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いーって笑って

子どもの頃から合唱が苦手だった。「笑顔で」「ひとつになって」「声を合わせて」そう言われる度に戸惑いを感じた。母がギターを、姉がドラムをやっていたから、べつに音楽が嫌いだったわけじゃない。ただ、みんなで歌うことにはどうしても慣れなかった。かといって集団行動を積極的に拒否する勇気もなかったから、合唱せざるを得ないときには、つねに歌うふりで通してきた。実際に声を出すよりも、口パクをしているときのほうが、求められる表情を作ることはできている気がした。

長年そうやって声を出すふりをしていると、しだいに口パクをしているひとを見分けられるようになる(直接問いただしたことはないから勘違いかもしれないけれど)。見るからにやる気のなさそうな子はともかく、しっかり歌うふりをしている子の演技も、なんとなく分かってくる。指揮者を見ずに遠くを眺めているやつは怪しい。口の開き方が大きくなったり小さくなったり安定しないやつも怪しい。でも私は彼らのサボりを告発したくて観察していたわけじゃない。合唱を聞きながら、私はむしろ彼らの声に興味を持っていた。どんな声をしているんだろうかと。聞き慣れたみんなの歌声がアンリアルに思え、音にならない彼らの声のほうがリアルに感じられることもあった。

小学校の同級生に耳が聞こえない子がいた。クラスが違っていたし、特別学級のほうにいることも多かったから、見かけたことはあまりない。彼のことを覚えているのは、クラス合同で合唱の練習をすることになったとき、彼がみんなの中に入って一緒に歌っているのを、意外に思ったからだ。彼はどうやら歌っているようだった。口の開き方は安定していなかったけれど指揮者をじっと見つめていた。自分なら絶対休むんだけどな、と思った。聞こえないから歌わない。合唱なんてつまらないことを休める、格好の口実じゃないか。

大今良時の『聲の形』(2013-14)を読んでそのときの気持ちを思い出した。『聲の形』は聴覚障害を持った女の子がいじめられ、教室内で孤立するところから始まるが、その原因となった出来事が合唱コンクールなのだ。転校してきた彼女は、聞こえの教室の先生の「善意」から合唱コンクールに参加することになる。けれど音程を取ることもできない彼女を入れたクラスは入賞を逃してしまい、結果的にそれがいじめの発端になる。

私がいた小学校ではそのようないじめは起こらなかった。そもそも私のように歌うふりをして怠けている生徒を放置する(いま思えば教師には当然バレていたはずだ)くらいで、合唱が上手いか下手かなんてたいした問題じゃない、という雰囲気があった。けれどみんなで歌うことが苦手だった記憶はいまでも残っていて、合唱コンクールで定番の曲はいまだにどれも好きになれない。たとえば2008年のNHK全国学校音楽コンクールで課題曲だったアンジェラ・アキの『手紙 ~拝啓 十五の君へ~』もそのひとつで、2010年には阪神・淡路大震災から15年の節目として制作された関西電力のCMでも繰り返し流れていたから、当時京都にいた私は何度となく聞いたのだけれど、聞く度に「好き嫌い」とはべつの、にがて、としか言いようのない気持ちにさせられた。

この曲を題材にした作品がある。長崎県の五島列島を舞台に、ピアノをやめた元ピアニストの臨時音楽教師と中学校の合唱部の生徒たちが、コンクールの課題曲「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」を歌うために関わるようになる『くちびるに歌を』だ。中田永一による小説が2011年に刊行され、15年には三木孝浩監督により映画化している。

映画の序盤、音楽教師の柏木エリは部員たちに「誰にも見せる必要はないから、15年後の自分に向けて手紙を書いて」と宿題を出す。歌詞の意味を理解するため書かせた手紙だったが、これを受けて柏木は、彼らが抱える秘密や心の傷にふれることになり、やがてピアノをやめた原因である自分自身の過去とも向き合うこととなる。

『聲の形』と『くちびるに歌を』に共通しているのは、「過ぎてしまった過去は救えるのか」という問いだ。小学生のとき、退屈を紛らわすためにいじめてしまった女の子を、そのせいで学校に来られなくなったクラスメイトを、失ってしまった友情を、高校生になった自分がいまさら救えるのか。あるいは「15年前の自分に、いまの自分の声が届くのか」という問い。届くわけがないと言い切れれば話は容易い。どれだけ過去を取り返そうとしても、それは取り返した「かのように思う」という思いにどこまでも囚われることでしかあり得ないのだ。にも関わらず、私たちはそれでも過去に呼びかけてしまう。その声に意味はあるのか、という問い。

ある日、合唱部員のナズナは柏木に対し、課題曲の『手紙』について「15歳の自分と30歳の自分が語り合うような詞」だと感想を言う。歌詞を見ればそれは明らかだ。「拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう」から始まる一番への返事として、二番は「拝啓 ありがとう 十五のあなたに 伝えたい事があるのです」から始まる。15歳の私が歌う一番から30歳の私が歌う二番へ、というふうに、この歌詞は全体が自分自身への応答として綴られている。しかしナズナは同時に、柏木に対しこの曲は「男の声と女の子で分けているから歌が生きる」と言い、柏木が来たことで女子しかいなかった合唱部に男子も入ってくるようになって良かったと語る。

『くちびるに歌を』は、過ぎてしまった過去をめぐる自分自身への応答の物語であると同時に、中学生と柏木の応答、あるいは女子と男子の応答の物語でもあるのだ。クライマックスの合唱シーンは、ソプラノの主旋律にアルトと男声が寄り添うように歌う一番から、男声が主役となる二番に移る。映像は男子の悩みや女子との対立を回想し、ふたたびサビで三つの声が重なるとともに、男女がともに歌う合唱の場面に戻る。自分との応答と他人との関係、その両方の糸が結ばれてこの曲は完成する。

サビの最後にある「今を生きている」が印象的だ。「い」まを「い」きて「い」る、と三つの「い」にアクセントが与えられ、それが二回繰り返される。一度目は力強く。二度目はその力強さを確かめるように慎重に。まるで自分に自分が答えるように。そして、それぞれの部員が歌った「い」を確かめ合うように。そのとき観客は、赴任してきた当初は一切笑うことがなかった柏木のくちびるに、笑みが浮かんでいることに気づかされる。「い」は口を大きく横に開けて笑うときの声だということに。『手紙』は「い」を回復する歌なんだということに。

いーって笑って。子どもの頃、写真を撮る大人たちはみんなそう言っていた。大人になって、今度はそんなことを言う側になった。写真を撮るときは、合唱するときは、どうして笑顔じゃなきゃいけないんだろう、なんて捻くれた思いはいまでも持っているけれど、それはくちびるに「い」を浮かべるための魔法なんだと、そう思えば、少しだけ気持ちが軽くなるような気がしている。過ぎてしまった過去は取り返せない。でも時が過ぎたあとで、思ってもみないあり方でいまの自分が救われることはある。30歳の自分が、15歳の自分の手紙に救われることがあるように。

そうだとしたら、15歳の自分が30歳の自分の手紙に救われることだって、あってもいいはずなのだ。

文字数:3006

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