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素顔と自画像――明治天皇のふたつの〈顔〉について

明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館の存在を教えてもらったのはいつだったか。大学卒業を目前にひかえてもなお進路が定まっていなかった私は、それでもなんとなく上京したいとだけは考えていて、友人とよく東京の話をしていた記憶がある。とにかく暇だったから行ってみたい場所を片っ端から探していたのだ。絵画館についても、たしかそのころにだれかから教えてもらったはずだ。

明治天皇の御聖徳を後世に伝えるため大正15年(1926年)に開館した聖徳記念絵画館には、明治天皇の生誕から崩御までの出来事を描いた壁画が年代順に展示されている。『大政奉還』や『岩倉大使欧米派遣』など明治期の歴史的光景を描写した壁画が並んでおり、西洋文化を取り入れ、近代化を推し進めてきた明治国家の変遷をたどることができる。そこに掲げられているのは、鎖国から開かれた国へと変貌を遂げようとする近代日本の、いわば〈自画像〉の数々である。

しかしそのなかにひとつ、ほかとは毛色が違うように思える作品があった。胃癌のため病臥している岩倉具視を天皇がお見舞いになったときの光景を描いた一枚、北蓮蔵による洋画『岩倉邸行幸』だ。布団のうえで半身を起こして出迎える岩倉を、明治天皇が立ったまま見つめている。廃藩置県や憲法発布など公的な出来事を題材にした作品が並ぶなか、死を迎えようとする岩倉の前に立つ天皇の姿からは、公的な存在としてのお見舞いを離れて、岩倉への私的な思いがうかがえるような気がした。

明治天皇といわれて国民が思い浮かべる姿は、おそらく「御真影」(天皇の肖像)に描かれている、あの威厳のある表情だろう。被写体としてのその天皇像は、近代の複製技術によって全国の公共施設や学校で掲げられるようになり、日本の象徴として人々の礼拝対象とされていく。しかし『岩倉邸行幸』の天皇にはそのような「聖なる威厳」を感じさせる眼差しは存在しない。死を待つ岩倉に向けられた眼差しからは、ただ憐れみの感情だけが感じられる。

ほかのどの壁画より『岩倉邸行幸』が私の印象に残ったのはなぜだろうか。大学を出てもやりたいことが見つからず、震災以後の社会とどう向き合っていけばいいかも分からずにいた自分の不安と、近代日本を築きあげた功労者を失いかけ、それでも欧米諸国と渡り合っていかなければならない若き明治天皇の不安とを、もしかしたら重ねてみていたのかもしれない。私の不安など天皇の不安と比べれば取るに足らないものでしかないが、優れた絵とはそのような転移を許容するものなのだと思う。

聖徳記念絵画館に掲げられた壁画群を、先ほど私は日本の〈自画像〉であると述べた。だれも自分の顔を自分で見ることはできない。したがって自画像には、かならず他者の視線が差し込まれる。自分が他人からどのように見られているか、あるいは見られたいか、さまざまな疑念や欲望が入り込んでくるために、自分の顔を正確無比に描写しえる者など存在しない。だから自画像とは、鏡のような「あるがまま」を映し出す装置ではありえない。その意味において、明治天皇の威光を後世に伝える目的を託されたあの壁画たちを、日本という国家の〈自画像〉と呼ぶことはできないかと考えたのだ。

しかし『岩倉邸行幸』にだけは、そのような疑念や欲望からは離れた、あるがままの近代日本が描かれている気がした。庭を背に立っている天皇の顔は、影がかかっていて明瞭に見ることはできない。布団のうえでかろうじて起き上がり、手を合わせて天皇を拝んでいる岩倉も、壁画を見る私たちに対して背中を向けているためにその顔を窺い知ることができない。しかしここには近代日本の〈顔〉があるがままにさらけ出されている。天皇の「御真影」と比較したときに、そのことはいっそう強く感じられた。「御真影」が自国民や外国に対して天皇の「聖なる威厳」を演出せんとした近代日本の〈自画像〉であったとすれば、『岩倉邸行幸』で描かれた死にゆく岩倉を見つめる天皇の顔は、近代日本の〈素顔〉と呼ぶべき、もうひとつの天皇像なのではないか。

 

いま私たちは、自分のイメージを自分で思うように操作できる時代を生きている。スマートフォンのカメラアプリを使えば、画像の加工によって自分をより綺麗に見せる(盛る)こともできる。ところがそれはけっして「自分の個性を表現する」ためになされる操作ではない。しばしば「量産型女子大生」などと揶揄されるように、そこではむしろ積極的に周囲と合わせるためにこそ加工の技術が使われる。他方で、たとえば大学生が就職活動で使う履歴書の写真には、盛らない(没個性的である)ことによって「社会に適合できる人材」というイメージが仮構される。盛るか盛らないかに関係なく、それらはともに自分が他人からどのように見られているか、見られたいかを反映した〈自画像〉にほかならない。そしてそこに彼らの〈素顔〉が表現されることはない。

私たちはカメラの前に立つと笑顔であることを求められる。その笑顔は、おそらくカメラの誕生以前には存在しなかった表情である。私は幼いころカメラを向けられるのが嫌いで、どうしても顔がこわばってしまうのだったが、そのこわばった顔はカメラを向けられるという状況がなければ生じ得なかった表情だ。同じように、パスポートや運転免許に記録される個人の顔もまた、その人の〈素顔〉などではなく、証明写真のカメラの前に立たされたとき初めて生じる「仮の顔」にすぎない。そもそも表情が皮膚や筋肉のかすかな動きをも含めた動的なイメージである以上、ある瞬間に切り取られた静的なイメージをその人の〈顔〉とすることには根源的な不可能性がある(就職活動で使う写真を自分の〈素顔〉だと考えるひとはいないだろう)。しかし近代社会はその静的な「仮の顔」をこそ、個人を特定するための〈顔〉として記録してしまう。

社会との関わりにおいて、私たちは社会へ適合できる「没個性」な人材であるとともに、他人とは違う「個性」を持った何者かであることを要求される――「横並びでありながら非凡であれ」と。その引き裂かれによって、履歴書に貼られた写真から、もしくはスマートフォンに保存される盛られた画像から、そのひとの〈素顔〉は剥奪されていく。ところがその代わりに作られる加工/仮構された〈自画像〉も、いつになっても完成されることがない。なぜなら私たちはだれでも「他人からどう見られたいか」という欲望を持つが、その欲望が完全に満たされることなどないのだから。そしてその事実は私たちにつねに「自分はなにかを欠いているのではないか」という疑念を与えつづけ、それがまた次の加工/仮構を呼び込む。近代日本において生まれてきた表現のほとんどは、そのようにして作られる自己イメージにすぎない。

 

この文章を書くまで私は、あの明治天皇の「御真影」がもともと写真ではなく絵であったことも、その絵を描いたのが日本人ではなく明治8年に来日したイタリア人彫刻家エドアルド・キヨソーネ(Chiossone Edoardo)であったことも知らなかった。考えてみれば肖像画を描くということはモデルに長時間の静止状態を求めることになる。天皇にそのような過大な要求をすることは難しかったのだろう、キヨソーネは天皇の顔を短時間のうちにスケッチしてから絵を描いたことになる。その絵からさらにあの「御真影」が作られたのだ。やがて戦争へ突入していく日本にとって国民の支えとなった「聖なる威厳」が、じつは写真でも日本人が描いた絵でもなく、このようにして作られたイメージであることを、はたして当時の人々は知っていただろうか。

天皇の肖像が「御真影」と呼ばれたのは、明治維新以降から太平洋戦争敗戦までの時期においてである。つまりそのことは、日本の近代化がすなわち「御真影」による天皇の可視化の過程であったことを意味するが、明治から昭和にかけて与えられてきたその絶大なイメージが偽りの〈自画像〉に過ぎなかったとすれば? しかしこの問いを笑うことは私にはできない。なぜならこの問いかけは、現代を生きる私たちにも同じように突きつけられている問いだからだ。私たちはいま同時代にあふれている無数のイメージの加工/仮構に、はたしてどれだけ気づき、抗うことができているだろうか。

社会には〈顔〉があふれている。仮面を被るのでもないかぎり、〈顔〉とはそれを隠して生きることができないものなのだ(だからこそ顔写真がそのひとの証明となりうる)。したがってそれはだれもが等しく有する表現の形ともいえるだろうが、ここで問題となるのは、私たちはたとえ親しい友人や恋人であっても、その〈素顔〉を知っていると自信を持っていえるひとがいるだろうかという疑問だ。そもそも鏡の前に立ったときの自分を思い浮かべても、そこに自分の〈素顔〉があるとは思えない。自分が見ている、自分に見られているという認識が、自分の表情を「見られる」顔へ変えてしまうのだから。しかしでは、〈素顔〉とはいったいいかなるときに「見る」ことができるのか。

想像するしかないのかもしれない。思えば『岩倉邸行幸』の明治天皇の顔にしても、手を合わせて拝む岩倉には見えていない。岩倉の背後には彼の背中を支えている家内がいるが、彼女も俯いているために天皇の顔を見ていない。そして、もし仮に死にゆく岩倉と天皇が目を合わせてしまったならば、そこにある〈素顔〉は隠されてしまうだろう。北蓮蔵の想像力によって壁画として描かれるまで、天皇の〈素顔〉はだれも見ることができなかった。〈素顔〉とは自分で見ることもできなければ、他人にすら見ることができないかもしれないが、しかし確実に存在する表情なのだ。私たちはその〈見えない顔〉を見る想像力をこそ、近代日本の優れた表現として見出さなければならない。

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