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たったひとつの冴えた生き方 -スキゾ/パラノ再考-

 

1.昭和と平成、反転する世代間抗争

昭和と平成はまるで別世界だ。昭和世代は昭和の延長線上としての平成=昭和90年代を生き、一方で平成世代は昭和という過去…匂いから断絶されて生きている(昭和は平成マイナス何年という形でしか遡行できない)。「現代日本」はその二つの世界に属する二つの世代が互い違いにすれ違いながら共立しているのだ。昭和世代は平成世代の断絶を理解できないし、平成世代は自分たちが昭和の延長線上に位置していることが理解できない。
「昭和90年代」という「現代日本」の見方は昭和世代のものである。その視線は、平成の世に対して問題意識を強く持ちながら、その諸問題の起源を昭和に見出す態度に基づいている。平成世代に対してゆとり世代というレッテルを貼ることで否定し、一方で「でも平成世代の育て方を間違えたのは我々昭和世代である」と思い、だから「私たちが平成世代に大切なことを伝えなければならない」と昭和世代が言うとき、平成世代に対する二重の存在否定が露出する。従来の若者と大人の世代間の対立が、若者から大人への反抗という形でメディア上に表出したのに対し、ここでは逆に大人から若者への冷笑という形でメディア上に表出している…まるで仮想敵としてのゆとり世代である。私たちが何かしたのでしょうか。学生闘争やら暴走族やらチーマーやら、昔の若者も大概頭の中がゆとりだと思いませんか。 平成世代が相対的に傾向としてゆとり的である、というのは分かる。だからこそ昭和世代からのゆとり世代というレッテル攻撃には、ヤンキー的なノリを感じもしてしまうのだ。あたかもヤンキーがオタクをからかうときのようだ。
ここでまず考えなければならないのは、ゆとり世代は本当にゆとりなのだろうか、ということだ。ゆとりとは、「物事に余裕のあること。窮屈でないこと」という意味であるが(『岩波国語辞典 第7版 新版』より)、本当に平成世代は心に余裕があって閉塞感など感じていないのだろうか。そんなことはないだろう。むしろ平成世代の方が心にゆとりがなさそうだ。一言で言えばメンヘラ的なのかもしれない。だが、そういう平成世代の辛さも、平成世代自信の弱さと見られ、冷笑される。でも溜まり水が濁るように、平成には平成独特の…ゆとり故の閉塞感があるのだし、その閉塞感のなかで生きている平成世代は必ずしもゆとりとは言えないのではないだろうか。
むしろ、私は昭和世代/時代こそゆとりだったのではないだろうかと問いかけたい。平成世代は昭和世代が克服できなかった問題と真摯に向き合っていて、だからこそ苦しんでいるとしたら…?その一方で、昭和世代からの視線も真摯に受け止める必要があるだろう。はっきり言って平成世代はなよなよとしたおかしな人間が多すぎる。若者に流行りのミュージシャンを見れば、「RADWIMPS」「SEKAI NO OWARI」「ゲスの極み乙女」などなどの、なよなよとした若者像が浮き彫りになるだろう。こうしたなよなよした若者像はオタクと他称される人たちにおいて最も際立って浮き彫りになるが、オタクの登場自体が1980年代であったことと、世代を追うごとにオタクが増えていきいつの間にかポピュラーな存在になっていたことを併せて考えると、昭和から現在の平成に至るまで時間を経るごとに徐々に、私たちはなよなよさを増しているのかもしれません。(無論、平成世代の抱える問題点はそういう連続性のなかだけにあるわけではありません)。

本稿は平成世代の若者がいかに苦しい時代を生きているかを述べるもの、ではありません。むしろその生きづらさを戦っている証だと捉え返し、昭和世代の大人たちの視線を受け止めつつも、それを批判的に乗り越えていくことを目論んで書かれたのが本稿です。一方で、それは既に始まっているが、他方でそれは半ば諦めかけられ、挫折しかかっているのが現状です。私たちは一人一人社会からの逃走を初めているけれども、同時に、結局自分自身からは逃げられないという難問に突き当たっているのです。本稿はこの難問の乗り越えを試みます。
今や逃走することすら困難な、むしろ逃走すればするほど逆説的に逃走が困難になっていく時代で、死にたいと思いながらなんとか生きている人がいること、本当に死んでしまう人がいること、そのなかで、私が死なないために、あなたが死なないために、そして私やあなたの友達を死なせないために、この生きづらい現代について考え、その苦しみを言語化する必要があります。そして、それを言語化するのがとても難しい時代でもあります。なぜなら、一方では社会によって、そして他方ではそれぞれが自分自身によって苦しめられる時代だからです。

 

2.不幸/不可能性の時代

まず、大澤真幸の『不可能性の時代』(2008年)における議論を用いて本論に補助線を引きたい。大澤は同著で、戦後は「理想の時代(1945年~1975年)」、「虚構の時代(1975年~1995年)」、「不可能性の時代(1995年~)」の三つに内部区分できると述べる。意味の秩序としての現実は、常に、その中心に現実ならざるものを、つまり反現実をもっている。すなわち、現実の中のさまざまな「意味」は、その反現実との関係で与えられ、「現実」という語は「(現実と)理想」「(現実と)夢」「(現実と)虚構」という三つの反対語をもつ。戦後という一つの時代を、現実を意味づけている中心的な反現実のモードを基準にして眺めたとき、それは「理想→夢→虚構」と遷移してきており、それがそのまま戦後の時代区分と重なる。(ただし夢の時代は、両側の「理想の時代」と「虚構の時代」の転換点として解消可能であるため、ここでは単純化するために省略されている)。大澤は現代(1995年の地下鉄サリン事件以降の日本=平成)はこれら反現実の程度が高まり、極端な虚構化(危険性や暴力性を除去し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦)と現実への逃避(激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望)という二つのベクトルのなかで「虚構の時代」が引き裂かれることで、「不可能性の時代」へと突入したと述べている。

「不可能性の時代」とは、第三者の審級(規範の妥当性を保証する、神的、あるいは父的な超越的他者)が、二重の意味で空虚化し、真に撤退した社会である。たとえば、リスクをめぐる科学的な討議が通説へと収束せず、人類が真理へと漸近しているという実感を持つことが困難になっており、あるいは、正義をめぐる判断が中庸へと収束していくことのないような、もはや第三者の審級の意志が分からないだけでなく、そもそも、第三者の審級が存在していないかもしれない、との懐疑を払拭することができない時代だと大澤は言う。つまり現実が虚構化していくというのは、同時に現実を担保する第三者の審級の虚構性そのものが暴かれているのだ。
昭和世代と平成世代を決定的に差異づけている条件は、「虚構の時代」と「不可能性の時代」のこの差異と重なるだろう。だから、「不可能性の時代」の、平成世代の最たる特徴とは過激な現実への逃避であり、それは裏返しの現実の徹底的な/決定的な虚構化と、第三者の審級の二重の空虚化を意味しているのだ。「不可能性の時代」において、第三者の審級は見えづらい(しかし、それはある)。昭和世代は虚構化した現実に匂い=リアリティを感じることができるが、われわれ平成世代は匂い=リアリティを感じることはできない。平成世代の若者は、バーチャルな現実に耐えられないから、しばしば暴力や自傷などの極端な現実へ逃避したり、極限に直接的なコミュニケーションを求める。
かつて「理想の時代」において第三者の審級とはアメリカの視線であり、理想とはアメリカの理想であったと大澤が述べたことを思い出そう。現実/世界は諸々の意味連関の総体であり、意味とは一種の虚構である。ならば、平成世代はこの極限に剥き出しの暴力的な現実の虚構性と向き合うことを強いられているのだろう。昭和世代は虚構化した現実にまだリアリティを感じることができるし、アメリカに憧れたり劣等感を持つことができる。
極限の現実の虚構性と向き合わざるをえないこと。この一点で私たち平成世代の少なくない人々が苦しみ、過剰に意味を求め、激しい現実へと回帰しようとする。われわれは不幸になりつつあるのかもしれない。だがそれは進歩ではなかろうか。ここですこし、不幸について考えることとする。

幸福の否定形である不幸を措定するためには、まず幸福を措定しなければならないだろう。中島義道は『不幸論』(2015年)で「幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している。」と言っている。どういうことか。
同著で中島は幸福は基本的に次の四本の柱の上に立っていると述べる。①自分の特定の欲望がかなえられていること、②その欲望が自分の一般的信念にかなっていること、③その欲望が世間から承認されていること、④その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと(傷つけない、苦しめない)こと。この四つである。中島はこれらに次のような注釈を加える。①は、幸福の最も基本的な条件であり、一見単純明快であるように思えるが、幸福感の多くは知らないことに支えられており、配偶者の浮気という真実を知ったとき幸福だった過去は遡及的に不幸に変わるだろうと言う。②に対してはドラッグなどの瞬間的な快楽を味わっても多くの人は幸福とは言えず、「これでよかったのだろうか」という自問自答が襲って来るため、当人の基本的な信念にそっている必要があるだろうと言う。③に対しては自爆テロや狂信者の満足や、ある程度以上の病的な振る舞いなどの他者の承認を必要としない自己完結的な態度には幸福という概念の地平の外れたところにあるだろうと言う。(筆者注:それは幸福とは言えないだろう)。④に対しては、人はなんらかの形で常に誰かを傷つけているため、すべての人を傷つけないのは不可だろうと言う。このように、幸福を感じることそのものも非常に難しく、さらに人間は常になんらかの形で苦痛を抱えているうえに、どうしようもない不平等に襲われており、究極的にはいつか死んでしまうこと、「少し前に勝手に生まれさせられて、まもなく死んでいく」という絶対的不幸に目を向ければ、幸福を感じることは非常に難しい。むしろ、幸福を感じれば感じるほど死ぬことが怖くなるのだと言う。以上の理由から、幸福は死の存在や世界の不条理から目を背けたところ、すなわち思考停止によって成立し、「幸福の条件はたいそうきつく、われわれは幸福には容易に到達することはできないのだから、幸福でありたい症候群の人々が、暴力的かつ短絡的に「おれ(私)は幸福だ」と思い込むことは、数々の害悪を垂れ流す」と述べている。社会的に幸福ゲームを強要し、それに乗らない人を排斥し、真実を見ようとする眼を曇らせ、思考力を弱らせ、感受性を鈍らせる。幸福ゲームにおいては「幸福であるフリをする義務」と「他人を幸福にする義務」が生じ、画一的な幸福観を押し付けられるうえに、幸福であると思い込んでいる人々は自分の感受性を疑わず、まさにそのことによって誰かを傷つけているのではないかということに永遠に思い至らない。

そして、前述の大澤の議論と併せて考えれば、極限の現実の虚構性を生きる平成世代は、同時に幸福の虚構性に対して醒めているのだと言えるだろう。これが昭和から平成への転換点の一つであり、平成世代の生きづらさの理由の一つなのだ。しかし、中島が言うように幸福とは本質的に虚構であり、思考停止の産物であるならば、一人一人がこの現実の虚構性と向き合い、それぞれの逃走=不幸を生きることこそが望ましいであろう。もはや、私たちは素朴な現実感や幸福に浸れた時代には戻れない、一人一人が「不幸の時代」を生きるのである。中島の言う幸福でありたい/思われたい症候群の人々も、「不幸の時代」を生きていることの裏返しの逃走を演じているのに他ならない。

 

3.過剰倫理/二重思考の時代

第三者の審級は二重に空虚化し、見えづらくなった。それと同時にやってくるのが「リスク社会」だと大澤は述べる。「リスク社会」とは、環境問題やテロのような社会的レベルから家庭崩壊や失業のような個人的レベルまでの、さまざまなリスクの可能性に取り憑かれた社会のことである。リスクとは何事かを選択したときに、それに伴って生じると認知された不確実な損害のことであり、それゆえ、人がいつか必ず死んでしまうことはリスクではない(以前であれば地震などの天災もリスクに含まれただろうが、現代では天災さえもある程度の予測可能性を持ち、耐震設計などの対策を講じられるため、天災もリスク化してきている)。つまり、人間の選択可能性が増大するにつれ、様々なものがリスクの対象として増えてきたのだ。
そのため、第一に、つまり近代社会が、自然を固定的なものと見なさずに、自然を制御することを選んだこと、そして、第二に依拠すべき伝統が崩御したこと、この二つが「リスク社会」の成立条件であり、第三者の審級の本質が空虚化した近代一般ではなく、それが二重に空虚化した「不可能性の時代」においてそれは成立したのだ。
「リスク社会」では、石油などの化石燃料の枯渇というリスク対し、原子力発電を導入した場合にはそれが新たなリスクの源泉となるように、リスクの除去や低減を目指した決定や選択そのものがリスクの原因になるため、リスクそのものが自己準拠的にもたらされる。なおかつ、地球温暖化というリスクを巡るとき、温暖化が杞憂であれば石油を使い続けても問題どころか何のために石油の使用を我慢しなければならなのかが分からないし、本当に温暖化してしまうのであれば中途半端な使用制限ではまったく意味がない。「リスク社会」において中庸の選択は無意味である。だから、「リスク社会」では、リスクをめぐる科学的な討議が通説へと収束せず、あるいは、正義をめぐる判断が中庸へと収束していくことがないため――規範を担保する第三者の審級が二重に空虚化したため――人は真に自由に生きていくことを奨励されながらも、それは自己選択・自己責任が強要されているに他ならない。大澤は、これは自由の規範化であり、こっそりと裏口から回帰した第三者の審級による命令に他ならないと言う。
では、それはどういう規範を伴っているのだろうか。通説や中庸が成立しない「リスク社会」において、人は自由であることを強要される。そして、その自由を巡る討議さえ通説や中庸が成立しないため、人は極端に自由であることを強要されるのだ。自由だけではない。平等や、幸福や、平和や、夢、希望、笑顔、繋がりなどなど、パッケージ化されてネガティブな側面を削ぎ落としたポジティブな響きを持つ無難な言葉たちとそれに付随する愛や倫理を、過剰に強要されるのがこの現代社会である。エイズや性病や妊娠の心配や危険性がまったくないセックス、ただセックスの快楽の部分だけを純粋に抽出したセックス――それがセーフティ・セックスの目指すものであるが――のように、セックスの危険な側面を完全に除去すれば、同時にその極限的な快楽や興奮も失うだろうが、そうした危険抜きの○○は現代では至る所に溢れている。たとえば、カフェイン抜きのコーヒー、アルコール抜きのビール、他者性のない二次元の恋愛。その極め付きは麻薬抜きの麻薬としての大麻であり、「大麻はノンアルコールのビールのようなもので危険ではない」と大麻解禁論者は言う。こうした危険抜きの○○は、それを現実たらしめていたものをも抜き去られている。多様な信仰への寛容は信仰抜きの信仰であり、また多文化主義はカフェイン抜きのコーヒーの思想版のようなものである。このような危険抜きの○○が溢れかえる現代では、人ですら危険を抜き取られた虚構…他者性抜きの他者となってしまっていると大澤は述べる。人は公的な場において危険性を抜きとられ、他者性抜きの他者…自分抜きの自分として自由を強要される。まさに「過剰倫理の時代」である。ここでは、「死にたい」や「しんどい」などのある種の敗北宣言をすること以外には何も言えない。同時に、それらの氾濫する「過剰倫理」が、正しすぎるが故に間違ってしまっているということを、知りつつも賛成することを強要される現代は、まさに「二重思考の時代」――相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉することを強要される時代――とも言えるだろう。自由と平和が両立するのは、平和維持装置としての警察的暴力…監視と追跡に目をつむる限りである。

「水清くして魚住まず」と言う通り、「過剰倫理の時代」では危険性そのものである人は生きていけない。そして私的な場に追いやられ、他者性抜きの他者としての私、つまり自分抜きの自分としての身体を引きずりながら、少しでも落ち着ける場所や、心を守り抜いた人たち、ひいては抜き取られて失われた自分自身を孤独に探さなければならないのだ。

 

4.私的な理想の時代

では、今、果たしてそのような社会からの逃走は可能なのか。私の見立てでは、現代において…とりわけ平成世代においてはそれは不可能なものである。なぜならば、社会から逃走することができても、自分自身からは逃走することができないからだ。むしろ、自分を押さえつけていた社会から離れれば離れるほど、自分自身が肥大してしまうのだ。SNSを見れば社会からの逃走に失敗した者たちで溢れかえっているだろう…彼らはネットに溺れることで肥大した自己を発散し尽くそうとしているのだ。これは平成世代が抱える特有の問題が関係しており、またそれは、昭和世代と平成世代を分かつ最大の分岐点でもある。どういういことか。

平成10年代には大学進学率が約50%となり、平成20年頃には大学全入時代(=誰でも大学に入れる時代)が到来したが、職業選択の自由がいよいよ現実化していくだろうという予感が平成の初期にはあったのだろう、多くの親たちやゆとり教育やJPOPは子供たちに夢を見ることを教えたのだ。「人はみな平等であり、君はやりたいことにチャレンジすることができる」と言われて育ったのが平成世代、つまり、ゆとり世代である。これはゆとり教育やJPOPが繰り返し発信しているメッセージ=刷り込みであり、それは裏返って「何になるか、何になりたいかこそが重要である」という価値観や「夢を持とう」という命令となり、前述の通り、その命令は「リスク社会」における第三者の審級が発しているのである。平成世代は、「リスク社会」が強要する自由によって育てられ、まさにその刷り込まれた自由という観念によって束縛された存在であり、その行動原理に深く影を射しているのだ。平成世代の多くは「やりたいことがなにか分からないけれど、まさにその何かをやらなければいけない」という強迫観念を抱えている。手段であるはずの自由が目的化してしまうのだ。
個人が物理的に非常に多くの選択を得たのが現代の「リスク社会」である。そこでは個人の選択次第で、実に多くの可能性を実現できる可能性があり、また反対に実に多くの不幸=リスクを避けられる可能性もある。そして「リスク社会」同様に、あるリスク=人生を回避しようとすれば、別のリスク=人生を選択しなければならない。ここではリスクが自己準拠的に…ありえるかもしれない仮定法未来の人生が自己準拠的に増えていく。
人生を特別に不幸と捉えなくても、「なんにでもなれるかもしれない」という可能性は「なにかになれたかもしれない自分」と「そのなにかにはなれなかった今の自分」の分裂した自己像を生み、「なにかにはなれない」という諦めは「なににもなることのない/どうすることもできない自分」というある意味では強固な自己像を生む。昭和世代が「私は私だ」と自信を持って言えるのに対し、平成世代は「私は私だ」とどこかはっきり言う事ができない。「私は今の私じゃない何かになれたかもしれないし、そうなれなかった原因は私の努力・才能不足である。でもそれに本当になりたいのかは分からない。けれどそれにならなければならない気がする」のだ。

東浩紀は『クォンタム・ファミリーズ』(2009年)において「35歳問題」というものを提唱している。「ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直説法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がその分増えていく。そして、その両者のバランスは、おそらく35歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。」これが「35歳問題」であり、主人公(きっとこの主人公は作者自身のことであろう)は残りの人生をタフに生きるよりもむしろすべてをリセットしたい衝動に駆られているという。
一見、ありえるかもしれない過程法未来に脅かされる若者と、ありえたかもしれない仮定法過去に悩まされる中年は、同じ問題を抱えているように見え、それが35歳を区切りに切り替わっているだけに過ぎないように思えるだろう。だがここにみえている僅かな相違点こそが、昭和世代と平成世代を明確に分かつのだ。

まず基本条件として、平成世代が直面しているありえるかもしれない仮定法未来の数は、昭和世代が直面してきたそれよりも多い。大学全入時代、雇用の流動化、旅行コストの低下、大量のコンテンツ、多種多様な趣味の場…そしてインターネットの普及。私たちはその気になれば、なんにでもなれるし、どこへでも行けて、なんでも知ることが出来る。無数の島宇宙を渡り歩いて暮らし、いくらでもやり直すことができる。まっとうなサラリーマンを辞めてさえしまえば、これくらいは本当に実現できるだろう。平成世代に付きまとうありえるかもしれない仮定法未来の量は初めから閾値を超えてしまっているのである。つまり、本来35歳を迎える頃に起こるであろう「35歳問題」によく似た仮定法の問題に、平成世代が囚われていることそのものが異常なのである。
更に、この初めから仮定法未来の量が閾値を超えてしまっていることが何をもたらすのかというと、起こりえない絶対に不可能なことまでもが起こりえるかもしれない可能なものとして素朴に認識されてしまうということだ。これは何かと言うと、平成世代の行動原理に深く影を差している「やりたいことがなにか分からないけれど、まさにその何かをやらなければいけない」という強迫観念における「それ」、幸福ではない真の幸福――まさに不可能なものとしての――たったひとつの冴えた生き方としての、「トゥルーエンド幻想」への過剰執着である。これぞ平成世代の特異性である。今や個人個人がそれぞれの理想を生きる、「私的な理想の時代」が到来したのだと言えるでしょう。

「トゥルーエンド幻想」への過剰執着は本稿における重要なキーワードであるが、これについては次々章で詳しくかたるとしたうえで、ここでは簡単に、理想が高すぎて社会の規範にうまく馴染めず、また、その社会から逃走したとしても、むしろ逃走するからこそ、今の自分と程遠い理想の自己像が肥大してしまうため(理想の自己は社会との関係性のなかで実現する)、平成世代にとっては社会からの逃走は極めて難しいのだ、とだけ理解頂きたい。そこからの逃走を可能にするのは幸福という単純な思考停止だけであり、それはむしろ社会=現実からの逃走ではなく、社会=現実への逃走によって実現するだろう。忙しく働いていれば余計なことは考えずに済むのだ。だが本当にそれは可能なのか。一度でもエゴに目覚めたことのある人間は、この「過剰倫理」の時代において、心を殺して自分抜きの自分を演じ続けられるのだろうか。私には不可能なものに思える。ならば、能動的に立ち向かわなければならないだろう。「逃走とは、既存の秩序、構造に疑問を突きつけながら、それらに回収されない創造的なものを現実につくりあげていく行為そのものである。」とドゥルーズとガダリは述べるが(堀千晶 ・芳川泰久『ドゥルーズキーワード89』)、既存の秩序、構造に回収されないものが果たして今この「過剰倫理の時代」に存在するのだろうか。むしろ、そこにある「過剰倫理」という規範を書き換えなければならないのではないだろうか。
公の場においては「過剰倫理」が、私の場においては「トゥルーエンド幻想」が、平成世代はこの両方の問題に対して答えていかなければならない。次章ではまず「過剰倫理」の問題に答え、次々章では「トゥルーエンド幻想」について再び論じる。

 

5.不良論

「人は平等である」と「過剰倫理の時代」では語られるが、その命令は第三者の審級が発しており、またそれは第三者の審級が担保する規範であるので、「カースト的な序列体系」と矛盾しないどころか、むしろそれらは二つセットでやってくるのだ。機会均等という建前によって、「チャンスは皆平等であり、頑張った人間は成果を出している」という前提が敷かれ、「人は平等である」と同時に、「目上の者には敬意を払わなければならない」。ここに素朴な二重思考があるだろう。平成世代はこの矛盾についていくことが難しい。生まれた時から「人は平等である」と散々刷り込まれてきているし、「カースト的な序列体系」で相対的に見下されている自分は、「トゥルーエンド幻想」における本当の(理想の)自分ではないからである。それに、「人は平等である」というのは正しい。

こうした「カースト的な序列体系」は主に「教室空間」…公立の中学・高校や、部活動などの体育会的コミュニティ、会社組織において確認できるが、そこに馴染めない平成世代は実に多いだろう。この点は昭和世代からゆとりだと指摘されている大きな原因であろうし、実際ここから逃げ出したなよなよとした平成世代は多いように思える…一生逃げ続けるのか?どこにも逃げ場などないと言うのに。ここに中島義道の言う幸福になりたい/と思われたい症候群の人々と似たようなニュアンスを見つけてしまう。「カースト的な序列体系」に耐え切れず逃げ出したものは、そのことに目をつむり、別の序列体系…つまり「私ルール的な序列体系」を持ち出して、あらゆる他者を自分の定規で推し量り、マウントをとることで自己の欠損を回復している。そしてそれら「私ルール的な序列体系」は、倫理であったりアカデミズムであったり権威至上主義であったり分かりやすい大義を形作りながらも、その根底には歪んだ選民思想が渦巻いている。その選民思想の特徴は自分をゼロという基準値に据え、生きててもいいプラス側の人間と死んでもいいマイナス側の人間の数がちょうど半分ずつで区分されている点と、無害だとわかった人間は例えその規定に引っかかっていたとしても「例外」としてプラス側に繰り上がるのである。自分をゼロの位置に据えているのは潜在的な自己肯定感の低さが原因であり、ある意味で自分を最低だとみなすことでそれより最低な人間は論外ということになる。無害だと判明した人間を例外的にプラス側に繰り上げるのは、ただ単に彼が自分を脅かす可能性のある他人に怯えていただけのことを端的に表している。
こういう傾向のある人間は、自分の弱さ故に他人に不快な思いをさせているわけだが、「俺/私は弱くない」と無用な空意地を張って今日も虚しく背筋を伸ばして生きていくのだろう。中島義道の言うように幸福が思考停止の産物による幻想であれば、そうした強さも自分の弱さから目を背けた思考停止の産物、ただの幻想に他ならないだろう。人は他者との序列の中で相対的な強さを確認しようとするが、真の幸福が幸福を否定したところにあるのと同じく、真の強さも見せかけの強さを否定したところにあるのだろう。真の強さを有した人間は滅多にいない…というより、それは「トゥルーエンド幻想」における理想の自己像と同じく、ほとんど不可能なものとしてのみ表現可能なものだろう。
そして、こういう「俺/私は弱くない」と思いたい/思われたい人たちは、「誰も他人を傷つけないこと」という倫理を振りかざすことで「自分を傷つけるな」という禁止を発する傾向があるが、これは中島の言う特殊日本的幸福でありたい症候群の人々と重なるだろうし、彼らのこのメッセージこそが「過剰倫理」の発信源である。現代社会は弱者の「過剰倫理」を強者が代弁する形で、権威の正当性が保たれているのだ。故に、「カースト的な序列体系」は、「過剰倫理」の実行機械である。

ここで再び大澤真幸の『不可能性の時代』を取り上げる。大澤は暴力を次の四つに区分する。①神的暴力、②法違反的暴力、③法措定的暴力、④法維持的暴力である。④の法維持的暴力の典型とは警察が行使する暴力のことであり、これには法や規範の妥当性を保証する超越的な(第三者の)審級を再投射する暴力が含まれると大澤は述べている。つまり、警察に守られることで警察権力的な第三者の審級を内面化してしまうのである。これは弱者であれば弱者であるほどその傾向が強まるだろう。自分で安全を確保できない者は得てして過剰に安全を求める、つまり、自分が無力である分だけ過剰に他者の無害化を望むのである。ここに人の心に住み着く警察が存在する。これは前述の大澤真幸が述べるリスク社会にも対応する。安全への過剰な欲望は、私たちの無力さの、私たちの心の警察の欲望なのである。ならば、武道を学ぶことで、弱い自分と向き合い、それを乗り越え、克己心を体現することには、己の心に住み着く警察を律するという多大なる意味があるだろう。本章では武道の実践的可能性について述べる。同時に、「カースト的な序列体系」から逃れるのではなく、それに立ち向かっていき、無効化することで、「カースト的な序列体系」と対を成す「過剰倫理」さえも無効化できるはずだろうからだ。

多くの思想家の決定的な弱点は、暴力を肯定できない点、もしくは抽象的にしか想定できない点である。なぜなら彼らにとって暴力はまず第一に恐るべきもので、その取り扱い方を自分自身で知らないからである。何事にもポジティブな側面とネガティブな側面がある。大澤真幸もまた『不可能性の時代』において、「神的暴力」(神=第三者の審級の不在や無力さを含意する暴力)こそ閉塞感を打開する救いとしたうえで、それを来るべき新しい民主主義に置き換えて夢想して論を終えているが、暗に暴力を否定したことで最後の最後で議論が曖昧なものになってしまっている。本稿では、この「神的暴力」を適切に行使することこそが閉塞感を打ち破り、そのためのノウハウが武道における諸技術であると述べたい。
佐々木中の『切り取れ、あの祈る手を』(2010年)では、大澤同様に暴力の可能性は否定されている。佐々木曰く、革命にとって暴力は二次的なものに過ぎず、まずテクストの書き換えが先行する。ここでいうテクストとは広義の規範のことである。ならば、ある種の広義の暴力は、その場限りかもしれないが、規範というテクストを書き換えることにはならないだろうか。例えば、赤信号を渡ること。「赤信号を渡ってはいけない」というのは法であり規範でありそれはわれわれに命令する。われわれがその命令を無視して赤信号を渡るとき、それは紛れもなく暴力であるし、「赤信号を渡ってはいけない」というテクストは違反者に対して適切な罰を与えられない限りにおいて、そこで曖昧に書き換えられてしまうのだ。佐々木中は、読書とはダンスであり人のすべての所作は法であり文学であり、人は日々それらを読み書き書き換えていると述べており、赤信号を渡るような暴力もそうした営みの一種と考えても別段おかしくはないだろう。
ここで問題となるのは「神的暴力」と「法違反的暴力」との区分である。大澤は「法違反的暴力」を単なる犯罪のような暴力と述べているが、ここではヤンキーが犯すようなつまらない犯罪のことだと簡単に解釈しておこう。規範というテクストを書き換えるためには、まず対象である規範を知らなければ(認識しなければ)いけないし、その書き換えを意図しなければならない。つまりある程度の「知」が必要であることは間違いないだろうし、故に本稿の論調は暴力賛美などでは断じてなく、「文」と「武」が互いに律しあう「文武両道」のすすめなのである。ここでいう「武」とはスポーツではなく、護身術などの武道のことであり、「文」とは学問だけではなく美術・音楽や華道・茶道というところまで含めた意味の文芸のことであり、「両道」とはその両者が共に優れており、なおかつその二つの要素が相乗効果をもたらすようなあり方のことを指します。

では、「神的暴力」によるテクスト=規範の書き換えはいかにして成るのか。それはまず第一に「カースト的な序列体系」の無化を行ったうえで、第二に規範としての「過剰倫理」をユーモアか感情吐露のどちらかで乗り越えるという手順になるだろう。「カースト的な序列体系」とは、象徴的な暴力の体系のことであり、これに対し我々は現実の暴力を象徴的にかつ効果的に機能させて無化させるのだ。どういうことか。
東浩紀は『弱いつながり』(2014年)で、言葉の果てしない争い=メタゲームを止めるためにモノが必要だと言っている。「カースト的な序列体系」も象徴的な暴力、つまり、言語的なものである限りは、これと同じことが言えるだろう。そして、象徴的な暴力は、物理的な暴力に必ず敗北するのだ。なぜならば、象徴的な暴力とは、物理的な暴力の(ほとんど言葉遊びのレベルのような)言い換えに過ぎず、なんらかの形で物理的に打ちのめされたときにそれでも威厳=象徴的暴力を保てる者は稀だからである。そして、人は想像力や危機察知能力を有する生き物なので、これを何らかの形で刺激してやればいいのである。簡単に言えば、体と心を鍛えて物理的に強くなって、「私に噛みつけば君の威厳は崩れ落ちるだろう」というメッセージを暗に発しながら強く生きていこうということである。このメッセージの発し方も武道のイロハのなせる技である。格好よく言えば、いわゆる「先の先の先」というやつだ。戦わず相手を制するのである。こうなればあなたがその集団の御意見番である。
そして、「カースト的な序列体系」ごと「過剰倫理」を吹き飛ばして、言いたいことを言えばいい。おもしろおかしいブラックジョークや、「死にたい」や「しんどい」や「もう疲れた」の代わりに言いたかった本当のことを。勿論、なんでもかんでも「カースト的な序列体系」に挑んでマウントをとって、言いたいことをあれこれ喚きたてるべきではない。大澤真幸は「殺人の禁止という命令と孤独の内で格闘する者こそが神的暴力の担い手である」と述べている。「なぜ孤独に格闘しなければいけないのか?誰も、禁止(やその中断)の妥当性を教えてはくれないからである。誰も、命令(「殺せ」「殺すな」)を下してはくれないからである。ここでは、命令を発し、責任を負ってくれる超越的な他者(第三者の審級)が、どこにもいないのだ」。なぜなら、あなたがそれを無化したからである。あなたが革命を起こしたのだ。「過剰倫理」を排したいま、あなた自身の倫理が試される。その何物にも担保されない倫理の責任を自ら引き受ける者こそが「神的暴力」の担い手だと大澤は言うのだ。
踏み込んで言えば、あらゆる法から解放された空間で、ふいに襲ってきた自分よりも遥かに屈強な暴漢と命を懸けて格闘をしている最中、ふと一瞬の隙をついて相手の首を七秒締め上げたとき、そこで手を放すのか、そのまま絞め殺すのか、そこであなたの倫理が問われるだろう。暴漢を解放したあと、あなたが殺されない保障はどこにもない。逆に言えば、殺したところで誰にも咎められはしない。にも拘わらず、あなたが手を放したならば、それはもはや柄谷行人のいう「命がけの飛躍」ではないだろうか。私は以前、「伝えるために決闘し、自ら固く暴力を禁じ、破滅させられることをも辞さない行為。これぞ「命懸けの飛躍」ではないだろうか。」と述べました。このような自らデメリットを選び取るような行為こそが、倫理的であり、「血で書く」ということであり、誰かに届きうるのではないだろうか。あなたが新たに実行し、提言する倫理も、このようなものであれば、誰かに受け入れられるのかもしれない。それが次の新たな規範となればと願う。

以上のように、文武両道を実現し、「先の先の先」によって既存の規範を無化し、自分が損をしてしまうような新たな倫理を提言する者こそが、「過剰倫理」や「カースト的な序列体系」を書き換える可能性を持つ「不良」なのである。

 

6.そしてトゥルーエンドへ

今や、「過剰倫理」や「カースト的な序列体系」という公の場における閉塞感と渡り合っていける力強い生き方が示された。だが一方でそれは平成世代の抱える問題の半分に答えたことにしかならない。私たちを脅かすもう一つの現実…たったひとつの冴えた生き方として想像される実現不可能な「トゥルーエンド幻想」への執着と、ありえたかもしれない無数の可能世界の一つとして虚構化される今この現実の問題である。前章のように仮に社会のなかに居場所を獲得しても、そこが居心地のいい場所に変わるにつれて自己を押さえつける力が弱まり、自意識が肥大する。

東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』では、主人公(≒東浩紀)は無数に存在するありえたかもしれない可能世界をすべて抹殺することで、逆説的にどれだけ不幸であろうが今ここにしかない一回限りのこの世界=人生を肯定することこそが救いであり、「偽物だけれど唯一の、まちがいだらけだけどやり直しのできない人生を歩むのだ」と言って、別の世界を仮構する装置を破壊する。この選択は一見、平成世代の抱える「トゥルーエンド幻想」へのアンチテーゼになり得ているように見えるが、むしろ始めから選ぶ選択肢がない者の現状肯定方法ではないだろうか。ありえたかもしれない世界は想像され、ありえないものとして否定されることで、今この世界がこれでしかありえないものとして逆説的に肯定されるのだ。この中年の主人公が向かおうとする場所もまた、「トゥルーエンド」(の幻想)ではなかろうか。それは到達不可能な場所ではなく、あくまでも今ここの延長線上に、まさにこれでしかありえない人生の地続きにある幻想なのである。東浩紀は、「世界と運命の無限回の施行のなかで、「今回」こそがトゥルーエンドに繋がるはずだという確信を与えてくれるもの、すなわちライプニッツ的な神。」を信じているとツイートしている(2013年8月11日)。ここでは「世界と運命の無限回の施行」は、「今回」と「トゥルーエンド」を繋ぐ道具立てとして用意されており、「ライプニッツ的な神」とはその絶対性/幻想性を担保する固有名である。
佐々木敦は『未知との遭遇-無限のセカイと有限のワタシ-』(20011年)で、有限を可視化するネット検索はむしろ無限を捏造すると述べている。「ネット検索がなかった時代は手探りで情報(たとえばCD)を探すしかなく、それぞれの人間が持っている調査・探索の具体的な制約の中で、それなりにベストを尽くすということでよかった」が、「ネット時代になり、検索エンジンが登場して、何を調べるにも、まず最初に自分の能力とは別個の、客観的な検索結果が弾きだされるようになった。つまり、かりそめのものであれ、ゴールが、最長到達点が、外延のようなものが、つまり「すべて」のようなものが、ある具体的な数値を伴ったものとして、目に見えるようになった」。だがその可視化された有限な検索結果は到底すべてを検証することはできないし、更にそのネット検索の外部にも情報は存在すると思うと人は尻込みし、可視化された有限を無限のように飛躍して感じてしまうと佐々木は言う。まさにこのネット以前とネット以降の対比が昭和世代と平成世代のありえるかもしれない仮定法未来への向き合い方に対応している。平成世代は就職活動/職業選択も、リクナビ(1996年始動)やマイナビ(2007年始動)というネット検索によって行い、可視化された有限の職業たちの無限のようなヴァリエーションに驚愕しつつも、検索できるからこそ正解を手に入れられる気がしながら、最適な職業/職場を砂漠のなかから一つの砂粒を探し当てるようにネット検索を繰り返しているのだ。一方でネットが普及する以前に就職活動を行った昭和世代の多くは、ひたすらCD屋を巡ってCDを探すように、自分の足で一歩一歩、可能性という暗闇のなかを地道に歩いてきたのではないだろうか。だからありえたかもしれない仮定法過去は想像することができても、それは絶対にありえないものとして認識されているのではないだろうか。つまり、昭和世代において純粋に偶然的だったものが平成世代においては、コントロールできる可能性のある偶然=リスクとなりえたのではないだろうか。ならばその可視化されたありえるかもしれない仮定法未来たちは、平成世代にとっては回避されなければならないものとして目に映るだろうし、その先にはたった一つの冴えた生き方がきっとあるはずで、今この人生は「それ」ではない何かたちのヴァリエーションの一つに過ぎないだろう。

昭和世代にとっては、今この人生はこれでしかありえないものであり、起こりうる他の人生は今この人生を肯定するために否定され、トゥルーエンドは今この人生の延長線上に起こりうるかもしれない到達可能的なものとして現れ、平成世代にとっては、今この人生も起こりうるヴァリエーションの一つに過ぎず、到達不可能なたった一つの冴えた生き方…「トゥルーエンド」の絶対性/幻想性を担保するためにむしろ否定される。

この両者の差異はスキゾ/パラノという二区分で説明可能である。浅田彰の『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』(1984年)によると、「人間にはパラノ型とスキゾ型の二つがあ」り、「パラノってのは偏執型(パラノイア)のことで、過去のすべてを積分=統合化(インテグレート)して背負っているようなものを言う。たとえば、十億円もってる吝嗇家が、あと十万、あと五万、と血眼になってるみたいな、ね。それに対し、スキゾってのは分裂型(スキゾフレニー)で、そのつど時点ゼロで微分=差異化(ディファレンジエート)してるようなものをいう。つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ」。ここでは、縦時間軸へ偏執するパラノに対し、スキゾを横可能世界軸方向へ分裂するものだと読み換える。昭和世代は縦時間軸に固執したパラノ的な存在であり、だからこそスキゾ的な分裂により横並行世界軸方向へ逃走することがクリティカルであり、平成世代は横可能世界軸方向に分裂したスキゾ的な存在であり、だからパラノ的に統合することがクリティカルとなるのである。
昭和世代は今この人生をパラノ抜きでパラノ的に生きるために、想像される起こりえたかもしれない他の人生を否定し、逆説的に今ここにあるこれでしかない人生の延長線上に「トゥルーエンド」を幻想する。ここで否定される起こりえたかもしれない他の人生の想像こそが、スキゾ的な逃走であり、パラノ的な人生からパラノ性を抜き去る癒しなのだ。だが、その癒しも、「トゥルーエンド」さえも、実際に起こりえた別の人生や、これから新たに切り開いていけるであろう別の人生、今この人生の延長線上にある「トゥルーエンド」の虚構性から目を背けている限り、それは思考停止の産物としての幸福なのだ。今この人生が真に幸福ならば、その延長線上に「トゥルーエンド」を幻想したりはしないはずだし、今この人生が失敗ならばその単純な延長線上に真の「トゥルーエンド」が待っていたりはしないだろう。
平成世代の執着する「トゥルーエンド」は到達不可能なものであり、今この人生の延長線上どころか、起こりうるどの人生の延長線上にも存在しない。幸福ではなく真の幸福なのである。『クォンタム・ファミリーズ』のラストでは、偽物の「トゥルーエンド」が描かれる。だが偽物だからこそ、到達不可能な、真の幸福としての「トゥルーエンド」が描かれる。東は作中で、「幸せとは、ひとがその固有の運命の鎖から解き放たれること」であり、固有の運命の鎖=宿命とは起こりうるすべての平行世界を貫通して立ち塞がるものであると述べている。到達不可能な、真の幸福としての「トゥルーエンド」は、宿命を克服した先に存在するのだ。
では、如何に宿命を克服し、「トゥルーエンド」に至るのか。ここで再びカギになるのがスキゾとパラノである。『クォンタム・ファミリーズ』のラストが「トゥルーエンド」たりえているのは、数多の平行世界を経たからでもある。具体的に言うと、例え世界Aにおいて生まれたのが娘Aでも、例え世界Bにおいて生まれたのが息子Bでも、どの世界においても夫婦仲が最悪でも、すべての世界において結ばれて夫婦となっている主人公と妻が、まさに世界と運命の無限回の施行の結果として、宿命的な、唯一無二の夫婦であることが逆説的に証明されるのである。そして主人公が自身の罪を償うことで宿命を果たし、到達不可能なものとして現れていた妻と二人で人生をやり直すことが可能になったのだ。
世界と運命の無限回の施行、つまり、平成世代はスキゾ的に横平行世界軸方向に分裂した状態のまま、縦時間軸ではなく横平行世界軸方向にパラノ的な統合を果たすべきなのだ。起こりうる他の人生を、今この人生を、一回きりの瞬間的なものではなく、他の無数の可能世界との関係性のなかで考えること、そこに貫通する宿命を見出すこと。宿命は、横に広がる可能世界群を、その横軸と同じ広さの太さを持って、縦に貫く図太い線である。そして、スキゾ的に、つまり自己分裂/自己超越的に、その宿命に立ち向かっていくことである。スキゾでありつつ、パラノであること、あるいはそのバランス。人の限界がその人格の持つ限界であるならば、宿命を克服するには、その人格を絶え間なく改変し、克服せねばならないだろう。世界と運命の無限回の施行のなかで、統合と分裂を繰り返し、その絶え間ない自己超越の果てに宿命を乗り越える者、「トゥルーエンド」に至る者こそが、超人である。あるいは、「トゥルーエンド」をこれから自殺するかもしれない友達が、死なずに済む世界と考えてくれてもいい。友達を救える者が超人なのだから。

 

7.人生の文学化

最後に、前章や前々章のような生き方はできなかったけど、すこし特殊な方法で現実と苛烈に戦っている人々の生き方について、所見を述べさせて頂きます。「トゥルーエンド」が単数的な超越性に対して、複数的な超越性として人生を文学化させる生き方が挙げられる。例えば、SNSのコンテンツ化されたメンヘラを思い浮かべて頂きたい。これはスキゾ的な横軸への分裂を極限まで推し進め、自己の人生を物語のように消費する態度であり、起こってしまったことすべてを文学的なものとして肯定し、テクストの快楽に変える、途轍もないパワーを持った享楽的な生き方である。だが、ある重大な欠落を抱えている。物語は主人公に何らかの命題=不幸を要求し、その格闘の中で編み込まれる。さもなくば物語は飽和して破綻してしまうのだ。自分の人生を物語とみなしてしまうと、永遠に不幸と格闘しなければいけなくなるし、さもなくばタイクツさが飽和して、物語が破綻して、自殺という連載終了を迎えるのだ。人生は物語ではない。人生は縦時間軸方向に伸びていき、そこには必ず退屈な「間」、物語では描かれない「間」が含まれるのだ。意味を求めすぎてはいけない。そして、どこまでいっても人生に結末はなく、だから人生を文学化する者は自分でラストシーンを描かなければならなくなる。だが、それでも物語としての、文学としての人生を破滅的に生きるのであれば、そうやってうつくしく鮮烈に生きればいい。その感情が消えるまで。あなたたちをどうやって救えるか分からないし、この文章もそれが出来たとは到底思えないけれど、あなたたちが死なない世界、それが僕の「トゥルーエンド」だから、僕はこれからも書き続けます。

 

文字数:19990

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