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漂流の行方、あるいは絵画の外側へ

あなたの前に一枚の白紙があるとしよう。そこには二つの点AとBが描かれており、あなたにはある謎かけが与えられる――「この点Aから点Bまでを移動する、最も近道はどこにあるか」。この問いにどのような答えが考えられるだろうか。おそらく多くの人は次のように答えるだろう。点Aから点Bへ直線を引けばいい、と。しかし実はもうひとつ、ほとんど反則めいた答えがある。それは紙を折ることによって点と点をくっつけ、二つの点ABの距離をゼロにしてしまうというものだ。

岡﨑回図1 岡﨑回図2

つまり二つの点の「最短距離」を求める方法は二通りあるといえる。ひとつは点と点のあいだに直線を引くこと。もうひとつは、紙そのものを折り、二つの点が接する地点を見つけだすこと。「美術批評がテクストとしての独自性を持ちうるとすればどこにあるかを考え、それを実践」せよと課題が与えられたとき、私の脳裏をよぎったのはこの謎かけだった。すなわち、美術「研究」がそれぞれの点のあいだに正確な線を引くような営みだとすれば、美術「批評」とは点と点とが交錯する地平を新たに見つけだすような試みではないかと考えたのだ。したがって本稿では、藤田嗣治の戦争画に対して、そのような仕方での美術批評の実践を試みる。

しばしば指摘されるように藤田の戦争画には西洋絵画からの影響が見られる。たとえばサイパン島の陥落下で戦争に翻弄される人々を描いた『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945)では、19世紀フランスの画家ヴジェーヌ・ドラクロワの構図法の影響があると言われている。26歳で渡仏した藤田は現地で大画面による群像表現を吸収しており、それが『アッツ島玉砕』(1943)を始めとする彼のスペクタクル表現に結実している。ところで、ドラクロワといえば『The Barque of Dante(ダンテの小舟)』(1822)、『The Shipwreck of Don Juan(ドン・ジュアンの難破)』(1840)、『Christ Calming the storm(嵐の中で眠るキリスト)』(1853)といくつかの「漂流画」を描いているが、藤田も一連の戦争画のなかで漂流を題材とした『ソロモン海域に於ける米兵の末路』(1943)を描いている。この絵にも、たとえば波濤や色彩の表現にやはりドラクロワの影響を伺うことができるが、他方で単なる模倣に留まらない差異が含まれてもいる。それはどういうものか。

ドラクロワの漂流画に共通するのは、それらがみな三角図法によって成り立っていることである。ダンテの「地獄編」に想を得て描かれた『ダンテの小舟』では、小舟にしがみつく亡者たちを底辺に、ダンテとヴェルギリウスを頂点とした三角形が形成されている。食糧として犠牲となる者をくじ引きで選定する場面を描いた『ドン・ジュアンの難破』でも身を乗り出してくじを引こうとする者たちの斜めのラインが三角形を浮かび上がらせる。そして、いっけん三角形には見えない『嵐の中で眠るキリスト』も、騒ぎ立てる二人の男を頂点とする三角形が、その「外側」で平然とするキリスト(超越者)の存在を際立たせているのだと気づけば、そこに三角図法の応用を見ることができる。

岡﨑回図3

ところが藤田の『ソロモン海域に於ける米兵の末路』では、その三角形が崩れてしまってはいないだろうか。漂流した小舟に乗っている米兵は七人いるが、そのうち観客がまず目を向けるのは、全体の右よりに立っている男だろう。この男を頂点としたとき生まれる三角形は、男の存在によって右側にかなり偏ってしまっている。ジョン・シングルトン・コプリーの『Watson and the Shark(ワトソンと鮫)』(1778)やテオドール・ジェリコーの『Le Radeau de la Méduse(メデューズ号の筏)』(1818-19)を例にとっても、基本的に漂流画は小舟や筏を底辺とし、生きようともがく人間たちの高揚が中心へ集中し頂点をなすことで、自然と三角を形成するように描かれるものだ。しかし『ソロモン海域に於ける米兵の末路』では、立っている男の存在がその三角形を崩している。そもそもこの男は、なぜいまにも転覆しようとする小舟で立っているのか。

ここで参照すべきは和田三造の『南風』(1907)だろう。『南風』が描かれたのは日露戦争の二年後。漂流する舟の上でも背景の海を制するかのように堂々と立つ男の姿は、近代化を遂げていく日本の威風を感じさせるとして評判を呼んだ。なるほどその脈打つ筋肉は男の生存を予期させるものである。だが他方『ソロモン海域に於ける米兵の末路』で小舟に立つ兵士はそうではない。彼を待ち受けているのは生存ではなく「末路」であって、現に小舟に乗っている他の米兵は荒れ狂う波濤や鮫を呆然と見つめ、ある者は力なくうなだれ、ある者は疲弊した身体を横たえてしまっている。それだけに、(ドラクロワの絵画のように生きようともがいているわけでもなく)ただ立っているあの男の存在は特異だ。そこには宿命に対峙する人間が発する敵味方を超えた気高さすら感じられはしないか。いったい藤田は、戦争画であるにもかかわらず、なぜ敵である米兵の男をあのように描いたのか。

もう一度全体を見直してみよう。絵を前にした観客は、おそらくまず前景の小舟と米兵に目を留め、そして次に後景の波濤と鮫に目を移す。この「前景から後景へ」という視線の移動によって、観客は米兵の宿命を悟り、絵が提示しようとする物語を理解する。これが『ソロモン海域に於ける米兵の末路』の一般的な見方だろう。ところで、この絵をあらためて前景(小舟、兵士)と後景(波濤、鮫)に分けたとき、前景と後景とのあいだにはある関係性が見えてこないだろうか。コプリーの『Watson and the Shark(ワトソンと鮫)』を思い出してほしい。そこでは鮫は舟のすぐそばで口を開き、まさにいま少年ワトソンを呑み込もうとしていた。それに対して藤田の絵では鮫は米兵たちから離れた場所を泳いでいる。このことは「死=鮫」と「生=米兵」の分離を意味しているのだろうか。いや、そうではない。この絵は「末路」を描いているのだから。しかしそうであるならば、私たちはここにどのような解釈を与えるべきだろうか。

その例証を16世紀の『風濤図』に求めよう。雪村によるこの水墨画は、帆や木、波などの動きから、本来目には見えない風の動きを表現している。帆が大きく膨らみ、岸辺の木が枝を曲げ、波の飛沫もひとつの方向を指している。そしてその風濤の先に向かって、舟の行く航路が伸びていく。その線は次のように、『風濤図』の外側へ向かって描かれるべきだろう。

岡﨑回図4

この図を参考に、『ソロモン海域に於ける米兵の末路』に方向を指す線を引くとどうなるか。小舟と兵士の方向を示す線A、そして波濤と鮫の並びを示す線B――すると、絵画の外側に消失点が浮かび上がる。
岡﨑回図5
線を引くことにより明かされるのは、藤田がこの絵を描くにあたって米兵、小舟、波濤、鮫の並びに明確な方向性を与え、それが「末路」を指しているということである。線Aと線Bが一致する消失点において小舟は波濤に呑み込まれることとなるのだ。

その上で、あらためて舟の上に立つ男に着目すると、彼が消失点に対し反対を向いていることに気づかされる。消失点に背を向けつつ(宿命に抗いつつ)、生への高揚を意味する三角形を崩す(宿命を受け入れる)この「立つ男」のアンビバレントな態度は、藤田がノモンハン事件を題材に二つの戦争画を描いていたという逸話を想起させはしないか。東京国立近代美術館には日本兵がソ連の戦車を果敢に攻撃する光景を描いた『哈爾哈河畔之戦闘』(1941)が残されているが、彼はもうひとつ、ソ連の戦車が容赦なく日本兵を轢き殺す情景をノモンハンの地に見ていたという。その絵はおそらく、青空と緑の草原が印象的な『哈爾哈河畔之戦闘』とは違い、その後の「玉砕画」を予期させる昏い色彩で描かれていたはずだ。

戦争画は軍部の要請でなされるものであるかぎり、宣伝や戦意高揚のための「即時的」な役割を担わされる。そのとき絵画の意図は、画家から国民へ「最短距離」を通って伝えられることとなる。『哈爾哈河畔之戦闘』は勇敢な日本兵を描くことでその目的に従い、1941年の第二回聖戦美術展において非常に高い評価を受けた。しかし、当時すでに50代の半ばを超えていた藤田嗣治にとって、即時性のみを戦争画に求めることは自身の画家としての態度に反することだったのではないか。もうひとつの『哈爾哈河畔之戦闘』の存在は、藤田の隠された想念を暗示してはいないだろうか。

その隠された想念の経路を、私たちは『ソロモン海域に於ける米兵の末路』から、そして「末路」に背を向けて立つ米兵の姿から見出すことができる。ドラクロワの表現を吸収しながら、しかしその図法をただ反復するのではなく、新たな差異を生みだすこと。絵画の外側の消失点は、より巨視的な地点から戦争を見つめようとした藤田の画家としての矜持を浮かび上がらせている。おそらく彼の戦争は、米兵との戦争であると同時に、ドラクロワを始めとする西洋絵画との闘争でもあったのだ。

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