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猫的批評

「ゲンロン」の座談会「現代日本の批評」について対話形式で批評せよ、という課題が与えられたので、対話の相手を考えたのですがどうにも思いつかない。そもそもわたしは周りのひとに批評の話をすることがほとんどなくて、困ったなと。そこで、まあ、暇そうにしているあなたを見かけてお願いしてみようと思ったわけです。

猫:そりゃぼくは猫だからつねに暇だけどね。しかし猫に批評の話ができると、きみは本当に思っているのか。

なんとかなるんじゃないですか。それに今回の課題は「批評についての対話」について批評せよ、というややイレギュラーなものだから、案外猫のほうがいいかもしれない。主任講師の佐々木さんはよく「外部に立つことが批評だ」といったことを話しているけれど、あなたはそれこそ人間社会の外側にいる存在だから……。

猫:人間同士の対話を批評するには好都合なわけだ。それはそうかもしれないな。きみはともかく、ほかの受講生には「現代日本の批評」座談会のメンバーと実際に付き合いがあるひともいるかもしれない。そうなると口を出しづらくなることはあるだろうね。その点、ぼくは猫だから人の悪口は得意だ。

できれば悪口はやめてほしいですが……。それはともかく、まずは率直な意見を聞いてみたいです。読んでみてどうでしたか。

猫:私生児の話がおもしろかった。「父子の関係に入らずに、父子の関係をずっと横で見ているような存在」が、じつの子よりも父の欲望をいちばん強く受け継いでしまうという。座談会では柄谷行人はそうした「私生児としての読者」の存在を想定していなかったのではないかとあって、なるほどなと思ったよ。

東浩紀を柄谷行人の「私生児」として見立てるのはどうかという話も出ていましたが、私生児の問題にかぎらずこの座談会は全体的に柄谷の評価をめぐって展開されていますね。東さんは柄谷行人について「本を書くときに、自分の読者がまったくちがう知的文脈の読者と結びつく可能性を想像していなかった」と話されていましたが。

猫:それを柄谷批判として読むひとは多いだろうけれど、ぼくはそうじゃないと思う。たとえ私生児の存在を想像できていたとしても、じつの子より私生児を優先する父はいない。福嶋亮大が『探究Ⅱ』を参照して「固有名」が社会的ネットワークに放流された私生児なのではないかと指摘していたけれど、「私生児」は書いた本人さえ与り知らないところで勝手に生まれ出るものでもあって、世の中にはそうした固有名=私生児を一人もつくれない書き手だって多いことを思えば、柄谷の存在感は認めざるをえない。ところできみにとって柄谷行人や東浩紀はどういう存在なんだろう。

わたしは89年生まれなので、柄谷さんとは50年ほど年の差があり、東さんとは20年ほどの差になるんです。父子の平均的な年齢差からはどちらも少し外れていて、だからかもしれないけど、わたしは柄谷行人も東浩紀も「父」として読んだことはありませんでした。「父」だったら反発するかもしれないけれど、柄谷行人はとくに「祖父」の年代のひとだから、かえって従順に読んでしまう。他方、東さんと柄谷さんは30年差で、これはほとんど平均的な父子の年齢差といっていい。そのことの意味はわりと大きいのではないかと思います。

猫:きみの世代だと「父」と意識して読むような有力な批評家が少ないね。となると、東が柄谷との関係を子や私生児の言葉で考えるのがわかりにくいかもしれないな。そういえば、座談会で語られたとおり柄谷の「私生児」が東浩紀であるとして、じゃあ柄谷の「子」はだれになるんだろうね。

大澤信亮さんはどうでしょうか。2010年に『神的批評』で「柄谷行人論」を書いています。柄谷を読んできたひとがその応答として柄谷について書くというのは、父子の関係を匂わせるものがある。

猫:それはどうかな。きみはさっき「外部に立つことが批評だ」なんて言ったけれど、柄谷の影響下で柄谷を批評するというのは、対象との距離が近すぎるように思えないか。

そういう批判はあるでしょうけど――それにわたしは大澤信亮さんの読者ではないので、何かを言う権利もないですが――それもひとつの批評のあり方だと思います。ふつうに考えれば「影響を受けた」とか「好きだから」という理由は、文章を書くもっともシンプルな理由ではある。もちろん大澤さんもそれだけで書いているのではないと思いますが。

猫:座談会の話に戻るけれど、「子」に自分のことを書かれることを、はたして「父」は望むだろうか。あるいは「父」としてそのような応答に対してどういうふうに振る舞えばいいか。柄谷の「父になれなさ」は、そういう実存的な悩みでもあった。一方であの時期は、父と子、つまりは大人と子供の世界がきれいに分かれていた近代という時代そのものが終わる時期だった。

今回の座談会で「私生児」が出てきたとき、東さんが『一般意志2.0』でルソーを論じたことを思い出したんです。ルソーは教育について考えた思想家ですが、現実の父としては無責任だった。彼の『エミール』は近代の始まりにおいて、まさに大人と子供の世界を分かつ本だけれど、そのエミール自体は親のいない孤児だった。東さんがこの時代にルソーを読みなおしたことと柄谷を再検討したことが、つながっている気がするんです。

猫:一生をかけて一つの問いに取り組むのが批評家なんだという言い方を柄谷行人はするけれど、そこに東浩紀という批評家の固有の問いがあるのかもしれないね。せっかくだから、きみが批評を書く理由も聞いてみようか。

えっと……正直、あまり良い答えは思いつけそうにないです。再生塾もそろそろ終わるわけで、その後のことを考えなきゃとは思っていますが。

猫:すぐに答えを出す必要はないさ。大澤聡の課題にあるように、「書き進める悦楽」があるうちはそれを楽しめばいい。

課題文にある大澤さんの指摘には反省させられました。自己模倣の回路に嵌ってはいないか。結末が見えてきたことで、どこか以前にはあったテンションが失われてはいないかと。わたしは人間だからどうしても試合の結果には左右されてしまうけれど、それとはべつに、書く理由をしっかり持っていたいです。

猫:きみたちは時間を過去から未来へ飛んでいく矢のように考えるよね。だから昨日がダメな日で今日もダメな日だと、どうしても明日も……とか考えてしまう。それに、昨日食べたものが今日も食卓に出てくると飽きるだろう。でも猫はそんなふうに思わない。毎日おなじキャットフードで構わない。なぜならぼくにとってこの一日は、ほかの一日と較べて良いか悪いかにかかわらず「この一日」だからだ。前回も登壇できなかったからとか、もうすぐ企画が終わってしまうからとか、そんなことは考えず、ぼくのように「この一日」を楽めばいいよ。

猫のようになって批評を書く、ということでしょうか。それは楽しそうですね。猫になれるかな……。

文字数:2828

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