印刷

「映画的なもの」と「映画的でないもの」について

これから我々にとって映画的なもの、映画的でないものについて述べます。はじめに映画とは何か、なぜ我々がそれを楽しむことができるかについて説明します。続いて、映画的なものとそうでないものの例を紹介します。最後に今日の我々の環境における「映画的なもの」と「映画的でないもの」について紹介し、それぞれの価値について論じます。映像の情報はリンクとして示すので必要があれば参照してください。

映画は我々がメディアと呼ぶものの一種です。メディアとは何らかの物質を介して我々の身体感覚を刺激し情報を伝達するものです。映画は映像と音声によって構成され、我々は視覚と聴覚で情報を受け取ります。我々はそれを一定時間、動かずに鑑賞して楽しみます。これは我々にとって娯楽の一種でもあります。娯楽はそれをすること自体が我々に楽しさをもたらします。なぜ映画は娯楽なのでしょうか。

一般的に、我々は楽しさを何らかの行為をすることによって得ています。我々は走ったり、声を出して音を鳴らしたりします。これらはスポーツや音楽という娯楽です。しかし映画はそうではありません。なぜそれで楽しむことができるかというと、映画にあらわれる人物に同一化するからです。

同一化とは、ある対象の体験を自分の体験として感じることです。我々がこうした能力をもつという概念は以前からありました。最近ではミラーニューロンと呼ばれるものの発見によって、この概念に物質的な根拠がもたらされました1。我々の意識は、脳と呼ばれる器官で生じています。脳はいくつかの機能的に特化した部位にわけられます。また最小の構成単位のひとつとしてニューロンというものが重要です。意識の発生に中心的な役割を果たす部位として大脳皮質があります。大脳皮質は、運動と知覚の機能がそれぞれことなる領域で排他的に分担されていると古典的には理解されていました。しかしミラーニューロンはある行為に対して、その運動をするときにも、その行為を見るときにも活動するものとして発見されました。つまりこのニューロンにおいては運動と知覚という排他的な対立はなかったのです。今日の我々の理解では、我々の脳においては運動をするときにも視覚や聴覚の情報を目標として利用したり、映像や音を理解するときにも運動の情報として理解するなど、運動と知覚は相互に補完しあうものだと考えられています2

映画の話に戻ります。映画はカメラとマイクという装置で人の姿と音声を記録します。それを機械で再生し、鑑賞する。再生された人の姿と音声を行為として理解することで我々は映画の世界を追体験する。この機能によって、我々は自分が行為をせずに、人の行為を見たり聞いたりするだけでも楽しむことができます。 だから、人物が映像に写ったり音声を発したりすることが映画にとって重要です。映画の映像の例(リンク)をリンク先に示します。

映画はこのように行為を追体験するものであり、その方法は他人の姿を映すことでした。しかし追体験には他の方法もあります。それは他人の見ている映像を画面に写すことです。これを我々は主観的映像と呼んでいます。

主観的映像で映画を構成するという試みには過去にもありました3。しかし我々はそれを映画として楽しめませんでした。主観的映像はビデオゲームと呼ばれるメディアにおいて使われています。ビデオゲームは映画と同じ機能に加え、メディアに対して我々のほうから働きかけることもできます。メディアの装置によってゲーム内世界が構成されます。我々はその世界についての情報を鑑賞すると同時に、ゲーム内のある対象にを操作することもできます。ゲームでは対象への同一化だけでなく、対象の操作、またその操作の結果の鑑賞による再同一化という楽しみ方があります。ゲームには、我々の同一化と操作の対象が画面に映しだされるもの(リンク)と、そうでないもの(リンク)がありますが、どちらも同じように娯楽として楽しまれています。

ここまでの議論から、我々が映画として楽しめる映像とそうでない映像をわけることができます。それぞれを映画的なもの、映画的でないものと呼ぶことにします。映画的なものは、我々が同一化する対象が画面に映っている映像。映画的でないものは、同一化の対象が画面に映っていない映像です。

この分類は映像をどちらかにわけます。しかし今日の我々の環境では、多様な映像メディアが相互に陥入して映像が生み出されるため、個別の映像をどのメディア的であるか分類することは困難です。そこで映画的なものと映画的でないものの分類を、ある映像に働きかける「函数」として定義することが提案されています4。以下では「函数」として「映画的なもの」「映画的でないもの」にどのようなものがあるかを、同一化の観点から紹介します。

「映画的なもの」は映像を映画的にするものです。それはつまり同一化の対象にならないものを、同一化の対象にすることです。例を2つ紹介します。

ひとつは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』です(リンク)。この映画は主観視点ですが、その視点は人物のものではなく、人物が持ったカメラであるという設定になっています。我々は画面の揺れなどからそう認識します。またカメラを持った人物の音声も存在します。こうしたことが手がかりとなり、画面には映らない人物に対しても同一化することができます。主観的視点の映像を映画的にしているということでもあります。

もうひとつは『ロックンロールは鳴り止まない』のPVです(リンク)。PVとは音楽作品を流通させるために付随する音楽作品と映像で構成されるものです。この映像の中に、この音楽作品を作成した人々が自らの映像とその上に文字が重なっている様子が映しだされています。このPV内でときにあらわれるモニタ上の映像は、この音楽作品を作成した人々がネットワークで配信している映像です。そこに重なる文字は、映像の受信者たちが文字を送信し映像に重ねられたものです。この映像と文字の重なりを再び受信者たちは受信します。その様子がPV内に映されています。ここで同一化の対象にならないものは、映像の受信者です。近年、映像配信の受信者たちが文字を映像に重ね、それが再配信されるメディアがあらわれました。このメディアによって、これまで映像に存在せず同一化の対象とならなかった受信者に、文字を通して同一化することができるようになりました。このPVはその様子を映すことで新しい同一化の対象を映像内に取り込んだ例です。

次に「映画的ではないもの」について述べます。「映画的でないもの」は映像を映画的でないものにします。同一化の対象であるはずのものがそうではなくなります。

この例は「ポケモン オタチだけで殿堂入りを目指す」です(リンク)。これはゲームがプレイされる画面とゲーム音声を記録した映像です。この映像には2つの同一化の対象が存在します。ひとつはオタチとニコぼうという対象で、それぞれ動物と人間の姿で画面にあらわれ、操作が可能です。またこの動画の作成者でありゲームを遊ぶ人の存在も、ゲームの操作を通して同一化の対象となります。我々はこれらの対象に対して同一化し、この映像を楽しみます。

しかしこの動画シリーズのラストで彼らは同一化の対象ではなくなります。ラストではこの動画の作り手からのメッセージが、ニコぼうからのメールとして鑑賞者に届きます。それには映像を見た人々への感謝の言葉などが記されています。このとき我々はもはや、ニコぼうに対して同一化することはできません。なぜならそれは我々を見ているかのように、我々に感じられるからです。こうしたものに同一化することは我々には困難なことです。このとき我々はカメラをとおして同一化の対象を眺めるのではなく、対象と自分が同じ世界にいるかのように錯覚します。この映像の制作者は、映像に作品としての固有のリアリティを持たせる手段として映画的にしないことを選んだのです。これは今日我々がゲーム的リアリズムと呼んでいるもののひとつとして分類することもできます5

以上で「映画的なもの」「映画的でないもの」の説明がおわりました。最後に両者にどのような価値があるかについて述べます。「映画的なもの」は同一化の対象を生じさせるものです。それは我々を映像の中に取り込むと同時に、それを鑑賞する我々をカメラにする「函数」です。これは我々の知性のあり方のひとつです。対して「映画的でないもの」はある対象を同一化不可能なものにし、同時に我々にカメラであることを止めさせる「函数」です。これは我々が生きるうえでの前提となる感覚のひとつです。

1) マルコ・イアコボーニ 著 ; 塩原通緒 訳.  ミラーニューロンの発見 :.  早川書房, 2009.5. 363p ; ISBN 978-4-15-320002-9

2) ジャコモ・リゾラッティ, コラド・シニガリア [著] ; 柴田裕之 訳 ; 茂木健一郎 監修.  ミラーニューロン.  紀伊國屋書店, 2009.5. 220, 30p ; ISBN 978-4-314-01055-9 :

3) なべやきの映画・ゲーム雑感 「[コラム] 『DOOM』に連なるミリタリーSF映画史と一人称視点映画史」 http://ch.nicovideo.jp/nabeyakiudon/blomaga/ar530757

4) 渡邉大輔 著.  イメージの進行形 :.  人文書院, 2012.12. 322p ; ISBN 978-4-409-10031-8 :

5) 東浩紀 著.  ゲーム的リアリズムの誕生.  講談社, 2007.3. 339p ; ISBN 978-4-06-149883-9 :

文字数:3929

課題提出者一覧