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世界認識のバリエーション――桜庭一樹はなぜ「世界」を「せかい」と表記するのか

桜庭一樹はしばしば「世界」を「せかい」と表記する。05年の『ブルースカイ』では最後の一文に「せかい」が使われ、日本推理作家協会賞を受賞した06年の『赤朽葉家の伝説』(以下『赤朽葉』)の結末部でも「ようこそ。ビューティフルワードルへ。悩み多きこのせかいへ」と印象的な文章で「せかい」という表記が用いられる。このことは単なる偶然ではない。

同じく06年の『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(以下『七竈』)の冒頭では、主人公・七竈の心情が「おとなの男たちからじろじろと眺めまわされるたびにわたしは怒りをかんじる。母に。世界に」と語られ、「せかい」ではなく「世界」が用いられているが、したがってここでは世界をめぐるこのふたつの表記のあいだには大きな差異が存在すると考える。それはいったいどういうものか。

本稿では、桜庭一樹の作品群を貫く独特の言語感覚を読み解くことで、桜庭にとって「世界」と「せかい」が区分されなければならないことの意味を考える。そしてその区分こそが桜庭一樹の世界認識を浮き彫りにするものであることを論じる。

 

桜庭の言語感覚の特質は、まずその登場人物への名づけにみることができる。主要人物の名前をいくつか挙げてみるだけでも、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(04年。以下『砂糖菓子』)の海野藻屑、『私の男』(07年)の腐野花、『無花果とムーン』(12年)の前嶋月夜といったように虚構性の強い名づけがされている。桜庭はライトノベルを出自に持つ作家だが、直木賞受賞作の『私の男』以降にも特異な名づけが行われていることから伺えるように、それはあるジャンルに要請されて行われているのではない。

さらに桜庭の場合、異様な名前を持つ人物と平凡な名前を持つ人物が作中に同居する特徴も併せ持つ。たとえば『砂糖菓子』の主人公・山田なぎさは自分が住む鳥取の港町の平凡さと自らの平凡さとを重ねてみており、そのことによって都会から引っ越してきた海野藻屑の異様さがより強調されることとなる。ライトノベルなどオタク系コンテンツに氾濫するキャラ付けのためのネーミングとは異なり、桜庭作品の登場人物たちはみずからの名前の異様さに自覚的であるし、そうでなければならないのだ。

桜庭作品において名前をめぐる問題はさまざまな形であらわれる。たとえば『赤朽葉』では赤朽葉泪、赤朽葉毛毬といった人物が登場するが、(旧字体が使えないという理由で)戸籍には波太、万里と平凡な名前を記載されている。泪、毛毬のほうの名は戸籍には記載されない単なる呼び名にすぎないのだが、舞台となる紅緑村では戸籍上の名前は一切使われず、むしろ呼び名こそが彼らの人生を宿命づけることとなる。

08年の『ファミリー・ポートレイト』でも同様の問題が内在している。主人公の母娘にはそれぞれ眞子と駒子という名前が与えられているが、作中ではしばしば「マコ」「コマコ」とたがいを呼び合い、そのことが駒子に「自分はマコの娘(=小さなマコ=小マコ=コマコ)なのだ」という自覚を脅迫的に植えつけている。また『私の男』では、主人公・腐野花は父との近親相姦という逃れがたい宿命から離れるために、平凡な男・尾崎美郎と結婚する(=苗字を変える)。このように、桜庭一樹の作品は登場人物への名づけをめぐって宿命との分かち難い関係を幾度となく露呈させているのである。

ひとつの仮説を立てよう。『赤朽葉』は日本戦後史を通じて赤朽葉家という一族の栄枯盛衰を辿る物語だが、この作品において分離したふたつの名前(戸籍上の名前と呼び名)は、それぞれが「世界」と「せかい」に対応する。「せかい」が一族内の(また一族の圏域である紅緑村の)ことであるならば、「世界」とはその外側のことであり、したがって外の世界で用いられる戸籍上の名は「せかい」(=紅緑村)では使われないし、毛毬などの呼び名は紅緑村の外側では有効性を喪失するのである(作中、毛毬は全国にその名が二度知られることとなるが、一度目は暴走族の女総長として、二度目は人気漫画家としてであり、いずれも虚構的な存在としてでしかその名を認知されることはない)。そしてこの仮説は桜庭作品におけるもうひとつの問題、すなわち「少女」をめぐる問いと関係する。どういうことか。

桜庭作品において「少女」が象徴的なモチーフであることは明白である。主人公の大半が少女であり、作品のタイトルにも『推定少女』(04年)、『少女には向かない職業』(05年)など「少女」が好んで使われている(直木賞受賞を記念して刊行されたファンブックの副題も『物語る少女と野獣』だった)。15年の『ほんとうの花を見せにきた』に至っては、主人公の少年・梗はその保護者となるふたりの男性のもとで女装させられ、少女・南子として育てられる。なぜ桜庭はここまで少女にこだわるのか。それは少女という存在が「犯される」危険を抱え込む性であるからだ。

作家の橋本治は少女マンガ評論『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』において、少年の性と少女の性の違いを「“犯される”という事態に関りえるか否か」にみているが、なぜそのような違いが生じるかといえば、少女にとって男性から犯されるという事態は「不慮の災難であって、少女自身にそれを予測し、万全の態勢をもって回避するということは不可能である」からだ。桜庭作品では、性的暴行から逃れるために義父を弓矢で射抜く『推定少女』の主人公・巣篭カナがそのような人物として先駆的に描かれているし、『私の男』の腐野花が苗字を変えて父親から逃れることができるようになったのは、大人になり自分の力で金を稼げるようになった後だった。少女でいるかぎり彼女たちはつねに男性性に怯えるほかない存在なのだ。

『ほんとうの花を見せにきた』で梗=南子の保護者となるふたりの男性の関係が同性愛的に描かれているのも、おそらくはそのためである。彼らがもしヘテロセクシャルな大人の男性であったなら、南子との関係は『私の男』の父娘のような禁忌の領域に踏み入れていただろう。そうならなかったのはふたりがともに男性性を欠いた存在だったからだ。そのことを証明するように、大人になり男性として生きるようになった梗は、かつて彼らと過ごした日々を撮影したフィルムを偶然発見し、そこに映るふたりを見て「この青年はこんなに若かったのか」と驚きをみせる。少女だった自分を優しく包み込んでいたのは、男性性を象徴する大人の男たちではなく、「まるでまだ少年と青年の間みたいに見える」男性性を欠いたか弱き青年たちであったのだ。

凌辱に怯える少女とふたりのか弱き青年たちのあいだに芽生えた「せかい」は、少女・南子が大人の男性・梗に成長することで崩壊し、梗は「世界」のなかで生きるようになった。『私の男』の腐野花は父との共犯的な近親相姦の「せかい」から離れ、平凡な男とともに「世界」で生きていくことを選んだ。『赤朽葉』の一族は鳥取の紅緑村という「せかい」で戦後の日本をなんとか生き延びてきたが、その歴史もおそらくやがては東京を中心とする「世界」に飲み込まれることとなるだろう……。

ここまでの議論を整理する。冒頭で引用した『七竈』の心情を思い出してほしい。七竈が怒りをかんじる「世界」とは、少女が対峙する男性性(犯す性)のことであり、少女が大人の女性になったときに直面する平凡な社会を意味する。そして「せかい」とは少女性(犯される性)のことであり、少女期にしか存在しないきわめて限定された領域を意味する。桜庭作品の登場人物たちは揃って後者の「せかい」に属しており、その宿命は彼女たちの名前(巣篭カナ、海野藻屑、腐野花……)にも宿されている。

『砂糖菓子』以降の桜庭が一貫して(都会ではなく)地方を舞台としていることについても、この「世界/せかい」の区分から指摘しておく必要があるだろう。文芸批評家の福嶋亮大は近年の日本文学において地方都市の生態を扱った作品が「うつろな活況」を呈していることに対して、それらは所詮「文学の利権や読者の集まる首都(東京)の慰みものになるだけ」と批判しているが、では桜庭はどうだろうか。桜庭にとっての「せかい」とは、首都という「世界」の慰みものにならない(犯されない)ための領域ではないだろうか。

福嶋は先の批判につづけて、「日本の物語の主要な神話素である光や性を掘り当て、それらをいっそう過激化した」中上健次を評価しているが、福嶋がとりわけ『鳳仙花』に着目し、「この小説のなかで、中上は日本文学における最も不浄かつ不気味なモノ、すなわち「血」を光の充溢のなかに溶け込ませることによって、作品世界に不吉な予感を生じさせていた」と論じているのは興味深い。中上の代表作『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』三部作は主人公の秋幸と父・龍造の対立の物語だが、『鳳仙花』は秋幸の母・フサの少女期を描いた作品である。男性性ではなく、少女性にこそ不吉な予感は宿る――桜庭一樹は「少女」というモチーフの反復によって、少女期のフサが孕むこの「不吉な予感」をみずからの作品内に生じさせようとしたのではないだろうか。

『赤朽葉』の紅緑村=「せかい」は、東京を中心とする日本戦後史が必然的に産み落としたもうひとつの世界認識であり、いわば「世界」を映し出す鏡のようなものである。したがってそれは(「世界」がたったひとつしかない絶対的な存在であるのとは対照的に)複数存在し得るのであり、桜庭一樹の作品はすべてこの鏡のバリエーションであるといってよい。ライトノベルも一般文芸も、SFもミステリも特定のジャンルに関係なく書きつづける桜庭一樹の多様性は、ときに朽ち、ときに腐り、それぞれの歪みを内包しつつ私たちの置かれた「世界」を映し出す、世界認識の変奏(バリエーション)なのだ。

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