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暴力、ヴァーチャル、視覚 

映画におけるリアリティ、それはあたかももう一つの現実をつくりだし、そちらへ見るものを引き込んでしまうものではないだろうか。

映像は現実の視界をあるがままに映し出す(と、見るものは錯覚する)。だが同時に「これは映像であり、過去であり、現実の視界とは異なる」という意識を、映像を見るものは常に抱く。この意識をわずか一瞬でも忘却させ、映像という虚構へ引きずり込む力こそが、映像と映画を分け隔てる映画の特徴ではないだろうか。

 

広義の映画が、見るものを映像へと引き込むことのできる映像であるならば、狭義の映画とは、映画館で上映される映像作品のことだろう。見るものを映画へと引き込むことを実現するための装置が映画館という場だとすると、映画は映像のなかの、「映画館で上映される作品」という狭義的な分類に収まることとなり、「映画館で上映されない作品」は決して映画的ではありえないということになる。しかし、多種多様な映像とその再生メディアがいたるところで氾濫し、そのひとつひとつを差異づける垣根が失われつつあり、いつでもどこでも好きな映画を見ることのできる昨今では、映画館で見る映画こそが映画だとは言い難くなってきている。また、映画館で上映されることのない本格的な映画もありうるだろうし、映画館で上映されるにも関わらず映画的ではない映画もまたありうるのではないだろうか。そのため、見るものを映画へと引き込む機能は、必ずしも映画館だけが固有に持っているものではなく、言い換えるならその再生環境には完全には左右されず、その映画自体に内在し、同時に見るものの視線の在り方に内在するものがそれを担っているのではないだろうか。

映画がなぜ見るものを引き込めるのかについては、次の映像とはなにかという議論を踏まえたうえで後述する。

 

映像はあるがままの現実の視界を映し出す。私たちは現実をまず視覚で捉えようとし、ビデオカメラが撮影する映像は、私たちが普段現実として認識しているそれとそっくりであり、そこに映像本来のリアリティがある。だが、映像が映画という映像作品になるとき、見るものをそのもう一つの現実へと引き込む力を得る代わりに、損なわれてしまうリアリティもあるのではないだろうか。言い換えるならば、映像が現実の視界とは異なるもの、虚構が虚構であることを裏付ける嘘が写りこんでしまうのではないだろうか。

 

映像作品における映像本来のリアリティを成立させるには、視点・切り替え・音・傷の四つに注視する必要がある。なぜならこの四つは映像のそれと現実との間に差異を生むからだ。不自然な視点、場面やアングルの切り替え、その場で鳴っていないBGMは、すべて違和感を生むこととなり映像のリアリティを損ないやすい。では、傷はどうだろうか。

大塚英志は「映画というジャンルは壊れない人間を描くジャンルだった」と大江健三郎の取り替え子を引用して語っているが、それは表現の問題だけではない。映画の中で登場人物が傷を負うとき、それは現実の傷ではなく、特殊撮影やCGなどによる架空の傷であることを念頭に置く必要がある。つまり、映画の中の傷はすべてリアルではなく、リアリティを著しく貶めてしまうものなのだ。映画を見るものはそのつくりものの傷を目撃するたびに、現実と虚構の狭間に宙吊りにされることとなる。

 

ここでスタンリーキューブリックの「時計じかけのオレンジ」を引用する。具体的なストーリーはここでは取り上げず、作中での三つの暴力シーンを比較する。一つ目は四分四十五秒の地点のビリー一派との乱闘シーン、二つ目はその後九分四十五秒の地点における作家宅への押し入り強姦シーン、三つ目は物語後半一時間四十分地点の旧友からリンチを受けるシーンだ。

一つ目と二つ目を比較したとき、明らかに後者の方がよりリアリティがあり、前者はいくらかそれを損なっているように見受けられる。一つ目のシーンは、シーンにそぐわない軽やかなクラシックBGM、強姦されている女性を救い出しているかのようにみえる勧善懲悪的な物語観のミスリード、いささか不自然なアクションじみた乱闘シーン、これら三つの要素がこのシーンにおけるリアリティを損なっているのである。一方、二つ目のシーンにおいては、BGMもなく(主人公は歌っているが、映像のなかで鳴っている音はリアリティを損なわない)、民家に押し入ってひたすら暴力をふるうだけの場面のため物語性も特になく、その暴力にもなんらアクションじみたところは見受けられないのである。つまり、前者と後者を分かつのは表現の問題である。

他方で、二つ目のシーンと三つ目のシーンを比べてみると後者の方によりリアリティがある。三つ目のシーンは、警官二人に体を押さえつけられ長時間水に沈められるというものである。ここで注視すべきは、このとき水中で酸素を吸引できるはずであったが、その装置が壊れており、俳優は本当に溺れ死にかけていたという点である。この一点でこのシーンは、映画におけるあらゆる暴力とは一線を画するリアリティを獲得しているのではないだろうか。なぜなら、そこに映っているのは実際の暴力だからである。

三つ目のシーンと比較してみると、二つ目のシーンにおける暴力がいかに演劇的で、実際に暴力が行われていない(その攻撃は当たっていない)ことが分かる。そして、この作品において無数の暴力シーンが描かれるが、それらはすべて演技臭く(実際に殴っているようには見えない)、そのなかで血が流れる表現が用いられるのはごくわずかだという事実と併せて考えると、この作品は傷や暴力を描くことに失敗しているように思われる。だが、それが架空のものであると分かっているはずなのに、この映画の暴力に私たちは強烈なリアリティを感じはしないだろうか。ならばこれら架空の傷や暴力はいかに機能しているのだろうか?

 

ここでひとつの仮説がたてられる。つまり、本来映像のリアリティを損なわせているはずの架空の傷や暴力が、逆にリアリティを獲得し、見るものを映画へと引き込む力へと変わっているのではないだろうか。言い換えるならば、架空の傷や暴力は映像的にリアリティを損なわせているが、象徴的に機能することで別のリアリティを獲得している。そのリアリティこそが映画におけるリアリティではないだろうか。

この作品において、殴る蹴る以外にも、言葉や場の抑圧による非物質的な暴力が数多く見受けられる。一時間五十八分の地点における監禁された主人公が飛び降り自殺をするシーンは、まさにそのような象徴的な暴力の極地点ではないだろうか。暴力のリアリティを成立させるには、実際に殴る必要はなく、同時に映画というものは原則的に本物の暴力を撮影することはできないのである。

そして、その架空の象徴的な暴力がいかにリアリティを獲得しているのか。ここでこの映画の近未来のイメージに溢れた世界観(デザイン)に立ち返る必要がある。奇妙な建築デザイン、奇妙なファッション、奇妙な言葉、理解不能な主人公たち、場にそぐわないBGM、演技臭い暴力。この映画に映るものは、すべてリアリティを決定的に欠いているのである。そして、そのなかで架空の暴力だけが象徴的に機能し、おもにその描き方のみによって強烈なリアリティを獲得しているのである。冒頭三分の地点におけるホームレスを集団リンチするシーンを思い浮かべると理解しやすい。まだなんら物語が始まっておらず、青い光に包まれた非現実的な映像で、奇妙なファッションをした若者たちが、攻撃対象となるホームレスと奇妙なやり取りをした後に、演技臭い暴力をふるうだけのシーンであり、ここでは一切のリアルらしきものは見受けられないにも関わらず、その暴力の象徴的機能によって強烈なリアリティを放っているのである。これぞまさに暴力の象徴的機能が映画にもたらすリアリティを証明するシーンではなかろうか。象徴的であること、意味を持つことがリアリティなのだ。

 

ところで、最近の映画にはひどくリアリティが欠けているように見え、映画的でないように思われる。これは傷や暴力を象徴的に描くことに失敗しているからなのか。それともこれは時代がリアリティではなく、暴力のヴァーチャリティ化を要請しているからなのであろうか。

渡邉大輔は映画「モテキ」におけるカラオケ映像風のシーンを参照し、これをカラオケ映像の映画的なものへの昇華だと述べている。だが、「モテキ」に映画的なリアリティは果たしてあるのだろうか?むしろ「モテキ」は映画のカラオケ映像化を示しているのではないだろうか。

あらゆる映像とその再生メディアが氾濫する昨今においては、映画が映画として見られ続けることは非常に困難となってきたのではないだろうか。そこでは、映画もあらゆる映像コンテンツと並列化され、映画を映画として見られる視線がなくなりつつあるのかもしれない。そんな映像環境のなかでは、リアリティへの志向が弱まり、ヴァーチャルをヴァーチャルとして楽しもうとする態度も必然で、これも時代に即したひとつのリアリティなのかもしれない。

 

押井守のAVALONでは、ゲームという仮想現実のなかで、本物の現実にそっくりなフィールドへと辿り着く。そこでは、まさに現実の街並みとしか言い表せない映像だけが映し出され、我々はその景色を「見えてはいるが(ゲームのなかの)偽物なのだ」という視点で見させられることとなる。現実にそっくりな映像を否定されるため、その視点は映画の外部へも及ぶ。

 

結局、作品の持つリアリティと、見るものの要請するリアリティの接続点においてのみリアリティが成立するのであれば、それはただの価値観であり、ヴァーチャルなものであろう。

「世界とは思い込みに過ぎない」これぞ究極の視覚のリアリティではなかろうか。

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