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あたまのなかの「1984年(昭和時代)」

僕たちはゆとりだ。それでいてメンタルヘルスだ。頭のなかを操作されている……ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃに。

僕には社会がどうなっているかよく分からないし、同時に何をやってもダメなんだとなんとなく思っている。どこの政党に投票しても、どういうデモをしても、何も変わらないだろう。根本的な支配を感じている。その支配の根源について考えると、敗戦のイメージに思い当たる。僕は昭和から断絶されながらも、今この社会に昭和の呪縛を感じ取っている。

だが、その呪縛を言語化することはとても難しく、本稿においては〈ゆとりの空気〉と暫定的に形容するが、本質的にはそれは形容不可能な概念である。なぜならそれは、僕たちの頭の中に入り込んでいる〈空気〉であり、形容した瞬間にまた別の〈空気〉を生成してしまう類のモノだからである。

だから僕はこの社会を論ずるにあたって、主観を抜きには語れない。故に一人称は「僕」である。

このよく分からない奇妙で薄気味悪い管理社会に、無知故になのか懐疑論から抜け出せなくなった僕は、ジョージ・オーウェルの「1984年」を重ねて視ている。

 

「1984年」は、極度の全体主義が浸透したどうしようもない監視社会で、どこにでも……まさに家のなかにでも監視カメラがあって、一切の思想とプライベートの保有が許されず、極度の貧困のなかで終わらない戦争を生きなければいけないディストピアを描いた小説だ。僕の思い描く昭和のイメージ……そして依然として昭和を引きずり続ける平成のイメージは「1984年」の貧困と全体主義のイメージに近い。

 

昭和とは貧困と全体主義の時代だ。第二次対戦においてその二つは極大化して日本国民を襲った。戦争という最たる〈大きな物語〉に飲まれ、そして敗戦という決定的な外傷を与えられた。その外傷は、日本を内外から切り裂き、僕たちの世界をめちゃくちゃに訳の分からないものにしてしまった。敗戦によって日本は切り裂かれ、その外傷を抱えたまま、そうして戦後復興という〈大きな物語〉が誕生した。

 

そして昭和から平成にかけて、経済は飛躍的に成長した。少なくとも、貧困からは抜け出すことができ、そこで戦後復興という〈大きな物語〉は徐々に霧散した。人々は十分に豊かになったが、そこで「なぜ生きるのだろう?」というような素朴な問題に衝突し始めたのが昭和から平成への過渡期である。人々は本当に豊かになったのか?人々は多様性のなかを歩み始めたが、意味のない生に耐え切れず、再び〈大きな物語〉を希求するようになった。それは普遍的な価値観というものへの欲望として現れ、敗戦の外傷と結びつき、平成を象徴する、ゆとり、やさしさ、メンタルヘルスな〈空気〉へと反動的に変化していったのだ。

 

平成とは、ゆとりで、やさしくて、メンタルヘルスな時代だ。

世代を追うごとにゆとりの度合いが増していく、それは個々の人生経験とはなんら関わりない次元においてであり、言い換えるならゆとり的な〈影〉が世代を追うごとに濃くなっていくということだ。日本国民が世代を追うごとにゆとり化していくという現象に、僕たちは徐々に飼いならされているのではないか、頭の中を〈空気〉に操られているのではないかと疑わざるをえないのだ。

僕たちのやさしさも、ひどく防衛的で、お互いにモラルを押し付け合って締め付け合い、マイノリティを排除し続けている。自殺者を助けるのはそれが気に入らないから、助けたあとなんて知らんぷり。平等にたのしめ!平等にたのしむな!

本質的にみんながみんなナイーブでメンタルヘルスなのが平成だ。〈空気〉はひどく複雑でありながらも画一的で、それを否定されることは勿論、その矛盾を暴かれることに人々はひどくナイーブに怯えている。本当は〈ゆとりの空気〉の欺瞞に気づいている人もいるのだろうが、そういう人ほど病んでいく。気づかないフリをしながら病んでいく。

そして、僕は戦争が本当に怖い。そのことが未だに敗戦の外傷を引きずっていることの証明のように思えるのだ。僕はいつかどこかで、敗戦のイメージを埋め込まれたようだ。

昭和時代のイメージから「1984年」を連想した僕は、平成時代にも全く同じものを見出しつつも、同時に伊藤計劃の「ハーモニー」の姿も重ねて視ている。

 

「ハーモニー」とは、世界的な大量虐殺事件を経て、生命主義を掲げた福祉社会が形成され、あらゆる病気が駆逐され、見せかけだけの優しさや倫理が溢れた時代で自殺を選んだ少女たちを描いた小説である。本作では、社会において心とは不必要なものであり、また人間の肉体にとっても心は不必要であることが述べられ、主人公は自身の人間性を守るためにある選択をし、人間の社会を終わらせてしまうのである。

これは二次大戦を経て反動的に、ゆとりで、やさしくて、メンタルヘルスな平成を築いた日本と重なる。この小説は平成のなかで生まれ、平成を根本から否定し、平成の世で多く売れたのだが、その是非はともかく、「伊藤計劃以降」という言葉が日本SF界において頻繁に用いられるようになるほど、現実において社会現象となったのだ。

 

「1984年」と「ハーモニー」。この二つのイメージの接続点こそが平成時代を象徴しているのではないかと思う。それは正当化された自発的な主権の放棄だ。流されるままのことなかれ主義。ひどく道徳的に振舞う〈ゆとりの空気〉という全体主義は、私たちの頭の中に存在しているのだ。

 

今回のこの課題における問いとは、「昭和の延長線上にはない、戦後レジームの転換点となるような事象を批評しろ」であると僕は解釈した。僕はそれは「ハーモニー」にあると考えた。具体的には、転換点ではなく、敗戦の外傷から反動的に形成された〈ゆとりの空気〉が、個人主義の拡散によって終わりを迎えるという兆候を見たのだ。

 

戦後レジームという支配構造は、社会の構造と人々の意識の二つのレヴェルに区分できる。

人々の意識において、戦後復興という〈大きな物語〉が霧散し、敗戦の外傷によって反動的に形成された〈ゆとりの空気〉が漂う現代で、その〈空気〉に抗うことは多くの意義を持つ。端的に言って、〈空気〉に触れていると認識が正常に機能しなくなり、知らず知らずのうちに誘導されてしまうのだ。

そして、現実の社会の構造を変えるには、まず誤った認識を排除すべきだろう。そしてよく学びよりよい認識を得たうえで、それぞれが流されずに議論したうえで正しい政治を模索すべきだ。そのためにもまず〈空気〉に操作されることを拒絶する必要がある。これは理想論かもしれないが、これがダメなら他に手はないのだ。

〈ゆとりの意識〉は、僕たち日本人の意識に深く深く浸透していて、決して完全に区分することはできないだろう。だが、現実的な敗戦処理は、いずれ終わりを迎えるかもしれず、そのことは希望を持つべきである。

 

「ハーモニー」には、文学史的に見てどういう新しさがなくて、いかに現実社会や読者に対して無力であるか、それらは全く問題ではない。肝心なのは、「ハーモニー」が〈ゆとりの空気〉を否定したことと、人はどういう生き方をせねばならないかというような〈大きな物語〉へ問題を還元しなかったこと、それが多くの人に本当の意味で届かないまでも一読はされたということに他ならない。当たり障りのないエンターテイメント小説ばかりが共有される時代で、〈やさしさ〉≒〈ゆとりの空気〉という時代の〈空気〉を真っ向から否定したのが「ハーモニー」であり、そういうどこまでも私的な物語が拡散し、諸々の流れに抗いそこに存在し続けていることは、稀有な現象のひとつなのだと思う。

それがどう読まれたにせよ、「ハーモニー」のような、〈空気〉を否定する私的な発言が多く生まれれば、少しずつ〈ゆとりの空気〉の勢力も弱まるのではないか。そういう意味で、「ハーモニー」は昭和の終わりが来るのではないかという兆候を感じさせる事象なのだ。

結局のところ、一人一人の確固たる個人主義が新しい平成の時代を切り開くのである。「ハーモニー」とはそのひとつに過ぎない。そして、個人個人のレヴェルにおいても、〈空気〉に抗わないならば、ただ流れに身を任せるしかないのである。

個人主義もまた〈大きな物語〉となってしまうのか、〈大きな物語〉への回収に抗い続けるものとなるのかは議論を改めたいが、後者とならんことを祈るばかりだ。

 

 

僕たちはきっとなにかに操られている。それを簡単に抽出して言語化して、知ったかぶりで昭和の終わりを語ることは、きっと昭和の名残の大きな大きな〈空気〉の物語に参加する行為なのだと直感します。僕はまず、分からないなら分からないと言おうと思う。

終わって欲しいから昭和が終わったと言うのではなく、敗戦の名残である〈ゆとりの空気〉を排除するには、まず自分の頭のなかから〈空気〉を排除するよう試みることだと思います。〈空気〉に誘導されてきた過去を繰り返さないために。そうして意識が変わり、知識がつき、いつか本当に社会が変わるような改革が起こるのではないか。それはもうすぐそこに迫ってきているのだ。これはひとつの戦争だったのだと思う。そしてもうじき僕らのこの戦争は終わり、そして全く新しい戦争が始まるような気がするが、僕にはそれが何か分からない。

文字数:3775

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