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うそと宙吊り

うそとは事実でないことである。うそを暴くことは今や情報化社会を生きる人々の大きな娯楽のひとつといっていいだろう。コミュニケーションそれ自体を目的とするとき、人々は何か共通の話題や価値観を見つけなければいけない。何が正しいかが自明ではないけれども、うそを暴くことは頑強である。SNSの炎上や祭りのエネルギーが維持されるのは不正を指摘する、虚構性を暴くという行為の、価値としての間違いのなさによっている。うそをうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい、というのは西村博之の2000年の発言であり、少なくともその時点においてネットでうそやデマと日常的に付き合わなければいけないということが条件として理解されていた。虚構を暴くための技術はふんだんに用意されている。動画はまたたく間に解析され、得られた情報が拡散される。テロリストのプロパガンダは切り刻まれ、映像の作為性、虚構性が嘲笑の的となる。テロリストの作ったハリウッドのような宙に吊られた映像が現実に引き戻される。しかしそれは本当に宙吊りへの抵抗になっているだろうか。

2006年に公開されたアメリカの映画『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習 』(以下、『ボラット』)は宙吊りのない映画である。これは擬似ドキュメンタリーの手法が用いられた映画で、カザフスタン人のジャーナリストであるボラット・サグディエフによるドキュメンタリーという設定になっている。実際にはボラットを演じるサシャ・バロン・コーエンは、ウェールズ系の父とペルシャ系の母の間に生まれたユダヤ人である。映画の冒頭ではボラットの故郷であるカザフスタンの村「クーセク」の風景が描かれる。ボラットは実際にはカザフスタン人ではないのだから、それは虚構の存在である。『ボラット』における虚構の扱われかたは脱力的で、ボラットは村の女性が引く台車に乗る男を紹介し、彼は「村のレイプ魔 ウルキン」と述べる。また金髪でやや肌が褐色の女性と熱烈なキスをした後に彼女を「私の妹です カザフスタン売春選手権で4位入賞」と紹介する。映画がはじまって数分のことではあるが、私たちはここに暴かなければならないうそは存在しないことを理解する。
続いてボラットはアメリカ合衆国にわたり、旅をする。ボラットにまつわる事柄が虚構であることは映画の側としても何ら隠すところはない。しかしアメリカ合衆国の人々については俳優の芝居もあればそうではないものもある、ということになっている。ボラットに比べればアメリカ合衆国の人々のどこからどこまでが演技で、そうでないか、というのは「うそ暴きゲーム」としてまだ成立しそうである。ただし多くのアメリカ合衆国の人々のボラットの下品な振る舞いに対する反応は取り立てて驚くようなこともない。アメリカ合衆国の人々の本音を暴くという形式にはなっているが、それがアメリカ人の本音か、ボラットに合わせているだけかというとはっきりしない。この映画は風刺としてもそれほど刺激的ではない。

映画は多愛もないコメディを繰り広げ物語は終わる。ボラットは旅の途中であった女性と国に帰り幸せに暮す。映画を見終わっても宙吊りになることは何もない。しかし映画から離れ、ディスプレイの検索窓にカザフスタンを打ち込み、しばらくすると状況は一変する。ボラットがうそであることは明らかであり、何一つ騙される余地はない。しかしそうではなかったことがそこで初めてわかる。ボラットは虚構である。しかし具体的にどれが虚構だろうか。あるものが虚構であるためには、何か一つでも虚構を含んでいれば十分である。虚構であるという情報は何を私たちに伝えるだろうか。宙吊りが体験され、虚構を暴くことの意味が理解される。

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