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音楽を聴くことは可能か -記号と複合イメージ-

「You say goodbye and I say hello.」
これを和訳すれば「あなたはさようならと言い、私はこんにちはと言う」という意味になるが、これは実際に何を意味しているのであろうか。大別すれば、「あなたはさようならと言い、私はこんにちはと言う」といった状況説明を行っていると文字通りそのままに読解する方法(コンスタティブな読解)と、「この文章はこの文章以外の意味、またはこの文章以上の意味を持つ」というような深読みによる読解方法(パフォーマティブな読解)の二種類に分かれるが、どちらを用いてこの文の意味を考えるべきか。
冒頭の一文はTHE BEATLESの『Hello, Goodbye』(1968年)という曲の歌詞の一部であり、歌詞全体を俯瞰すると、この歌の主人公は恋人に振られたようだという状況を把握することができる。このとき、再度冒頭の一文を歌詞全体の文脈を踏まえて考えると、「あなたは(私に)さようならと言い、私は(それでもあなたにもう一度)こんにちはと言う」という意味を持っていることが分かる。ここでは文が歌詞全体に修飾されているため、その文以上の意味を有することとなり、その繋がりを理解するためにパフォーマティブな読解をする必要があると言えるだろう。
では、この一文の読解を曲全体の文脈のなかで、つまり音楽と歌詞との関係性のなかで捉えようと試みたとき、果たして音楽は「You say goodbye and I say hello.」の一文の意味合いを、僅かでも変化させるだろうか。

そもそも、歌詞を排した(または歌詞の存在しない)「音楽」そのものは何を伝えているのだろうか。
ある音楽を聴いて頂きたい。Autechreの『Perhelic Triangle』(2001年)である。

いかがであろうかと感想を尋ねてみても、特に何もといった感じか、または千差万別の「感想」が返ってくるのみで、この「感想」の集積からこの曲の特徴を掴み取ることは難しい。
アーティストが音楽によってなにかを「表現」しているならば、なぜこのようなバラツキが生じるのだろうか。そして私たちは本当に「音楽」を聴けているのだろうか。

自分の好きな曲を誰かに分かって欲しくて説明するも分かってもらえない。または、誰かに好きな曲をオススメされ、その良さを説明されるもそれが分からない。こういう体験は音楽にある程度の愛着がある人間ならば誰しも経験するであろう。
「自分が好きな曲の良さは説明すれば他者にも分かってもらえる」という素朴な希望を持っていたために、押し付けがましい音楽談義で友人たちとの確執を起こし、自分が「音楽」によって感じた「感覚」が他者との間で絶対的に共有不可能なモノであると気付いた私は、「音楽」そのものの「説明不可能性」及び「言語化不可能性」に絶望していた時期があった。それは単に同じ音楽を好きでいたとしても、それぞれが違う「音楽」を聴いているような感じがあり、どこまでも孤独な気分だった。

だが、後に同じ「音楽」を聴いていると思える人との出会いに恵まれることとなる。その人と私は同じアーティストの音楽が好きで、なおかつその音楽を聴いた「感想」が非常に似通っていたのだ。
ここでは、「音楽の言語化」、もしくは「音楽体験の近似」がある程度は可能ではないかという希望を見出すことができる。

ここで注目すべきは、私たちがその音楽の「感想」を述べるとき、その音楽の歌詞からの絶大な影響を受けた文章によって「感想」を述べていたことである。つまりそれは音楽作品を何らかの解釈によって別の言語へと置き換えるのではなく、ほとんどその音楽作品の「歌詞の言い換え」によってその音楽作品の「感想」を述べることに等しい。だとすると、ここでは「音楽の言語化」及び「音楽体験の近似」は行われていないことになりはしないだろうか。あたかも「音楽」を分かっているかのように「感想」を述べていても、「歌詞の言い換え」をしているに過ぎないという別の絶望が現れる。

いったい「音楽」を聴くとはどういう行為なのだろうか。どうすれば「音楽体験」を伝えることができるのであろうか。議論を深めるため、本稿では「音楽」そのものをひとつの「記号」として考えてみることとする。パースの記号論によれば、記号は単独で機能するものではなく、記号とその対象間の関係において記号解釈が成り立つと論じられているが、「音楽」を聴く場合も同じではないのか。
換言するならば、「音楽」という記号もまた別の「記号」に「修飾」されることによって、私たちの内に感性を立ち上げているのではないだろうか。
「耳慣れ」という言葉があるが、これは最初はよく良さが分からなかった音楽を聴き続けることで、だんだんとその良さが分かってくるというものだ。このとき、人はその音楽を聴いたときの「体験」を蓄積し、その「体験」によってまた音楽そのものを「修飾」しているのだ。どの音楽を聴くときでも、それを「音楽」として捉えるならば、それは聴いている音楽と何らかの「体験」(イメージ)と結びついているのである。「音楽」は他の芸術とは違い、単一では機能しない記号(イメージ)であり、それは音楽が歌詞の持つ言葉の意味自体を変化させにくい理由でもある。

ここで先述のAutechreの『Perhelic Triangle』に戻る。今度は夢野久作の『ドグラマグラ』(1935年)を読みながら聴いて頂きたい。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2093_28841.html

前回の鑑賞時とは印象が変わったのではないだろうか。おそらく、より具体的なイメージを抱くことができたはずだ。二つの記号がお互いに修飾しあった結果、また新しい「感覚」が生まれたのだ。これを本稿では〈複合イメージ〉と呼ぶ事にする。
〈複合イメージ〉が生じる例を他にもいくつか挙げておこう。LFO『Moistly』(2003年)とカフカ『城』(1926年)、Modeselektor『Hyper Hyper』(2007年)とランボーの『イリュミナシオン』(1874年)、Burial『Near dark』 (2007)とギブスンの『ニューロマンサー』(1984年)だ。いずれも、お互いが修飾しあった結果として、〈複合イメージ〉が生まれている。また、この方法を用いると、他者に自分の聴いている「音楽」の「感覚」を伝えることが非常に容易になる。

だが、私たちはこういう音楽の聴き方をしていて本当にいいのだろうか。言い換えれば、私たちはこの聴き方で本当に「音楽」を聴けているのかという問題が再度浮かび上がる。
ジョン・ケージの『4分33秒』という、一切の演奏が無いあまりにも斬新な音楽がある。この音楽は、演奏がないにも関わらず実際には聴こえてくる音(雑音)があることを聴衆に気付かせることによって、音(雑音)を「音楽」として捉える態度を聴衆に与えた。だが『4分33秒』を念頭に音(雑音)を聴くとき、それは『4分33秒』という「記号」に修飾された『4分33秒』っぽい「感覚」に浸っているに過ぎず、そこでは「音」を聴けていないのではないだろうか。

『4分33秒』という一見なんの音もない音楽作品に意義があるとみなす読解はパフォーマティブなもの(深読み)であり、その読解方法が一般的なものになっていく(深読み=パフォーマティブなものが、共有されることで自明のもの=コンスタティブなものになっていく)過程には、ある集団内における無思慮な同調があったであろうことが予想される。つまり、「みんながそう言ってるし、それっぽいからそうなのだろう」という判断のことである。
これは、B-boyと呼ばれる若者の集団の多くがヒップホップという音楽ジャンルを愛好しているといった例に顕著にみられる、V系/ジャニーズ/インディーズロック/クラブミュージック/メタル/ジャズ等の、様々な音楽ジャンルと支持層の密接な関係性……「似たような人たちが似たような音楽を聴いている現象」に共通の問題を抱えている。
ここで行われているのはボードリヤールの言う「記号消費」である。彼らは自分が聴いている音楽を「修飾」している記号……彼らの集団内で共有される価値観を象徴する記号(私たちっぽさ、それっぽさ)を「消費」しているに過ぎないのだ。『4分33秒』への深読みに対する無思慮な同調もまさに、こうした「記号消費」となんら変わらない。

音楽評論家の吉田秀和は、こうした周りの意見に流されやすい日本人に対して批判を行い、「そこに自分の考えはあるか」と遺言を残した。私たちはもっと素直に、コンスタティブ(ありのまま)に音楽を聴く必要があるのだろうか。「私たちは音楽を聴くことはできるのか」と問う前に(問うことをやめることで)、私たちは音楽を聴けているかもしれないし、ありのままの音楽を聴けるとしたら、その忘却によって得られる錯覚のみによってだろう。そう、それは錯覚でしかなく、ありのままの「音楽」を聴くことは不可能である。私たちが「音楽」を聴くとき、「記号」の修飾を免れることはできない。
ならば、むしろ自らが能動的に「記号」を用い「音楽」を修飾し直すことによって、新しい「音楽」を立ち上げていくべきであろう。二つの記号が相互に、かつ同時に「修飾」しあうとき、〈複合イメージ〉という新しい「感覚」が立ち上がるが、そこではもはや媒介となった「記号」は後景化しており、「記号消費」を免れることができるのである。そして、「音楽」そのものを聴くことは不可でも、〈複合イメージ〉そのものを聴くことは可能なのだ。

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