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政治的な運動にたいする批判が問題にされている。冷笑という言葉で言われている問題である。それが問題であるということに異を唱えるわけではないが、ここでは、冷笑をする人が問題であるという立場はとらない。冷笑が問題になってしまう構造に興味がある。つまり積極的に体制を擁護するわけではないが、運動には冷ややかで批判的な態度をとるような人びとが、「冷笑」として問題があるように見えてしまうこと、それが結局は現状の維持に強く奉仕してしまうように見えてしまう、という問題である。現状を変えたいという人が、運動以外の方法、現状の政治への対案を示し実現させるような方法をもたないからであると、仮に考えてみる。この見方を前提にすると先日、2015年9月19日に日本共産党が発表した「国民連合政府」の構想、野党間の選挙協力の提案は、問題にたいするひとつの解答を差しだしていると見ることができる。

問題にたいするこの解答はどれだけよいものだろうか。変化をただの想像や希望に終わらせるのではなく、現実のものにするための方法としては正しいかもしれない。しかし、この提案は安保法制の廃止という問題に焦点をしぼりすぎている。そこには政治における対立軸の設定や、それの基となる思想の紹介はない。むしろ野党間の立場の違いを留保、凍結するということが提案されている。つまり安保法制を廃止した後については何もない。提案を文字通りに受け取るならば、これは変革のための変革としか読むことができない(安保法制について、手続き上の問題が強調されることにも同様の見方ができるかもしれない。つまりその単純な論点はそれが最も共有しやすいから選ばれた)。冷笑が問題になるような構造は解消されない。

対象となる問題の解決が難しいときに、目先を変えるという考え方がある。国家が駄目なら地方自治体。公にコミットできないなら民間。組織が駄目なら個人。こうした目先を変えることを推奨する言説は多く生みだされ、支持も得てきたように思える。作家の村上龍は1987年に出版された『愛と幻想のファシズム』では国家の転覆を、同じく2000年の『希望の国のエクソダス』では共同体からの離脱と創造を、2001年の『最後の家族』では個人の自立を描いてきた。どれもが答えだと言えるし、どれも答えではないとも言える。想像力を働かせて見れば、答えの可能性はどこかに見つかるだろう。現実に、個別におもしろい事柄はさまざまな場所や単位、階層で、我々はそれを消費し、いまもそうした事例を消費し続けていると言っていいくらい、示されてきた。しかしそうしたことも、面白いといえば面白いがどうでもいいといえばどうでもいいことになりがちではないか。冷笑とは裏返しの面白いだけ、SNSでいいねボタンを押すだけ、はてブをされるだけのポジティブな情報が大量に生みだされ忘れられていく世界。そうした状況への怒りは運動への動機づけになるだろう。

これまである問題について、それへの解答、その解答のもつ問題とそれへの解答……といったかたちで状況を配置してきた。個別の層では問題とそれへの解答が見つかる。しかしその解決は別の層で問題になり、それがまた解決されて別の層で問題となり最初に戻る。これらの層のどの立場にたつかというのがある種の立場の選択になり、この層の違いで断絶しているのではないだろうか。この問題に対する解決は筆者は見つけていない。

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