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第一章 恐るべき子供達の誕生

 

「昭和90年代」とは昭和を生きた人たちの平成に対する一つの見方であり、それは僕たち平成生まれの若者のリアリティを初めから捨象してしまっている。僕たち平成生まれの若者のリアリティとは社会や歴史への圧倒的な「分からなさ」、圧倒的な断絶を前提とする。昭和から今この平成を地続きのものとして捉えようとしたとき、その断絶のリアリティを溢れ落としてしまうことになる。それが例え歴史からの断絶の回復を試みたものであっても、だからこそ我々は断絶しているという事実から出発せねばならないし、僕たち平成生まれの若者は、そこからしか物事を始められない。昭和世代が平成20年代を昭和90年代とつい見做してしまうのに対し、平成世代から見た昭和とは平成マイナス○○年という形でしか辿れないのだ。昭和を生きる大人たちと、平成に生まれた子供たち。この社会は綿々と続く歴史的文脈を引きずりながらも、同時にそこから断絶されている。いや、むしろ、その歴史的文脈からの断絶こそが歴史の変遷の結果として、今まさに現実として我々日本人の目の前に立ちはだかっており、批評を始めとするあらゆる言葉たちはその事象を虚しく掴み損ね続けている。昭和と平成の二つの世代の異なる世界観が、まるで二つの平行世界のように部分的に重なりながらも分離しているのがこの社会の状況であり、ここでは両世代が互いに言葉にならない不和や摩擦や違和感を抱えたまま、どこまでも食い違い続けている。その表象として、昭和世代から平成世代への「ゆとり世代」という画一的なレッテル攻撃が挙げられるだろうし、それは昭和世代から平成世代への明確な批判意識を端的に表すことに成功しているが、平成世代の多くはそれを全否定と受け止めたうえで昭和世代への歯がゆい憎悪を膨らませてしまうのだ。そこでは歴史の継承はより困難となり、平成世代の断絶はより深刻化することになる。「大人は分かってくれない」のだ。SEALDsに参加していた平成世代の子供達はそのような軋轢を原動力として展開していったように見受けられる。

時は止まらず、世代交代に伴い歴史は忘却されていく。記録のなかだけの戦争。あらゆる現実への危機感が磨減していく。僕たちはアウトソースしてはいけないものまでアウトソースして生きている。この余りにも長すぎる偽りの平和が打ち破られるとき、僕たちに何ができるのか分からないが、一つだけ言えるのはそれについて考えたり行動したりすることは余りにもコストが高く、適度に考えているフリだけしているのが一番合理的だと僕たちは知っている。社会や政治について考える平成世代も、それが本質的に無意味だと知っているだろうし、そのことに対する危機感もなく、どちらかというと趣味のバリエーションに過ぎない。(もしくは、社会の問題と後述する平成世代特有の個人の問題を混同しているに過ぎない)。なぜなら、平成世代は簡単に「でもそれ以上はできない」(例:痛いのは嫌だ)という線引きを神経質に設定する。これは多分、やばい。平和の時代だからこそ危機感は継承されなければならないし、現実に迫っている危機を可視化するためにも歴史を知る必要があるだろう。

多くの人が今の社会をどこか息苦しいと感じながらも、どうにもできないでいる。その原因の一つとして、世代間の軋轢が挙げられるだろう。昭和世代の抱く危機感に対し平成世代はうまくノることができない。そして平成世代の抱くアイデンティティの危機に対して昭和世代は冷笑的である。両者の危機感は食い違い、社会の方向性がまとまらない。ならば、まず昭和と平成の二つの世界観=リアリティを整理することこそ重要であり、最終的にはその二つを縫合しなければならないだろう。

では、平成世代はどのような歴史的な文脈のなかで生まれてきたのか。
1945年に第二次世界大戦で敗北した日本国民は以降大きな抑圧を抱えることになり、しばしばその回復を目指して様々な事象が生起される。60・70年代の学生運動という直接的/非合法的な手段が失敗し、80年代のバブル経済という間接的/合法的な手段も失敗し、90年代=平成に入るとJPOPが興隆した。僕たち平成世代はそのような文脈のなかで生まれてきた。昭和世代の大人たちは現実への「諦め」と「諦められなさ」のアンビバレンスな感情を抱えており、それはJPOPという幻想として表出しつつ、平成世代の子供たちへのゆとり教育と結びついた。それは「人はみな平等であり、君はやりたいことにチャレンジすることができる」という刷り込みであり、これは裏返って「何になるか、何になりたいかこそが重要である」という価値観や「夢を持とう」という命令となって平成世代の行動原理に深く影を射している。僕たちの多くは「やりたいことが分からないけれど、何をやればいいのか分からない」。目的を持つことの目的化。はっきり言って、社会の問題なんか二の次である。(平成世代が社会や政治について発言するとき、そこで発言者にとって重要なのは実際の社会の動向よりも、発言者自身の承認/発言欲求やアイデンティティが発言によって如何に満たされるかという点であり、それはライフスタイルのバリエーションの一つに過ぎない)。平成10年代には大学進学率が約50%となり、平成20年頃には大学全入時代(=誰でも大学に入れる時代)が到来したが、職業選択の自由がいよいよ現実化していくだろうという予感が平成の初期にはあったのだろう、多くの親たちやゆとり教育やJPOPは子供たちに夢を見ることを教えたのだ。「なんにでもなれるかもしれない」という可能性は「なにかになれたかもしれない自分」と「そのなにかにはなれなかった今の自分」の分裂した自己像を生み、「なにかにはなれない」という諦めは「なににもなることのない/どうすることもできない自分」というある意味では強固な自己像を生む。昭和世代が「私は私だ」と自信を持って言えるのに対し、平成世代は「私は私だ」とどこかはっきり言う事ができない。「私は今の私じゃない何かになれたかもしれないし、そうなれなかった原因は私の努力・才能不足である。でもそれに本当になりたいのかは分からないし、だけどそれにならなければならない気がする」のだ。平成世代は教育やJPOPに自意識を刺激され続け、深刻なアイデンティティの問題に直面している。社会のことを考えなければならないのに、常にそれどころではないのだ。

現実の危機よりもアイデンティティの危機を重要視する平成世代は、現実に対する危機感が希薄であるとも言えるだろう。筆者の友人は、仕事を実際に辞めるまで「働かなかったら食べることができない」という現実が本当に理解できなかったと言っている。若者が一度なんらかの形で社会人のレールを外れ、働かなくては生きていけないという事実を身をもって知った上で安定的な職へ戻っていくという構図はままあるだろう。では、この現実に対する危機感のなさはどのように形成されていったのか。日本社会は抑圧からの積極的な回復を諦めつつ、安全な社会の実現という消極的かつ凡庸な形では推し進めている。これは多くの他の先進国の動向とも符合するだろうが、日本の場合はこれがかなり成功してしまっているという点が逆に問題なのである。つまり、平和すぎて平和ボケして危機感を感じることができないのだ。昭和世代の人々は上世代から下の世代へと戦争の記憶などの危機感を伝えていくことができていたが、平成世代はもはや上世代から危機感を教わることができない。それは磨減してしまったし、僕たちは現実に危機感を覚えることが少ない。僕たち平成世代に残された主な現実の危機感は、いじめ=集団からの排除というこれまたアイデンティティと深く関わる事柄である。なぜなら平成世代は「私は私だ」と信じられないため、他者の視線に承認される他なく、いじめ=集団からの排除は致命的なアイデンティティクライシスになりうる。よって、若者は過剰に空気を読み、その集団と合わない場合は黙って席を立ち自分の居場所へと戻っていく。自分や自分の集団のメンバーを普通だったり当たり前と見做し、それ以外の他者を普通でないものやありえないものと見做す――他者を遠ざけて似たもの同士で群れて承認しあうことで、他者との差異のなかで見出される自分の個性が当たり前かつ普通のものとして色彩を失ってしまう。「私は私だ」と言えない。

これら平成世代の若者の特徴は、昭和世代との労働観との相違、現実の労働環境との齟齬にも影響をきたしている。JPOPやゆとり教育によって「夢を見る」ことを説かれ続けた平成世代にとって労働とは生活の手段ではなく自己実現の手段として、実際の就業体験に先行して意識付けられている。第一の齟齬がそこにあり、平成世代の学生には生きていくために働くということがいまいちピンとこない。近年、新卒の就職活動のシーンで頻繁に「やりがい」という言葉が飛び交うのもそこに理由がある。やりたいことがやれなかった僕らは、やりたいことが見つけられなかった僕らは、就職を機に新たに「やりがい」という「やりたかったことらしきもの」を見出さなければならない。
これまでの社会が生涯雇用という強固な枠組みのなかで、一つの会社のなかでどれだけ上り詰めていくかという一本の線と、その対極にあたる帰る場所としての家庭と、その往復からはみだす余剰を回収する場所として各種の娯楽があったのだとすれば、生涯雇用が崩れ去った今の社会では色んな会社の間を行きかいながらジグザグに一本の線を上り詰めていくというものを想定すればいいだろう。だが平成世代の若者の選択はもっと豊かで複雑である。それは平均的なサラリーマンのライフスタイルを中心に、過剰に社会化を志向するビジネスマンの極と、労働そのものからの距離を置くことを志向するフリーターやニートの極と、直接的に何者かになろうと志向するワナビや趣味による満足を志向するオタクなどの極、これら三つの極と平凡な中心からなるのである。東浩紀は『クォンタム・ファミリーズ』のなかで「世界の尊厳=希望の総量は変わらない」ので、「労働では彼らの尊厳が満たせない」と言っている。彼らとは引きこもりのことである。平成世代の若者は、まず普通に働くことで分配される尊厳に満足できるかどうかという問題に直面する。それに満足できないものの1/3は過剰に働くことでより多くの尊厳の獲得を試み、1/3は会社で得られる尊厳を半ば放棄し「やりたいことらしきもの」の達成という自己実現において尊厳を得ようとし、残りの1/3は可能な限りゆるやかに労働そのものから距離をとることで引きこもるように心を守り、何人かは本当に引きこもる。

会社生活でも、趣味や自己実現においても、引きこもることでも、それらでは解消できない余剰はSNSに回収される。SNSで似たもの同士で過剰に馴れ合い承認しあうことで、「私は私」であることを切れ切れに確認しあうのだ。(だが同時に他者との差異が均され、「私は私だ」という実感が希薄になる)。
以上のように、僕たち平成生まれの若者は日々終わりのないアイデンティティの危機に直面しており、社会のことを考える余裕がない。(もしくは自分のアイデンティティの問題として社会のことが考えられる)。労働市場が富と同時に尊厳をも分配し、(つまり、労働において尊厳は与えられるか奪われるのかのどちらかだ)、それを労働者が死に物狂いで奪い合っているように、狭き門である諸々のプロの座を自己実現を志向する若者が奪い合っているように、(これは批評再生塾でもそうですね)、なんとかして労働から遠ざかろうと引きこもったり不労所得を得ようとするように、できるだけ「フツウ」というカテゴリーのなかに収まり他者を「フツウでないもの」として押し出そうとするように、「私は私だ」と言えない平成世代にとっては現実の物理的な危機ではなく、心という心臓を他者に晒した抽象的な戦争を強いられているのである。平成世代の若者たちは、これに抑圧されており、まず第一にこの戦場から抜け出したいのだ。「普通の人間が普通の日常のなかで普通に壊れていく」原因はここにある。

ではなぜ、平成世代はこの戦場から抜け出せないのか。次章ではそれを詳細に論じる。

 

 

 

 

 

 

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