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後ろめたさの倫理

1. 2015年10月1日のチェッカー

この文章を書いているいま、Ustream Checker(以下、チェッカー)というサイトでは「くらげ感謝の100時間配信」という企画が行われている。この企画を説明するのはちょっとむずかしい。というのも、企画自体の説明のまえに、そもそも配信とはなにか、チェッカーとはなにかといった前提知識の説明が必要だからだ。できるだけ簡潔に説明したい。

まず「配信」について。2008年ごろからUstreamやニコニコ生放送など「インターネットユーザーが自分の放送番組をつくることのできるウェブサイト」が登場してきたが、これらのサイトで放送されている番組が一般に「配信」と呼ばれている。これまでの放送文化はテレビ局など一部の企業が独占的につくっていたけれど、インターネットはそれを一般のユーザーに開放してきた。テレビ局がやってきたことを個人でもできるようになったというわけだ。配信では視聴者が自由にコメントを打つことができるという利点もあって、ここ数年で急速に拡大している。

次に「チェッカー」について。だれでも自由に配信できるだけあって、これらの配信サービスを利用するひとは多い。たとえばニコニコ生放送ではもっとも配信が盛り上がる時間帯には5000人以上が同時に配信を行うけれど、これだけ配信があると、どれをみればいいか迷ってしまうひともたくさん出てくる。というわけで膨大な数の配信を視聴者数で並べてリアルタイムにランキング化するサイトもつくられる。チェッカーもそのひとつだ。

チェッカーのようなランキングサイトの効果はいくつかある。視聴者数の多い配信者が、上位にランクインすることによってユーザーから広く認知されるようになること、またそのことが配信をつづけるモチベーションとなること、そしてこのようなサイトを通じてたがいの存在に気づいた配信者たちが一緒に企画を始めたり、相互に言及しあうことで一種のコミュニティ感をつくるようになる、といったこと。「くらげ感謝の100時間配信」もまさにその典型といえるような企画で、普段はそれぞれ個人的な配信をしている人気配信者たちが、この日だけは「くらげ」という一人の配信にあつまって、さまざまな企画をしている。

「100時間配信」と題されているだけあって、どうやら四日間ずっと企画をしつづけるらしい。どんだけ暇なんだと言わざるを得ないけれど、問題はむしろこの配信企画を最初から最後までひたすら見つづける視聴者もそれなりにいるということのほうで、にわかには信じがたいけれど、かつて同氏が72時間配信を行ったときには、終始コメント欄にいつづけた視聴者が複数人いたという。そういうひとは仕事で有給を取ったり、学校を休んだりしてまで、アマチュアの配信を見守りつづけている。

たとえば映画がようやくわずか120分のあいだ映像にひとの目を惹きつけていることを思えば、これは驚異的なことではある。120分の映像で疲れてしまう同じひとが、配信では100時間を飽きずに見つづける(かもしれない)のだから。けれど私はべつにここで配信文化のすばらしさを語りたいわけではないし、映画と配信を同列に並べて論じようとも思わない。私がここで書かなければならないのは、「配信」という映像文化が社会とどう接続できるのかということだ。

 

2. 「後ろの目」の倫理

配信をみていてときどき感じるふしぎな感覚がある。配信者がなにかを喋りつづけていて、コメント欄にも何百とひとがいて、大いに盛り上がっているにもかかわらず、そのさなかに感じる孤独のような感覚。その場に馴染めなくて感じるそれとはちがう、その場の空気と一体化しつつ感じるなにか。その感覚をできるだけ近い言葉で言い換えると「後ろめたさ」になるだろうか。

たとえば友人に呼ばれて飲み会に行ったとする。頭の隅では「明日も仕事がある」とか「家では奥さんが待っている」とかいろんな理性が働く。それが「はやく帰らなきゃいけない」という使命をひとに思い出させる、のだけれど、ひとたび酔ってしまえばそんな理性もどうでもよくなる。翌日のことなんて気にしなくなる。それがカーニバル的ということで、デモもライブもそのような熱狂をつくることで成立する。でも配信をみているときは、カーニバル的に熱狂しているそのさなかにも「後ろめたさ」を感じてしまう。どういうことだろうか。

後ろめたいの語源は「うしろめいたし」、つまり「後ろの目が痛い」という意味からきている。ここにある「後ろの目」とはなにか。たとえば自分がある試験をまぐれで受かってしまったとして、落ちたひとのなかには、当然自分より成績が良いひともいる。だからそのことで受かってしまったことに対する後ろめたさが生じる。ではそのとき感じる「後ろの目」とは落ちたひとの目だろうか。もちろんそれもあると思う。でもそれだけじゃないとも思う。私たちがなにかに「後ろめたさ」を感じるとき、私たちをみているのは他人だけではなく、自分自身でもある。まぐれで受かってしまったことに対して、だれもみていないのに後ろめたく思ってしまう自分がいるということ。自分の目が自分を後ろからみているということ。そんなことあるわけないと思うかもしれないが、そう思うことで初めて姿をさらす倫理がある。

カーニバル的熱狂というのは「隣にいるのがどういうひとかはどうでもよくなる」ような状態のことで、だからSEALDsのデモで代表の奥田愛基氏が「今夜ここに集まったひとはそれぞれ見知らぬ他人同士で、この夜が終わったら見知らぬ他人のまま解散していく、でもそれこそが希望なんだ」というようなスピーチをしたのは、その意味で正しい。けれどその裏側で、奥田氏の発言や個人情報をネタに勝手に盛り上がっているネット上のひとたちもまた、他人の不幸を燃料に興奮しているという意味ではカーニバルの論理に合致している。どっちもどっちなんてことを言いたいわけじゃない。ただそこにはともに「後ろめたさ」の視線が欠けているように思えて、その違和感だけが宙吊りになっている。

話は少しズレるけれど、今年の6月にゲンロンカフェでさやわか氏、東浩紀氏、野間易通氏のトークイベントが行われたとき、テーマとされていたのはオタク批判とヘイトスピーチだった。野間氏は反レイシストのカウンターを行っているひとだけれど、彼はブラウザゲーム『艦隊これくしょん』(2013)を例にオタクを批判していて、『艦これ』プレイヤーでもあるさやわか氏が批判に応じていた。『艦これ』が野間氏のいう「キモオタ」の文化なのかどうかはここでは触れない。ともあれ、そこで野間氏がいっていたのは要するに「艦これをやっている連中には後ろめたさがない」ということで、その指摘自体は少しだけ気にかかった。というのも最近、野間氏がSEALDsのデモを支持していることに対して東氏が違和感を表明していたのは、つまりは艦これをやっている連中には後ろめたさがないと批判していた同じ人間が、SEALDsデモの後ろめたさのなさには鈍感なんじゃないか、ということを意味していたのではないか。

東氏が人文知の重要性を語るとき、それは「後ろめたさ」を抱くための技術のようなものとして語られる。それがあって社会を変えられるわけではないし、なにかの問題の処方箋になるわけでもない。ただカーニバル的熱狂に社会が傾いたときに、どのように「後ろの目」を確保していくかを考えつづけるひとが何人かはいてもいい(たくさんはいらない)。「くらげ感謝の100時間配信」というバカみたいな企画を見つづけながら私が考えているのは、いま目の前にある熱狂に乗りつつ、そこから距離を取る視線について。この文章を書いている自分を後ろから見つめているべつの自分について。メタレベルの論理ともちがう、後ろめたさの倫理についてだ。

 

3. 処方箋的リアリズムから離れて

ある社会の問題点を効果的に指摘して、それに対する処方箋を与えるような何かを考えてみたときに、真っ先に思い出したのはアメリカのドラマ『PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット』(2011)やフランスのゲーム『ウォッチ・ドッグス』(2014)といった監視社会ものの作品群だった。そこでは社会で発生する事件がコンピュータープログラムに含まれるバグのようなものと捉えられ、高度な監視装置によってつねに予測され、バグを除去するように事件は解決される。事件を生み出しつづける社会そのものを変革するのではなく、社会の細かな病理をすぐさま見つけ処方箋を与えつづけることにより秩序を安定化させる。そのような想像力を「処方箋的リアリズム」と仮に呼んでもいい(呼ばなくてもいい)。

こないだ最終回を迎えたアニメ『Charlotte』(2015)は、主人公の乙坂有宇が世界中に存在する特殊能力の保有者たちをさがしだし、彼らが能力を悪用するまえにその能力を奪うという話だったけれど、有宇と行動をともにするヒロインの友利奈緒はつねにハンディカムを携帯し、保有者が能力を使う瞬間を証拠として映像に収めていく。最終回では無数の能力を奪いつづけて怪物と化していく有宇が、地球上のすべての保有者から能力を奪うことで世界を救う過程が描かれる。有宇と友利の行動はだからある意味では処方箋的リアリズムを愚直に実行しているようなところがあって、それを肯定的にみるかどうかで作品への評価が左右される部分もあるだろうけれど、ここでは踏み込まない。

これらの作品では「社会を監視する目」として映像が立ち現れる。そしてその目は社会問題に対する処方箋としてきわめて有効に機能する。けれどそこではときに倫理的な問題が生じる。『ダークナイト』(2008)ではゴッサム中の携帯電話に監視システムを仕掛けることで市民の行動を隈なくチェックする装置が、「市民の安全を守るため」とか「ジョーカーを見つけるため」とか正当化する理由をいくつも提示されながらも、最終的には破壊されてしまう。また『Charlotte』の最終回では、タイムスリップの能力を得た有宇が、その能力を使えば死んでしまった兄の友人を助けられることを知っていて、あえてそうしないことを選んでしまう。そこではある種の倫理が選び取られている。

その倫理と、配信に対して感じる「後ろめたさ」の倫理とを結びつけて論じることはしない。複数の倫理が離れてあること、離れてありながらつねにこちらを見つめている倫理があるということを指摘するに留めておく。前述の企画はまだ75時間ほどつづくらしい。参加する配信者の大半は(内定式の日だというのに)ニートやフリーター。社会とはいまいち接続できていない彼らの熱狂は、社会と接続しきれていないからこそ、観客の側に「後ろの目」を呼び起こすのかもしれない。

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