく「インテリ/オタク」もまた、暴力を欲望しながらも戦いを避け続け、「審級/秩序」を創り上げ従属することでなんらかの暴力性を行使しているのだ。「不良」も「インテリ/オタク」もたいして変わりはなく、暴力批判もまた概ね暴力への欲望として現れる。

そしてこれはもはや「インテリ/オタク」や「不良」だけに限定された問題などではなく、「ビジネスマン」や「スポーツマン」、そして女性全般にも言えるだろう。
人間はみな暴力を欲望し、そして暴力の餌食になることを予め回避しようとして、大きな「審級」を創り出しそれへ自己を同一化して「暴力性」を享受しているのだ。そこに意味などなんらない。

今一度問おう。お前はその価値観のために死ねるのか。

 

第三章 思考/思想の暴力性

では、ここで人間の営みの「暴力性」以外の側面、「自己確立」へと着目したい。「自己確立」とは、自己を自己として他者と差異付けオリジナリティを見出す行為であり、一人の人間が所謂「一人前」になるには避けては通れない通過儀礼であるが、そもそも一人の人間にオリジナリティは果たしてあると言えるのだろうか。また、仮に一人の人間にオリジナリティがないというのであれば、この「自己確立」において起こっているのはどういうことだろうか。

残念ながら、人間には概ね「オリジナリティ」などないと言えるだろう。いや、あるにはあると直感では理解できるのだが、それは主に知人間で成立する暗黙の了解であり、純粋な他者に「オリジナリティ」を感じてもらうのは難しい。だから人間は「個性」を獲得しようと尽力する。
更に人間は自己の「理想像」へと自己を変革させていく運動を持つが、こちらも「オリジナリティ」への運動と同様に、素朴な自己像から伸びていき、「差異化」と「優位性の確保」の法則に従って新たな自己像を形成するという特徴を持つ。そう、それらの運動には本質的に「差異」と「優劣」しかないのである。そこに内容や意味は存在せず、それ故に他者を秤にする他ないため、それは他者への暴力という形式で表出するのだ。

再度問おう。お前はそのアイデンティティのために死ねるのか。

これらの議論を踏まえたとき、もはや思考/思想にはそもそも意味などないことが分かるだろう。思考/思想は「差異」と「優位性の確保」を求め、それは他者に作用する暴力である。
人のあらゆる営みには、中身が欠けている。人は機械的に生きている。あらゆる行為/思考には「差異化」と「優位性の確保」の運動しか存在しない。すべては機能的で、そこに「意味」はないのだ。そこには暴力的な価値体系(=フツウ)だけが存在する。

では、批評とはいったい何だろうか。批評という行為/言説は、「差異」と「優位性の確保」以上の何かを有するのだろうか。批評はこの無意味で暴力的な体系(=フツウ)を解体することができるのだろうか。
残念ながら、批評は「インテリ/オタク」の単なる言語ゲームと化してしまっている。批評という界隈は、大学という場に収まらなかった諸々の溜まり場と化している。彼らは批評の目的を語ることはできないだろう。批評の意義は新しい視点を提示することにあると言うが、その新しい視点も単なる目的のない「差異化」と「優位性の確保」の運動に他ならない。そして言語ゲームとしての批評に興じる彼らに文学は理解できないだろう(彼らは文学を内面化できていない)。仮に口先三寸で綺麗事や批評の大義を掲げたところで、一体彼らはその発言のために死ぬことはできるのだろうか。

 

第四章 エゴイズムを超える文学

「血で書く」という比喩に支えられた記述態度が存在する。だがそれは如何にして可能か。または如何にして機能するのか。
「血で書く」ということは、ひとえに「破滅」をもって記述することであり、換言すれば「デメリット」によって記述するということである。それは所謂努力の多少とは全くもって関係がない。例えばそれは、書いた文章を発表することで現実の作者の存在が物理的に脅かされる可能性を持つことによって、「血で書く」ことは可能になる。また、記述するという行為そのものが作者を追い詰めていくような鬼気迫るストイックな執筆態度や、吐き気や病弱に犯されながらも記述するという戦いによって可能となる執筆方法だ。人が血によって文章を記述するとき、初めてそれは「文学」になり、それは「差異化」と「優位性の確保」への運動である「エゴイズム」を克服するのだ。作者にとって文学を記述することはデメリットであり破滅なのだ。そして、単なる「エゴイズム」を克服した「文学」の地平において、物事は初めて「意味」を有するのだ。「メリット」ではない何か、それが「意味」であり、それは「うつくしさ」のことでもある。

自殺志願者への呼びかけも、行為者自身が破滅する/命を懸けることによって「エゴイズム」を克服した状態ならば、次の段階へ進むことができる。(このとき、我々は自殺志願者に犯罪ですら許さねばならないが、本当になにかをやってしまいそうになったら止めなければならないという微妙な塩梅がある)もはや双方の暴力的な押し付け合いが繰り返されるのではなく、呼びかけは自殺志願者へ届くのだ。
これを撥ね除けて自殺を決行する精神力を生み出すには、自殺志願者もまた命を懸ける必要がある。自殺志願者にとって命を懸けるとは、賭けに失敗したら死ぬことではなく、賭けに失敗したら「一生を生きる」ことである。つまり、今すぐ死ぬかさもなければ一生を生きるつもりで、今すぐ自殺を決行することであるが、大抵の自殺志願者はこの境地へ至ることはまずないのではないか。ならば、あとは可能な限り側にいることのみではないか。

 

第五章 個対個

前回の論考で述べた通り、「文学」はそれ自体が破滅/敗北を要し、社会の「差異」と「優位性の確保」の暴力的な運動体系に黙殺されるよりは他ない。だが、本稿においてはその結論を乗り越えていくことを目的として以降の章を記述する。

いろんなお方が暴力を欲望し、暴力的に振る舞いながらも、それと同時に暴力を避け、暴力的な体系へと自己を同化させることで暴力性を享受していらっしゃるようだが、そのような二重性を帯びた虚勢がいつまでも続くと本当に思っているのだろうか。

私は、ここに決闘文化の導入を提案する。
あくまで仮の提案ではあるが、一旦は聞いていただきたい。話は簡単で、やりたい奴はやればいいし、「頭が悪い」とまた暴力的な批判を用いながら逃げたければ逃げればいい、どこまでも個人の自由である。だがこれによって、多くの人間の暴力的な振る舞いは是正されるのではないだろうか。社会対個人の戦いでは勝ち目のなかった個人/文学も、常に個対個の戦いへと問題が還元されるのであれば、少しも勝ち目も見えてくるはずだ。「不良」批判の話に戻れば、結局彼らを批判するには、彼らを「弱い」と罵る他ないのである。
勘違いされているかもしれないが、あくまでこれは「暴力批判」のための一手法の提案であり、「暴力性」を肯定するテキストでは決してない。
決闘とはいっても、お互い法的制裁を覚悟の上で、なおかつ非殺傷的に行われるのが理想である。それは武道の精神に基づいて行われるのが望ましい。

話が些か突飛になってきたので、現実的なことへ話を戻す。決闘は日本において違法ではあるが、一生のうちに何度か覚悟を決めてやってみるのはいかがだろうか。避けては通れないディスコミュニケーションは、生きてる以上何度か存在するはずだ。少なくとも批評家/文学作家にはこれくらいの気概が望まれる。文章を「血で書く」には、批判対象からのこのような「反響」をある程度は受け止めておく必要がある。さもなければ、それはただの発言しっぱなしの「暴力」に過ぎない。やったらきちんと「やり返されろ」。

そして、「決闘」が「暴力」と異なるのは、相手を傷つけ勝利することを拒絶する場合においてである。「決闘」とは相手を決して打ちのめさず、静かにそして何度となく納得がゆくまでぶつかりあう行為である。そこではあらゆる「権力」は無効になり、二者は再度関係を取り結ぶために極限のディスコミュニケーションを交わし合うのだ。そのためには相手によって「破滅」させられることをも覚悟しなければならない。

これぞ「命懸けの飛躍」ではないだろうか。
「伝える」ために「決闘」し、自ら固く「暴力」を禁じ、「破滅」させられることをも辞さない行為。これぞ「命懸けの飛躍」ではないだろうか。

思えば近代以降、武士がいなくなり、「決闘」という文化が廃れてしまった日本だが、もともと発言とはそうした「決闘」を避けがたい「命を懸ける」行為ではなかったか。「暴力」がないものとして扱われ、それが歪な形で至るところで噴出している。行為/発言から責任性/自戒性がどんどん薄れていき、いまや中身のない言葉たちが氾濫しているのが現状だ。
我々は今こそ「命懸けの飛躍」を再び行い、言葉に「意味」を灯すことを試みるべきではないだろうか。

(この章の文章は些か過激に受け取られかねず、ネットで炎上するなど現実の筆者を脅かす可能性が多分にあるので、筆者としてはどうしても削除しておきたかったが、本稿で述べた「血で書く」ことを実践するためにあえて残しておくこととした)

 

第六章 文学/暴力と「命懸けの飛躍」

こうして、「文学/暴力」は「命懸けの飛躍」を可能にする。それがテキストという形式で記述されるならば、読者にはコンテンツ以上のなにか(=文学)として届くだろうし、自殺志願者への呼びかけにおいても同様だ。命を懸けることで、他者への飛躍が可能になるのだ。換言すれば、命を懸けることもない「発信」は、結局は自己完結的な側面が強いと言わざるを得ないのだ。

そして、文学/個人は破滅/敗北をしなくても、決闘を生き延びる限りにおいて、その効果を発揮しながらも生存し続けることができるのだ。

 

第七章 批評再生塾生批判は可能か

では批評再生塾生たちのテキストを、本稿の論旨と照らし合わせた場合は如何か。残念ながら、血で書かれたテキストは一つもないであろうと言える。彼らは登壇というメリットを享受しようとそれらを記述していることは間違いないだろう。(私は良くも悪くも前回の論考より、登壇を目的としていないことを公言している)
では、彼らの批評を行ううえでの目的はどうだろうか。現実の生活における問題意識をもって批評をしている人間はいるのか。見た限りでは数名ほどしかいないであろう。多くは「コンテンツ/趣味」としての批評を行っており、批評再生への問題意識もコンテンツとしての隆盛に関わるものであろう。
ならば、それらを踏まえたうえで、果たして批評再生塾生批判は可能であろうか。非常に熟考したが、これは否なのである。彼らの論考は血で書かれていない(デメリットのために書かれていない)にも関わらず、その限られたいくつかは非常に面白いのである。非常に、である。そう、血で書かれていなかろうと、面白いものは面白いのだ。

そして彼らはそれに少なからず満足し、コンテンツとしての批評を楽しんでいる。同時に本気で批評家を目指している。そこにはそういう内輪の批評の世界があって、私がズケズケと入る余地はないのだ。本稿の論も仮に執筆動機がエゴではなかったとしても、他者への暴力には変わりがない。

他人に迷惑をかけてはいけないのかもしれない。

だが、一方でやはりそれらの批評をどこかツマンナイなと思っている自分がいて、それらコンテンツとしての批評に意味がないと思っている自分がどうしてもいる。
多分、相容れることはないのだろうけれども、でも全否定をすることはお互いにないだろうし、対立しながら建設的な意見交換ができればと思う。

前回の私の論考に関しても、多くの批評再生塾生とは基本的に対立する意見を提示しており、その後の議論においてもその対立関係は明白であることが判明したが、それでもあの論考を「自分とは反対意見だが、よかった」と意見をぶつけてきてくれた方が多数いた。
周知の通り割と強めの憂鬱を抱えている吉田 雅史氏も、「菊地くんの憂鬱に引きづられそうだ」と酒の席で発言しており、吉田 雅史氏には非常に申し訳ないが、ここに文学/批評の可能性を見い出せるのではないだろうか。人の破滅は誰かに何らかの鋭い感情をもたらし、「命懸けの飛躍」も同様に何かを伝えることを可能にするのだ。我々は分かり合えないまでも、何かを感じあうことはできるのかもしれない。
嫌がる者を暗く鮮やかに過激な憂鬱の世界へ、無理矢理引きずり込むことはよろしくはないだろう。だが、それが綺麗なことは覚えておいて欲しい。いつまでも忘れないで欲しい。文学/故人はゴーストとなっていつまでもこの世界を暗く彩っていることを。我々はそれを忘れることはできないだろう。

 

終章 虚無を切り裂く「幻」

本音を言えば、これまでに述べたことすべてがどうでもいい感じがするというか、結局なんにも意味なんてないような気がしている。自殺志願者をいくら呼びかけて止めたところで、彼ら/彼女らは本質的にこの問題に直面しており、ふと一人きりの瞬間に壊れて、飛び降りてしまうことも多々あるだろう。そして、いまや私も同じ気持ちである。なにもかもに意味がない。
批評は果たしてこの「虚無」を乗り越えられるのだろうか。批評の効果、レトリックによる無根拠の肯定も、二項対立の解体も、自殺志願者にとって長期的にはあまり意味をなさない。
だが「決闘」ならばそれは可能だろう。二者で胸ぐらを掴み合えばいい。そうした「命懸けの飛躍」こそが最終最悪、人の心に無理矢理にでも届くだろう。「命懸けの飛躍」はエゴではないが暴力には違いない、だが「受容される暴力」なのだ。それは限りなく必然的な賭けである。
何かに意味を見出すこと、生きることに意味を見出すこと、それもまた「命懸けの飛躍」の先にあるのではないだろうか。つまり、一旦は命を懸けること、すなわち極限まで死にたいと願うこと。本当に死にたいと思いながら段々と沈んでいくその先に、どこかで「生きたい/痛い」と思うときがある。また同時に、一旦は極限まで生きていこうと思うこと。本当にいつまでも力強く生きていこうと決意し高揚する意識が、ぽっきりと折れて「死にたい/なにもない」と思うときがある。その二線の交錯する空間に、生と死が混在する精神状態に、「虚無」のなかでさえ感じられる確かな「意味」があるのではないだろうか。その瞬間に聴く音楽は本当にうつくしい。それはまさに「血で聴く」音楽であり、五感の全てが、世界を「血によって認識」している状態へと移行する。それは一種の「幻」の体験だであり、その体験を通じることによって、人は「幻/文学」を内面化することができる。日常を意味深に彩ることが可能になる。それが本当に綺麗だから、いつまでもいつまでも、海を視ながら泣いていたい。

「幻/文学」を自殺志願者へと内面化させること、海と日常のうつくしさに少しでも気付いてもらうこと、「生きてて良かった」とそういう瞬間を穿つこと、それが私にとっての「命懸けの飛躍」、文学/批評を志す目的の一つである。

文字数:9091

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