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巨像は物思いにふける

東京国立近代美術館に所蔵されている高嶺格のクレイアニメーション『God Bless America』(2002)について論じる。この作品はチェルフィッチュの岡田利規が多大なインスピレーションを受けたと語っており、今年度のフェスティバル/トーキョーで公演される新作『God Bless Baseball』では舞台美術に高嶺が起用されている。高嶺の『God Bless America』を岡田がどのように解釈したかは舞台を観てみないことには言及しがたいが、ひとつには「アメリカ」を主題とする作品を日本人が制作することのアイロニーが核となるだろう。フェスティバル/トーキョーに寄せられた岡田のコメントには「野球のルールがあまりわかってない女子たち。子供時代の少年時代の卜ラウマで野球が嫌いになってしまった男性。なぜかそんな彼と結婚してしまった野球好きの女性。イチロー(のにせもの?) などなどが登場」とある。『God Bless Baseball』は「野球」がテーマかと思わせておきつつ、実際には野球に対する距離感をこそ主題としている。彼らと野球の関係性は、だからおそらくそのままアメリカと日本の距離感に置き換えることができる。

一方高嶺の『God Bless America』は、そのタイトルを『White Christmas』の作曲でも知られるアーヴィング・バーリンが1918年に作詞・作曲した同名の楽曲に由来する。当初はたいして人気の出なかったこの曲が広く普及するのは、第二次世界大戦直前の1938年にケイト・スミスが歌ったラジオ放送がきっかけだったという。「神よアメリカを守り給え」というこの愛国的な歌詞のために「第二のアメリカ国歌」とまで呼ばれるようになった同曲は、やがて2001年の同時多発テロ直後にニューヨーク証券取引所で流され、イラク戦争へ突き進むアメリカの足並みを準備することとなる。高嶺はこの曲をもとに、粘土で作られた巨像が破壊されては作られ、そしてふたたび破壊される過程を繰り返し記録した、奇妙な映像作品を制作した。

作品を詳しく見ていこう。8分18秒の映像には18日間分の時間が圧縮され収められている。カメラは18日間、赤い個室を同じ位置から撮り続ける。個室では作家とその友人たちが粘土を使って巨像を作っては壊すのを繰り返す。そしてその度ごとに巨像はゴリラやブッシュ元大統領などさまざまな顔に作り変えられる。朝と昼と夜が目まぐるしく入れ替わり、作家は夜になると友人たちと飲み会を開いたり、恋人とベッドで眠ったりする。個室に日が差し込むと作家はおもむろに起き上がり、巨像制作の作業に戻る。この単調な生活が18日間反復され、それを8分18秒に圧縮したものを観客は見ることとなるのだが、しかし映像には作家たちの声や作業音が乗ることはなく、展示室に響くのは唯一、巨像が歌う「God Bless America」だけである。

作家たちは果たして何を作っているのか。それは、この映像が9.11以後に撮られたものであることを踏まえて考えなければならない。すなわちこの巨像はテロへの戦争を推し進めるアメリカとその国民を鼓舞する偶像である、とさしあたり理解することができるだろう。ただしその巨像は解体と再生を絶えず繰り返されている。いくつもの顔に変化しながらも、巨像はつねに「God Bless America」を歌いつづけ、観客は展示室に入ってから出るまで執拗に同じ歌詞を聞かされる。「見える顔」が変容しつづけるなか、「見えない歌声」だけがかろうじて巨像に偶像としての生命を吹き込んでいるようだ。ここにはアメリカという人為的な「作り物」の国家の脆弱さが露呈している。

神よ、アメリカを祝福したまえ 
私の愛するこの大地を 
アメリカのかたわらに立ち、アメリカを導きたまえ 
上よりの光によって、闇夜のなかにあっても 
連なる山々から大平原を抜けて、大海原にいたるまで 
神よ、アメリカを祝福したまえ。私の愛するこの家を 

では「God Bless America」で歌われるこの「神」とは何か。9.11の当夜、連邦議会前には多数の国会議員が集まり、この曲を歌った。当時のブッシュ元大統領は自身の演説でこのことに触れ、アメリカ国民に神のもとへの結集を呼びかけた。しかしここにイスラームの神は含まれていただろうか。ブッシュが言及した神とは普遍的な神ではなく、アメリカにのみ祝福を与える固有名詞の「神」にほかならない。この「神」が根拠とするのは聖書の記述のみであり、聖書がときに国家の都合に応じた解釈をされることがあるように、ブッシュの「神」もまた時と場合によって姿を変える。偶像は変化し、見えざる国歌がそこに人為的な正当性を付与する――高嶺の『God Bless America』は、そのようなアメリカ社会の本質を抉出している。

ところで18日間分の映像記録を8分18秒に圧縮したために、観客には巨像を制作する作家たちの動きがほとんど追い切れない。彼らは気づけば制作をやめソファで寝転んだりパソコンで何かを見たりする。一緒に作業をしていたはずの友人がいつの間にか帰ってしまっている。観客はそこで確実に何かを失認する。が、しかしだからこそ、過剰な時間の加速によって観客はいつの間にか一種の変性意識状態に陥り、つねに流れ続ける「God Bless America」の歌声だけを刻印のように脳裏に染み付けていく。ここには9.11以後のアメリカ国民の心理状態を追体験するかのような感覚がある。

この感覚が観客の側に去来するのは、そこに映像編集の結果生まれた二つの時間軸が共存しているからである。『God Bless America』には作家による「巨像の解体/再生」の時間軸と「巨像の歌」の時間軸が存在する。要するに、18日間を過ごす作家たちの時間と、8分18秒の間歌いつづける巨像の時間の両方が含まれている。そして観客の8分18秒は巨像の歌と擬似的に同期する。ここに本来ならば違う時間軸を生きるはずの巨像との関係が生じるのである。

ただし、この作品がクレイアニメーションである以上、そこにはさらなる時間軸が隠されているとみるべきだろう。クレイアニメーションでは静止した物体を一コマずつ、少しだけ動かしながら連続で撮影していくことで、それ自体が命を吹きこまれたかのように動き出す映像を作成する。『God Bless America』の巨像もそのような映像編集によってあたかも自立した意思があるかのように表情を動かす。ところがここで奇妙な錯覚が生じる。『God Bless America』は巨像制作の過程を記録した映像作品だ。が、一方でこの18日間は巨像の表情を動かすクレイアニメーション制作の時間でもあるはずだ。しかし8分18秒の完成された映像には、その制作過程は隠蔽されているのだ。見えざる手によって、18日間の生活(そのなかには恋人とのセックスの様子なども記録される)の「無編集感」が「編集」されている。つまり『God Bless America』にあるのは、見えるもの(偶像としての巨像の解体/破壊、作家たちの身体の動き)と見えざるもの(「God Bless America」の歌声、クレイアニメーションの編集)の交錯である。観客だけがそのことを意識し、複数の時間軸を同時に見ることができる。

図1

ジャック・ランシエールは『解放された観客』で「物思いにふけるイメージ」という表現を用いている。もちろんイメージは思考の対象である。だからイメージが物思いにふけることなどあり得ない。したがってここで「物思いにふける」と書かれているのは、要するに「思考されていない思考の内包」を意味する。それを観る者が未だ思考したことのない思考を、イメージの方が秘めている、というのである。そのためランシエールは「思いでいっぱいになる」状態と「思考している」状態とを区別し、そこに受動性の有無を見る。後者になくて前者にあるのは、あるイメージによって自分が受動性に思考させられることであり(「思考する」ことはランシエール的にはつねに能動的な行為である)、そのような受動性をイメージが潜在的に内包するとき、彼はそれを「物思いにふけるイメージ」と名指す。

『God Bless America』においてはこの能動性/受動性の緊張関係が複雑に絡みあう。巨像は作家たちの手によって受動的に顔を変えられた偶像であり、それと同時に、能動的に自らの時間軸を作り出し「God Bless America」を歌う両義的なイメージとして観客の前に現れる。私たちは巨像を見るようでいながら、同時に巨像から見られても(思考を与えられても)いる。

図2

映像のなかで作家たちは夜は飲み会を開き、恋人とベッドで眠り、朝になれば作業を再開する。解体と再生を反復し、同じような日々を延々と続ける。巨像の制作はこのように徹底的に無為な行為として演じられる。壊されることがわかっていて作られる。作り直すことがわかったうえで壊していく。巨像を作る根拠などそもそもないと知っていて、それでもあえて作り続ける。巨像は物思いにふける。そこにある種のアイロニーを見出すのは容易い。だがそこに秘められている思考は、果たしてどこからきているのだろうか。

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