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ポスト昭和の想像力

5限が終わるのを待ってた わけもわからないまま

椅子取りゲームへの手続きはまるで永遠のようなんだ

真っ赤に染まっていく公園で自転車を追いかけた

誰もが兄弟のように他人のように先を急いだんだ それは

 

ファンファーレと熱狂 赤い太陽 5時のサイレン 6時の一番星

 

(andymori(2006)「1984」『ファンファーレと熱狂』 Youth Records)

 

これは2010年に発売された、日本のロックバンドandymoriのアルバム『ファンファーレと熱狂』の収録曲である「1984」の歌詞の一部である。

具体的な土地は登場せず、特定の年代を指示するようなガジェットもない。作詞した小山田壮平は1984年生まれで、彼の少年期のものとして歌詞に描かれた情景は、昭和のものではないはずである。しかし、ぼくはこの曲を聞くとき、自分の中にある昭和のイメージが再強化され、ふわふわとした未来へつながっていくような感慨と不安を覚える。昭和には奇妙なノスタルジーのちからが付与されている。

他方で、昭和にはべつの顔もある。先日twitch.tvという動画ストリーミングサイトで、ある日本人の配信を見ていたときのことだ。それは海外のオンラインゲーム大会の実況配信だった。日本人の配信者がシンガポール人のプレイヤーを評して、きもい、うざい、と言った。それは文脈的には褒め言葉で、対戦相手にとってこの世界的名手であるシンガポール人はいやらしい存在だという意味だったが、チャット欄には「この日本人配信者はレイシストだ」というコメントが英語で寄せられた。おそらくコメントを投げかけた人は日本語が多少なりともわかるから、きもい、うざい、という単語に反応したのだろう。実況している間はチャットを見ないこの配信者の名誉のために、というわけでもないが、ぼくはつたない英語で弁明を試みた。それが伝わったかどうかはわからないが、チャット欄の彼はほどなくして去ってしまったようだった。

このようなコメントを目の前で見ることは初めてだったが、驚きはなかった。日本人に対するネガティブなイメージが広く行き渡っているらしいことは、なんとなく知っていた。しかし今日の状況は、過去において予想できてはいなかったように思う。

三島由紀夫は昭和45年に発表された随筆『果たし得ていない約束―私の中の二十五年』の中で、「このまま行つたら『日本』はなくなつてしまうのではないか」という懸念を表明している。彼にとって戦後日本が抱える問題はアイデンティティの喪失と、自衛隊とアメリカの関係だった。しかしそれから50年近く経過して動画サイトのチャット欄に流れたコメントは、全く別の日本の姿を映している。その視線の先にあるのは表面的には友好的でありながら実際には閉鎖的で、反省の素振りを見せつつもどこかで過去の歴史を否認したいと機会をうかがう日本の姿ではないだろうか。

昭和の複数の顔、そのどれを見るかで、私たちが未来にたいして準備すべきことは違ってくるだろう。

世界はひとつにつながろうとしている。多様性の尊重という言葉も聞かれるが、日本ではそれはどこかで不安な自己を正当化する言葉にも聞こえてしまう。

イギリスの生物学者、リチャード・ドーキンスは、つながりの時代について考えていた生物学者だったのかもしれない。

リチャード・ドーキンスは1976年に出版された『The Selfish Gene(利己的遺伝子)』で、種や個体ではなく、遺伝子を進化において選択される対象として見なすことを提案している。20世紀前半の優生学や、ファシズムによる民族弾圧の悲劇への反省がドーキンスの主張の苗床となった、というのは飛躍が過ぎるかもしれない。ドーキンスの主張は、強者の論理のように聞こえることもあるが、その強者はせいぜい優れた、あるいは恵まれた境遇にある個体であり、利他的に振る舞うこともできる個体である。

つながりの時代においては、アイデンティティとして選択され受け継がれていくものは国家や民族ではなくより細かなものであるという仮説に立ってみる。ある立場の人たちからすれば、それは全てが無くなるにひとしいのかもしれない。しかしそれが不可避である可能性に備えること、そうした未来に想像力をめぐらせることもこれからは必要になるだろう。ドーキンスはヒントを示していたのかもしれない。それはポスト昭和の想像力になるのではないだろうか。

最後にまたべつの可能性について。

2012年、イギリスの科学雑誌『Nature Communications』に、甲虫の飛翔能力の退化とそれによる種の多様化についての研究記事が発表された。記事のタイトルは「Loss of flight promotes beetle diversification」である。昆虫は飛翔能力を獲得することで広い範囲へとちらばった。それによって昆虫は大きな繁栄を得たと考えられている。しかし一方で甲虫目の昆虫では飛翔能力を退化させた種が10%ほど存在する。飛翔能力の退化はエネルギーコストの低下にもつながるが、それだけでなく、飛翔能力の退化が異所的種分化――その生物の行動範囲よりも大きく地理的に離れたために、互いの遺伝子の交流がなくなり種が分化する現象――を促進し、種数、つまりは多様性を増やすと考えられる。記事ではこの仮説が検証され飛翔能力のない種においてより分化が進むことが示されている。

これは生物の遺伝子に関する研究である。だから人間の文化的な領域にもそのまま通じるとは限らない。しかしここはあえて敷衍を試みよう。

『Dota 2』というゲームがある。米国のValve Corporationよりリリースされたゲームで、無料で遊ぶことができる。かんたんなアクションとちょっとした戦略要素で構成された、カジュアルな5人対5人で遊ぶオンライン対戦ゲームである。ゲームの細かい内容や誕生の経緯には立ち入らないが、このゲームは全世界でプレイされ、賞金のでるトーナメントがあり、賞金やスポンサーからの給料で生活するプロの選手が存在する。いわゆるEsportsと呼ばれるゲームのひとつである。

『Dota 2』はビデオゲームだ。身体能力は必要ない。囲碁や将棋のように特別な知的能力も要求されない。このためゲームを遊ぶ敷居は低く、『Dota 2』は幅広い人気を獲得している。しかしこれを競技的なスポーツの一種とした見た場合、トップレベルでの差をつけることが容易でないという問題がある。『Dota 2』で差がつくのはちょっとした手先の技術と、バージョンが更新される毎にわずかに変化するゲームバランスについての知識である。技術は個人の能力に帰属するが、知識は開かれている。遊びの中で発見された強い戦術は、プレイヤーたちによって瞬く間にコピーされ流行する。毎週のようにプロ選手の大会がライブ配信され、最先端の戦略がただちに知れ渡る。

これは、先に述べた甲虫のはなしに例えると、つながっているがゆえに多様性が生まれにくい状況である。しかし実際には大陸間、地域間での多様性が存在する。なぜならオンラインゲームには地理的隔絶が存在するからだ。

世界は情報技術によってひとつにつながっている。しかしオンラインゲームにおいてそれは絶対ではない。『Dota 2』であれば日本から遊べるのはアジアからせいぜいアメリカの西海岸まで。『Dota 2』はミリ秒単位で状況が進行するゲームだから、光の速度のためにプレイヤー間の操作をストレスなく同期させられる範囲には限界がある。その結果ヨーロッパやアジア、北米といった地域ではそれぞれがほぼ独立に異なる戦術を進化させるということがときに起こりうる。こうした事情から情報技術革命以後の世界においても、オフラインあるいは近距離のサーバーを介して行われるゲームイベントはいまなお価値のあるものとして存続している。『Dota 2』における最大の祭典は、毎年アメリカのシアトルで開催される『The International』である。主要な地域と大陸から招待されたチーム、そして各地の予選を突破してきたチームが一堂に会する。その様子はインターネットでライブ配信され、同時に百万単位の人々がそれを視聴する。視聴する分には多少の時間のずれは問題にならないのだ。また配信の実況も複数の言語で実施される。

多様性は、通信技術がおいつかないスケールの同期的な時間でうまれる。そのまわりをゆるやかなつながりの時間が取り囲む。ポスト昭和の想像力としてぼくが提示したかったもう一つの可能性とは、このようなものである。

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