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風の技術とマンダラの深い夢

中沢新一は1978年にはじまるチベット密教の体験について、「仏教的伝統が空とか無と呼んでいるそのような解き放たれた意識状態」にたどりつくため「チベット的技術(テクノロジー)」を選びとったと述べている。「技術」と彼が言うように、それは修行によって到達可能なものであり、麻薬による幻覚や麻酔的な自己催眠のたぐいではない。現に中沢は、フランス人の東洋学者アレクサンドラ・ダヴィッド=ニールやドイツ人の宗教学者ラマ・ゴヴィンダが訓練を通じて密教を体験する過程を紹介し、みずからもその領域に足を踏み入れていく。したがって『チベットのモーツァルト』や『雪片曲線論』といった中沢の著作は、チベット密教をめぐる「思想書」であるとともに、意識についての「技術書」としても読まれるべきであるし、その記述はいまなお古びていないどころか、むしろ現代の情報技術を前提にすることで、一層アクチュアルに読みなおすことができる。

中沢はチベット密教の「技術」について具体的に言及している。そのもっとも印象的な例として『チベットのモーツァルト』に「風の卵をめぐって」という短い文章がある。それは東洋学者ダヴィッド=ニールが、中央アジアの高原地帯で「風の行者」と呼ばれる仏教修行者と出会うシーンから始まる。二週間ほど無人のチベット高原であてどなく旅をつづけていた彼女は、ふいに「はるかむこうの平原に小さな黒い点のようなものがかすかに動いている」のに気がつく。双眼鏡をのぞいてみると、それはこちらに向かって歩いてくる男の人影だった。

しかしこの場合、「歩いてくる」という表現はあまりふさわしくないように感じられた。それというのもこの人影が、異常な身軽さ、信じられないほどの速さでこちらに近づいてくるのがわかったからである。男はぐいぐいと近づいてきた。

彼女はまた、そのときの印象を次のように述べている。

まるで空中に浮き上がり、跳びはねながら前方に進んでいくように思えた。ボールの弾力を身につけて、足が地面に触れるやいなや軽くバウンドさせている、といった趣きなのだ。おまけに彼の足どりは時計の振り子のように正確だった。

この「風の行者」の歩行とよく似た状態を、宗教学者ラマ・ゴヴィンダはある極限状況下で体験している。ある日、彼は氷河湖の東岸で写生に夢中になり時を過ごすうち、遠くのキャンプにもどる時期を逃してしまう。朝からほとんど飲まず食わずでいたことに思い至り、道をさがしている余裕もない。不安にかられながら彼は夜のチベット高原をさまよい歩くこととなる。だが、歩き出した彼は「裸足にサンダルをひっかけただけの自分が、すべりもせずよろめきもせず玉石から玉石へと飛び渡っている」ことに気づく。ゴヴィンダはそのときの感覚を次のように述べる。

両足はまるで憑かれたように、ほとんど機械的に動いていくのである。周囲の物が夢の中に出てくるようにどこか超然としているのにも気がついた。自分の身体でさえ意志の力からなかば切り離され遠のいていく感覚なのだ。

「風の行者」の歩行はある意識変容のもとで可能になり、中沢はそれを「風の瞑想」と呼ぶ。だがチベットの極限の自然下で生じるそのような変容を「時計の振り子」のようだとか「機械的」と称するのは、いささか奇妙な表現ではないだろうか。彼らは機械文明から遠く離れたチベットの地で、むしろ身体の機械化を目撃/体験したと証言する。さらに中沢は『雪片曲線論』でチベット僧チョギャム・トゥルンパの言葉を紹介しているが、トゥルンパによれば密教の修行とは「高速道路を車でとばしていくこと」であるらしい。いったいどういうことか。彼は次のように語っている。

密教を修行する者は自分の心の内部に分け入っていきます。そこは複雑な地形や見たこともないような建物にみち、信じられないような力を持った風があらゆる方角から吹きつけています。そのためそこを一気に駆け抜けていくためには、自分が操る車の性能と機構をすみずみまで知り抜き、道々で出会う障害物を切り抜けるための運転テクニックを充分に身につけていなければならないでしょう。

「運転テクニック」というあからさまに文明的な比喩を用いているのは、トゥルンパの説話がアメリカの聴衆を前になされたものだからでもあるだろう。しかし中沢がそれをわざわざ紹介するのは、彼が「風の行者」の瞑想歩行を「技術」としてとらえているからだ。さて、そうであるならば次のような問いを素朴に考えてみることもできるだろう。「風の瞑想」は、はたしてチベット密教の修行者だけが感じられるものなのだろうか。身体を「時計の振り子」のごとく「機械的」に動かされる意識状態については、私たちにも聞いた覚えのある経験がないだろうか……?

ライブしてるとたまに
途中でトランス状態になるの自分だけ?
全部見えて指も勝手に動くみたいな感じ

これはゲームジャンルのひとつである「音ゲー(音楽ゲーム)」についての匿名掲示板の書き込みを抜粋したものだ(※1)。ここではあえてプロゲーマーの発言ではなく、アマチュアのプレイヤーの発言を拾ったが、このような「トランス状態」はゲームのプレイヤーならば多かれ少なかれ経験している感覚だという。この感覚は「風の行者」の歩行ときわめて近いものではないか。

リズムや音楽に合わせてボタンを叩くタイプの音ゲーにおいて、初心者と上級者を分けるのはいかに素早く大量のノーツを処理できるかにかかる。あるていど訓練すればだれもが経験することだが、ゲームを始めた頃は到底叩ききれなかった量のノーツを、なかば無意識のうちに処理できてしまう瞬間がおとずれる。目では拾えなかったノーツを、指先が勝手に叩いてしまうというわけだ。このような状態を、先の書き込みは「トランス」と表現しているのだろう。

音ゲーに馴染みがないひとには、プロゲーマーのプレイ映像を検索してみることを勧めたい。彼らはまるで機械のようにノーツを叩きつづける。プロゲーマーが優れているのは、指先を「まるで憑かれたように、ほとんど機械的に」動かすための意識変容を、それこそ意識的に起こせるところにある。たとえば画面にあらわれるノーツに対して人間が一秒間に反応できる数には限界があるが、高難易度のプレイではそれより多くのノーツが高速であらわれることがままある。そのような場合、プロの音ゲーマーは指先を痙攣させることでノーツの速度に対応してみせる。「意志の力からなかば切り離され遠のいていく」身体の機械化を、意識的に生じさせること。東洋学者ダヴィッド=ニールがチベットの高原で出会った「風の行者」の「異常な身軽さ、信じられないほどの速さ」は、このような例をもとにすれば「技術」として理解することができる。

ここでゲームを例に出したのは、私たちがいま生きている高度に進んだ情報環境を前提に、中沢がチベット密教を通じて体験した数々の変容の「技術」を、それとは別の経路からさぐるためだ。例はほかにもある。たとえば今年グーグルが開発した画像認識のためのアルゴリズム「Deep Dream」は、あらかじめ学習させたパターンをもとに認識対象となる画像へノイズを与えることで、サイケデリックな(「人工知能の見る悪夢」とも例えられる)画像を生成させる仕組みだが、「Deep Dream」が生みだす画像群――それはたとえば動物を抽象画風に、あるいは絵画を渦巻き状に変形させる――は、中沢が『雪片曲線論』で展開している「マンダラ」をめぐる思索を想起させるものがある。

普通マンダラは「密教の真理」を示すソリッドな構造モデルだと考えられている。一般にそれは、中心とそれを取りまく四つの方位からなる基本構造の組み合わせにより描かれる、きわめて安定的な象徴メディアである。だが中沢は、インドやチベットに残されている密教文献やヒンドゥ教、ジャイナ教などの図像表現をこまかく調べることで、その背後に「複雑な螺旋状の渦巻き」を基本モデルとする、マンダラの流体的な性格を夢想する。

実際、マンダラの図像表現の背後に意識をめぐる流体的思考がひかえていて、しかもそれが「意識の自然状態」と呼ばれるものを表現しようとしているとしたら、いまだかつて一度も完全なかたちに描かれたことはないが、図像表現されたマンダラというマンダラすべてが潜在的な夢としていだいてきたそのような理想のマンダラは、一見きわめてパラドキシカルに見えるいくつもの特徴を備えていなければならないはずだ。

「理想のマンダラ」の特徴を中沢は次のように述べる。「密教思想を忠実にグラフィック化するそのようなマンダラが存在するとしたら、それは宇宙にくっきりとした単純なかたちをもたらすソリッド・モデルであるどころか、スケールの異なる無数の渦巻きでできた、とてつもなく怪物的な一種の渦モデル、流体モデルであるということがわかる」。これはほとんど「Deep Dream」の説明としても通じるような文章である(実際、マンダラをDeep Dreamで処理させると無数の渦巻きが画面に生じる)。このことを単なる偶然と片づけられないのは、続く思考において中沢が、「理想のマンダラ」を図像表現するにはこれまで行われてきたような円や直線を組み合わせて描くユークリッド幾何学的な画法ではなく、1970年代にマンデルブロートが導入したフラクタル幾何学を用いるべきだと述べているからだ。コンピュータグラフィックの生成アルゴリズムとして用いられるフラクタルこそが、マンダラの潜在的な「夢」を夢見るというわけである。

ここで先の引用文から「一見きわめてパラドキシカルに見える」という表現に着目しよう。そもそも中沢のチベット体験は、そのようなパラドキシカルな視線に貫かれている。たとえば前述の「風の卵をめぐって」のタイトルはドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』にある「器官をもたない身体」をめぐる論考から採られているが、中沢はそこから「科学と神話の、胎生学と神話学の、生物的卵と心的ないし宇宙的卵の根源的な収斂がおこっている」「純粋な強度の場」として「器官をもたない身体」という表現を引用し、「身体とは、そこをさまざまな強度がたえまなくつらぬいていく柔らかい卵のようなものとなる」と語る。強度と柔らかさを結ぶこのパラドキシカルな一文は何を意味するか。ドゥルーズ=ガタリの論考は、次の文章から始まる。

とにかく、きみたちはそれを一つ(あるいはいくつか)もっている。それがあらかじめ存在しているからでも、出来上がったものとして与えられているからでもない、――見方によってはあらかじめ存在するのだが――とにかく、きみたちはそれを作り出すわけであり、それを作り出すことなしには、欲望することなど不可能なのだ

このとき、「見方によってはあらかじめ存在するのだが――とにかく」という留保を中沢は察知する。見方によっては「それ」は存在しているのかもしれない、しかしそんなことが問われているわけではないのだ。中沢の関心はむしろ、それを作り出す「技術」の側にある。文章は次のように続く。

――そしてそれは、きみたちを待っている。訓練であり、避けがたい実験であって、この実験はきみたちが企てるときには、すでになされており、企てないかぎりは、なされないわけだ。

「訓練」や「実験」によって、身体は柔らかい卵のようなものとなる――身体があらかじめ柔らかな卵であるのではない、あるいは見方によっては柔らかな卵であるのかもしれないが、しかしそう「である」かどうかはここでは問われていない。そうではなく、柔らかな卵のようなもの「となる」こと、「振り子時計」や「車」を操るように「チベット的技術」によって意識を変容させることこそが問われているのだ。だから中沢はチベット密教を前近代的な神秘主義の枠組みに固定化することを選ばない。流体的に「たえまなくつらぬいていく」――それが密教の潜在的な夢に接近するための方法であり、中沢が「技術」という語を選ぶ理由はここにある。そのかぎりにおいて、情報化された私たちの社会でもマンダラの夢を見ることは可能なのだ。

 


※1 http://www.デレステまとめ.com/archives/1044275442.html

文字数:4995

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