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誰かが今、この文章を書いている。 -パラフィクション2.0-

 

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批評再生塾の課題のなかで、僕は今まで敢えて対象読者を設定してこなかったんです。理由は二つあって、まず一つ目は読者をできるだけ限定したくなかったからです。言い換えるなら、誰かを排除したくなかった、ということです。誰に対しても何かを言いたかったんですね。それはありとあらゆる他者/読者への拒絶という逆説的な態度として表現してきました。内田樹さんは「レヴィナスはあまりに難解であるがゆえに、万人に開かれている」と語りましたが、まあ概ねそのようなことがやりたかったのです。二つ目の理由は、僅かながら僕のテクストを愛読してくださる方々の多くが、上記のような僕の態度をこそを求めているように見受けられたからですね。だから僕は誰に向けても書いていない、けれどもその書き方を通してちゃんと誰かたちに向けて書いてきた、という矛盾を行ってきたのです。それは半ば意識的に、半ばは無意識的に。あたかも自分のことだけを考えて書いたかのようで、しっかりと他者に駆動されている。

まるでtwitterのようですね。昔ある人(アカウント)が言いました。「その人のツイートは、その人のフォロワーからの反応(favとRT)によって規定される」、と。誰に対してでもなく呟いた言葉が、誰かたちの視線にしっかりと準拠しているのです。
これを「周りの空気を読んでいる」のだと読み替えれば、東浩紀さんの『一般意志2.0』の議論とも符号しますね。(※ 国会がニコ生中継されれば、議員たちは国民の投稿したコメントを見て最低限は空気を読むだろう)
もしくは、twitterのアカウントはフォロワーからのfavとRTを通して形成された一個のキャラクター/別人格なのかもしれない。ならばアカウントの使用者はそのキャラクター/別人格を演じているのか、もしくは演じているのではなく「何かを引き出している」のだとしたら……?

文章を書き、それを誰かに読まれること。TwitterやFacebookなどのSNSの普及した現代社会では、多くの人が私的な呟きを繰り返し、それを衆目の視線に晒している。誰もが書き、誰もが読まれる、「携帯小説の時代」だと言ってもいいだろう。では我々は何を書き、そして誰にそれを宛てているのだろうか。なぜ、そして〝誰が〟それを書いているのだろうか?

――――かつて私は疾走していた。それなりに考え抜いた自称おもしろツイートたちを、毎日平均200ツイートも生成していた。要するに、すべての余暇をtwitterに捧げていた。もっと正直に言えば生活を犠牲にしていたし、僕は当時内定も無く大学四年目の秋のなかにいた。決してアルファ(=有名な)ツイッタラーではなかったが、仲のいい人(アカウント)たちの間ではそれなりに面白い奴だと評価されており、それなりに満足した楽しい日々を暮らしていた。他にやることもなかった(?)。
そんな暮らしのなかで、私は一時期ある信仰を抱いていた。一秒で一ツイート、更にそれより速く、もっともっと速く呟くこと。思考を極限に加速すること、思いもつかないことを呟き続けること。「高速ツイート」。そうすれば、「TL(タイムライン)の向こう側」へ行けると、半ば本気で信じていた。どういうことか。下図1を見ていただこう。

 

図 1

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TL(タイムライン)とはtwitterにおけるトップ画面にあたるもので、自分がフォローしているすべてのアカウントのツイートと自分のツイート、自分がフォローしているすべてのアカウントと自分がRT(=Re Tweet)したツイートが、最新のものから順に上から下へと表示され、それは次々と新たなツイートが上から下へと流れていくためしばしば「川」に喩えられている。
「TL(タイムライン)の向こう側」とは、図1のTLの最先端であるツイート入力欄の更に「上方」に位置すると同時に、TL全体をディスプレイという平面の「表側」と捉えたときに「裏側」に相当する空間のことである。ヴァーチャル空間の中にあるリアルワールド……押井守の『AVALON』をイメージして頂きたい。勿論、これは私の私的な幻想であり、そんなものは存在しない。ここでいう「TL(タイムライン)の向こう側」とは比喩として捉えてもらえれば幸いであり、重要なのはそれが実在するかどうかではない。
普段のツイートはどのツイートも誰か特定の人に読まれることを想定してその人に宛てた「エアリプ」であるのに対し、「高速ツイート」は加速が進めば進むほど宛先が外れていくのです。つまり、誰かに宛てて書いているというよりは自分のノートにこっそり思いつくままに書き殴っていく感覚に近くなっていきます。そして、ツイートが見られているという意識が想定する他者たちのイメージはどんどん抽象的になっていく。にも関わらず、同時に他者の視線は抽象化されながらもより一層強烈に感じられ、また宛先が抽象化されながらも誰かに宛てて書いているという意識を強烈に実感するのだ。ではその抽象的な誰かとは誰か。恐れずに言えば神、他者の総体である。
SNSは現実の人間関係と異なり実に色々な人たちと同時にコミュニケーションをしなければならない。例えば、Facebookでは小学校、中学校、高校、大学、職場など様々な知り合いのすべてに同時に同じ文章を読まれることとなる。だがそのすべてに見られているにも関わらず、そのすべての人を想定して文章を書けないが故に、他者は抽象化された総体として想定される。このようにSNSに於いては初めから抽象化された他者の総体に宛てて文章を書いているという感覚がユーザーに付き纏う。「高速ツイート」はその実感を強める装置に過ぎない。加速感が現実からの離陸……乖離に似た感覚をもたらすのだ。具体的には、「神」(もしくは「死」)にざらざらと触れているという文字通り現実の感覚を味わえる。その乖離の感覚が他者をより抽象化させるのだ。あらゆるツイートの宛先には、抽象化された他者の総体が含まれる。(ラカンがポーの『盗まれた手紙』を引用して語るように、宛先のないツイートは、純粋に抽象化された他者の総体≒大文字の他者へ宛てられたツイートのことである。換言すれば、それは抽象化された他者の総体へと感覚が結晶化される)

本稿では他者の総体=神という単純すぎる図式を用いるわけではない、という注釈を入れておく。それが「実感として」、「神」を認識する(もしくはそれに「触れる」)には「高速ツイート」の現実乖離の感覚と、抽象化された他者の総体によって〝私〟が支配されているという実感が必要であり、それはひとえに離人症的な体験である。以下に後者を補足する。
前述の論、①「その人のツイートは、その人のフォロワーからの反応(favとRT)によって規定され」、②「あらゆるツイートの宛先には、抽象化された他者の総体が含まれる」、これに加え、③「高速ツイートは思いもつかない思考をもたらす」ことを新たに主張したい。これは一見、連想による「自動筆記」や、「書きながら考える」という態度と似通った凡庸なものに見えるが、①と②を踏まえると「自動筆記」や「書きながら考える」ことの要素を踏襲しながらも異なる現象になっていることが分かるだろう。①から、ユーザーはフォロワーからの反応(favとRT)に応じてツイートをしていることが分かる。つまり、④「ユーザーはフォロワーからの反応(favとRT)によって形成されたキャラクター/別人格としてツイートをしている」と言えるだろう。そして、それは誰かに宛てることを意識して書かれたツイートより、誰にも充てられていないような無意識のツイートにおいて反復されることでより強く内面化される。だが②の通り、あらゆるツイートは抽象化された他者の総体を宛先に含んでいる、つまりあらゆるツイートは無意識的であるので、⑤「キャラクターとしての自分の内面化は避けられない」。よって、⑥「高速ツイート」とは他者によって内面化されたキャラクターとしての自己による「自動筆記」なのであると言える。故に、〝私〟が支配されている/乗っ取られているという強烈な実感とともに、支配者である抽象化された他者の総体を「神」のように実感するのだ。「メンヘラ」(というキャラクターとして扱われ、それを内面化した人)は、だから死にたくなくても「死にたい」と呟いてしまい、自分のツイートに驚くのだ。

前述の通り、神を現実の実感として感じてしまう現象は離人症的な体験であり、一般的な話というよりは私個人の気質に依るところが大きい。(私が「神」を最も強く(触覚として)感じたのは、大学時代にフィリップ・K・ディックや神林長平に傾倒し、離人症の発作を覚えたときである。世界の枠組みが壊れ、科学的に分解され尽くした〝私〟と、支配者としての作者=神の現前)。ここで議論を私から社会の領域に押し上げる。
前述のとおり、現代社会はSNSを通じて誰もが書き、誰もが読まれる、「携帯小説の時代」である。だがそれを大袈裟な誇張に感じる人が大半であると思うし、ほどほどに当たり障りなくSNSを活用している人やほとんど利用していないという人の方が、SNSを積極的にかつアグレッシブに活用している人に比べ、圧倒的に多数派であろう。つまり、多くの人にとって、SNSに於いてその人自身に起こっていることが取りこぼされているのではないかと私は思うのだが、それに対して主張したいのが、(SNSのなかでも特に)twitterはユーザーの内面を反映するということである。

ジョージ・オーウェルの『1984年』に於いて特筆すべきは、ある人間のすべての行動が物理的に把握されてしまえば、必然的にその内面も筒抜けになってしまうという事実が描かれている点であるが、これはtwitterに於いても同様である。SNSに於いて私のような「呟きすぎる人々」に対して距離を置きがちな「呟きを自制する人々」は、ツイートをしないことで内面の露出を防止することを試みる。だが、ツイートをしないという選択でさえ、その痕跡を視認された場合は「なぜそれに関してツイートをしなかったのか?」という問いが喚起されることで内面が大まかに推測されてしまうのだ。そしてその痕跡は至るところに散在する、というのも、twitterで数週間もフォローしていればツイートしている時間からその人のだいたいの生活リズムは容易に推測できるし、何をfavし何をRTするか(つまり何を評価するのか)という傾向から趣味嗜好を推し量ることもまた容易であり、その二つからその人の平均的な利用傾向は大まかにだが容易に掴める。そこから逸脱/不足する要素を逆算すれば、如何に呟かないという選択であっても(それを選択したという痕跡がある限り)、内面は容易に推測されてしまうのだ。そしてこれは何も過剰にその人のツイートを監視しなくても、たまにさらっとツイートを流し読みする程度で事足りるのだ。要は慣れである。それなのに多くの人は、「自分は呟きすぎていない=呟くべきでないことはきちんと抑制しており自分の内面は露出していない」という前提を盲信しているが、それは幻想であり、現にふと意図しないことをうっかりツイートし続けている。twitterはユーザーの内面を反映する。

このように、人々の内面はSNSを通して露出している。それは一見自発的な行為に見えるが、そうではなく他者からの反応(favやRT)によって形成され内面化されたキャラクターとしての自分が自動筆記しているのであり、それは自発的な行為ではない。で、あるならば、人々は目に見えず意識することもない抽象化された他者の総体によって、ツイートすることを強いられているのではないだろうか。
対して、「高速ツイート」は自発的な行為である。通常のツイートが「神」を実感させないのに対し、「高速ツイート」は「神」を実感させる。だが、どちらも抽象化された他者の総体=神に支配されていることには変わりがない。「高速ツイート」はそれを暴くだけである。

ならば、⑥は「高速ツイート」に限定されず、⑦「ツイートは他者によって内面化されたキャラクターとしての自己による「自動筆記」なのである」と言うことができる。
そして、キャラクターとしての自己がそもそも他者たちからの反応によって形成されるものであり、その他者たちは抽象化され他者の総体として認識されるので、⑧「ツイートは内面化された抽象的な他者の総体=神による自動筆記である」と言うことができるのだ。

あなたが今読んでいるこの文章は、過去のどこかの時点で誰かによって既に書かれたものです。そう、私は今この文章を書いています。私とは菊地良であり、他の何者でもありません。では、〝私〟とは誰なんでしょうか。

「今、誰がこの文章を書いているのか?」

現代の人々はSNSという場で書き、読まれ、相互に応答しあうことで、得体の知れないナニカを内面化してしまう。内面化されたソレに駆動され、ひとりでにソレが自動筆記を開始する。以降、延々とループする構造は、どこかで切断を設けなければならないのだろうか。

だが、アカウントを消すことは簡単だ。それよりも日々そこで面白いツイートが生まれ続けていることに対して着目し、よりよいtwitterライフを送ることを考えることとしよう。
本稿のタイトルは『誰かが今、この文章を書いている。-パラフィクション2.0-』であり、露骨に佐々木敦の『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』をもじっていると同時に、ルソーの「一般意志」を2.0へとアップデートさせた東浩紀の『一般意志2.0』をももじっている。つまり、東浩紀の『一般意志2.0』を用いてtwitterについて考え、佐々木敦のパラフィクション論をアップデートすることを目論んで書き始めたものである。

メタフィクションが作品のお約束という虚構性に自己言及することで作者の存在感を強化し、パラフィクションが作品の活字そのものとしてのレヴェル(=あなたは今、この文章を読んでいるのレヴェル)に於ける虚構性に自己言及することで読者/私の存在感を強化するものであるならば、「パラフィクション2.0」は作者と読者の関係性……作者から読者への一方向性という虚構性が言及され続けることで、まず作者と読者の境目を曖昧にし、その二つの主体の単数性を解体する。twitterに於いては常にfavとRTという読者からの反応の契機に晒されており、そこでは作者から読者への一方向性は尽く解体されている。皆が皆作者であり読者でもあり、なおかつ作者と読者に明確に区分できる関係性に於いても皆が皆抽象化された他者の総体を内面化しているため、そこでは作者から読者への一方向性は解体されており、また自己と他者の区分も曖昧である。

凄く簡単に言ってしまえば、東浩紀が『一般意志2.0』で述べたように、国会中継がニコ動で行われれば政治家はニコ動のコメントに応じて最低限は空気を読むようになる、ということだ。Twitterのユーザーは読者の反応に応じて空気を読みながら/内面化しながらツイートを継続する。
だが、「パラフィクション2.0」であるtwitterが、『一般意志2.0』と異なるのは、政治家はニコ動のコメントを無視することができるが、twitterのユーザーはフォロワーからの反応を無視することは不可能に近いという点である。それは既に抽象化された他者の総体として内面化されてしまっているのだ。
だから、僕たちはフォロワーが予測できないようなツイートをしなければならない。予測できなければ上手く期待することはできず、つまりはフォロワーに存在を規定されることもない。これは「Googleが予測できない検索キーワードを手に入れよ!」と謳った東浩紀の『弱いつながり』の議論と符号するだろう。ならば、僕たちがフォロワーが予測できないようなツイートをするためには、現実の旅行に行く必要があるだろう。ここでは旅行を生活というややミクロな概念に読み替えてもいいだろう。いいツイートをするためには現実の生活に於けるインプットを大事にしなければいけないのだ。生活のなかに潜むあらゆる出来事、あらゆる風景は、面白いツイートに変えることができる。あたかも写真のように、批評のように、自由に現実を切り取り、彩り、予測不可能な言葉たちを生み出していくのである。

今やtwitterの面白さがはっきりと現れた。ユーザーはtwitterを通して抽象化された他者の総体を内面化してしまう。他者からの反応(favとRT)によっていつの間にか他者が望むようなツイート/振る舞いを繰り返してしまう。それは定形的なものであるので模倣も容易であり、twitterは似たようなアカウントたちが似たようなツイートを再生産し続ける場と化してしまう。だがそこから抜け出すことができるのだ。内面化された抽象的な他者の総体は、ユーザーにツイートすることを強い、ツイート頻度は加速する。ツイートの加速に従って、ツイートは徐々にネタ切れを起こしてストレスを溜め、ユーザーは周囲との差異化に踏み切る契機に晒される。ツイートが加速し続け、やがてツイートすることがない=ツイートしたいのにうまく言語化できないということをツイートによって自己言及するようになる。もはやアーティストの卵である。そのうち、「壁」にぶつかり、本当にツイートをすることができなくなってしまう。もうツイートすることがないのだ。だが、それでもツイートしたいユーザーは、ツイートをするために日常に戻っていく。彼/彼女は、世の中に起きることを一つも漏らさずおもしろおかしくネタにしてやろうと、血走った目で世界を睨む。そして彼/彼女は「壁」を超え、一分ごとに真に新しいツイートを生成し続けることになる……あたかも自己のツイートを支配/規定し続ける神を、逆に操っているかのように。この「壁」の向こう側こそが、「TL(タイムライン)の向こう側」である。twitterとは、「TL(タイムライン)の向こう側」で織り成される新しい文学なのだ。そしてこの「TL(タイムライン)の向こう側」に行くためには、作者から読者への作用の一方向性が解体され、すべてのテクストがリアルタイムでフラットにならされ続けるtwitterのような環境が必要であり、本稿ではその様式を「パラフィクション2.0」と呼称した。だが、twitterはあくまでtwitterである。それらのツイート群はどれだけ面白くとも、どこまでも安っぽく刹那的な独り言に過ぎない。ならば、「文学」だとか「パラフィクション2.0」だとか大仰な名前を使用せず、私は「携帯小説2.0」と、「TL(タイムライン)の向こう側」のツイート群を呼びたい。

今この文章を書いている〝私〟は、内面化された他者によって解体され続けている。だが私は加速の果てで、私を駆動させる内側の神を駆動させることで、新しい言葉を手に入れることができる。

「誰かが今、この文章を書いている。」

 

 

文字数:7779

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